目覚まし代わりに
海の中を漂うような、まどろみの意識が一気に浮上すると、耳に心地良く馴染む声が呼びかけてくる。眠りと目覚めの端境にあっても愛しい恋人の気配には敏感で、例え目を閉じていても、小日向がどんな顔で俺を見つめているか想像は容易い。俺の名前を呼びながら、起きて下さいと掴んだ腕を軽く揺さぶっていることに気付き、もっと色気のある起こし方は無いのかと・・・半ば呆れた溜息を喉元で堪えた。
昼食を一緒に取る約束をしていた森の広場へ、少し早めに到着した東金千秋が、芝生に腰を下ろしながら瞳を閉じ、木陰の幹に身体を預けていた。「アンサンブルの練習が長引いてしまい、少し遅れる」と、メールを寄こしてきた小日向へ「急いで転ぶなよ。待っててやるから、ゆっくり来い」と返事を送信して・・・。そこまでは覚えているのに、後の記憶が途切れているということは、知らぬうちにうたた寝をしていたのだろう。
ソロのファイナルが終わったとはいえ、俺らしくねぇな。だが心の中は不思議と穏やかな気持ちに溢れていて、知らぬうちに頬が緩んでいる自分に気付く。
「・・・さん、東金さん? あのっ、起きて下さい〜」
「・・・・・・・・・・」
「ど、どうしよう〜疲れているのなら寝かせておいた方が良いのかな? でもお弁当を作ってきたから一緒に食べたいし。このまま寝顔をもうちょっと、眺めていたい気もするけど・・・ん〜迷うなぁ」
涼しい木陰でお昼寝したら気持ち良さそうですよねと、昨日もここで一緒に昼食をとった小日向が、無邪気に笑った顔がふと浮かんだからだ。キスで起こしてやるから、俺の膝を貸すぜ?と、食後の満腹感で眠そうな瞳をからかえば、真っ赤な茹で蛸に染まりながら頬を膨らます。結局は膝ではなく、俺の肩にもたれかかるという方法で、妥協したが・・・俺もどうせなら本物のお前に、目覚めのキスの一つでもして欲しいところだぜ。
だがもしも俺が眠っていたら、お前はどうやって俺を起こしてくれるのか興味がある。ならば、ここで試してみる価値はあるな。すぐに目を開けようかと思ったが、しばらくこのままでいるもの面白そうだ。
「フフッ、寝顔は可愛いなぁ。わ〜!良く見ると睫毛長い・・・じっと見つめていると吸い込まれちゃいそう。そっか、私がうたた寝しているときに、東金さんがチュッとキスしてくる気持ちが、分かる気がするなぁ。」
「・・・・・・・・・・・」
「東金さん、本当に眠ってるんですか? まさか寝たふり・・・じゃないですよね? 寝ているならその・・・キスしちゃいますよ?」
おいおい、心の中の独り言が全部聞こえてるぜ? 寝込みを襲うなんて大胆だなと、すぐに目を開けてからかいたいが、小日向が積極的に俺を求めてくれる貴重なチャンスを、みすみす逃すわけにはいかない。いつもは恥ずかしがるのに積極的なのは、俺が眠っていると信じているからだろう。
足元の芝生がカサリと音が響き、木陰の風が優しい香りを運んでくるから、そっと身を屈めながら頬に唇を近づけているのだと、目を瞑っていても分かる。今頃は頬を赤く染めながら、耳から聞こえる鼓動を宥めつつ、じっと俺の顔を見つめているに違いない。しかも緊張で震える小日向の甘い吐息が、触れるか触れないかの微妙な近さでくすぐるから、余計に鼓動が駆けだしちまうじゃねぇか。
魅入ったように視線を捕らわれた小日向が、動くことも出来ずにじっと見つめる先は、来いよと誘うように薄く開かれた唇。指先でそっと輪郭を撫でる指先を、今すぐ腕ごと掴んでしまいたい衝動と、東金が密かに戦っているなど・・・。恥ずかしさで頬を桃色に染めたまま、耳から聞こえる鼓動と呼吸を整えるのに精一杯な小日向は気付くことがない。
芝生に膝立ちをすると、東金の広い両肩に置いた手を支えに背伸びをする。指先に小さな力が籠もると、起こさないように気を配りながら身を屈めるように、そっと唇へ重ねてゆく。だが遠くへ人の気配を感じる度にぴくりと身体が飛び跳ね、慌てて離れる・・・そして暫くするとまた近付いてを何度繰り返しただろう。
目を閉じているから余計に強く感じる、お前の甘い吐息と温もりが、離れる度に見えない心の腕で引き戻す。触れそうで触れない追いかけっこを繰り返す度に、心の中は早く来いよと熱くざわめき出すばかりだ。今すぐに目を開けて、思うままに貪りたい・・・だが、もう限界だな。じっと受け止めるのが、こんなにも辛いとは想わなかったぜ。
「揺すっても起きなかったし、キスでも起きなかったらこのまま寝かせてあげよう・・・うん。私の肩だと身長低いから、寄りかかるには東金さんが疲れちゃうかな? でもお膝枕は、森の広場だと恥ずかしいし。東金さん、お願いだから起きて下さい〜」
「・・・・・・・・・・・・」
「えっと、おはようございます東金さん。朝ですよ?」
周りに人の気配が無いことを、きょろきょろ伺う小日向が、胸に手を当てながら深呼吸で気持ちを落ち着けている。耳から聞こえる飛び出しそうな鼓動を押さえながら、恥ずかしさでいっぱいなのに心は求めて逸りだす。今がチャンスとばかりに、いそいそと距離を詰める膝立ちの音が芝生を揺らし、瞼を閉じている東金をじっと見つめる自分も目を閉じて。掴んだ二の腕を支えに背伸びをした唇は、そっと頬を啄んだ。
「・・・・・・っ!」
「これじゃぁ新婚さんの朝みたい・・・って、きゃっ!」
「遅いぞ小日向、いつまで待たせるんだ。あんまり俺を焦らすなよ?」
触れる唇と一緒に甘く溶け合い響く、高鳴る鼓動のアンサンブル。しがみつく指先からが甘い痺れが駆け巡り、羞恥と緊張で微かに震える吐息に、理性が焦がされそうになる。頬に小さく触れた柔らかな優しいキスは、一瞬で身体を沸騰させ、朝の熱いシャワーよりも目覚めは強力だ。
小さく触れたささやかな温もりを離したくはない・・・もっと欲しくなる。秘密のキスをするのに精一杯の小日向は、俺が背中へ手を回していることに気付かない。名残惜しげにそっと唇が頬から離れた隙を逃さず、捕らえた腰を引き寄せ腕の中へ閉じ込めた。驚きに目を見開き振り仰ぐ唇が何か言おうとするよりも早く、ニヤリと笑みを向けながら、今度は俺からもお返しのキスを深く心の求めるままに。じっと耐えて我慢をしてきた反動は、大きいぜ?
「東金さん、いつから起きてたんですか!?」
「腕を激しく揺さぶりながら起こしたときは、色気の無さに溜息が出そうになったが・・・目覚めのキスにはドキッとしたぜ。だが頬を軽く啄む程度じゃ、俺を起こすのには足りねぇな」
「私がキスする前から起きてたんですね! 寝たふりなんて、イジワルです。からかうなら、もうキスしませんからねっ」
「可愛い顔して、むくれるな。俺の寝顔に見とれるのは構わねぇが、甘い吐息をじっと受け止めていた俺の我慢も褒めて欲しいぜ。そうやって拗ねても、俺を求めずにはいられなくなる・・・違うか」
「うっ・・・」
言葉を詰まらせた小日向の顔が、見る間に赤く染まってゆく。もうこれ以上は染まらないくらいに茹で上がると、今度は行き場のない熱が瞳を潤ませ、甘い滴を湛えた眼差しがすがるように見つめてくる。積極的に迫っておきながら、そうやって可愛い顔するのは反則だろう。俺から何度でもお前の唇を・・・いや、お前ごと力づく手欲しくなっちまう。
お前のキスがあれば、どんな目覚ましも必要ねぇ。いや、お前ごとふたたびベッドに引き戻しかねないがな。
「だがさすがに時間が掛かりすぎだ。お前がもたもたしてたら、慌ただしい朝に俺が寝過ごしちまうだろう。という訳で、やり直しだ。上達には、何事も練習が必要だからな」
「そんな・・・おはようのキスを練習するなんて、聞いたことないですよ! はっ、恥ずかしいです」
「お前が神戸にきたら毎日するんだ、早めに慣れた方が良いだろう。ちなみに頬じゃなくて、唇だ。身体を熱く火照らせる熱で、俺を起こすほどのヤツを頼むぜ」
「じゃぁ、します・・・でも東金さんも約束して下さい」
「約束?」
眉根を寄せながらオウム返しに問いかけると、唇をきゅっと噛みしめ制服のスカートを握り締めながらコクンと頷いた。脚の間に捕らわれるように向かい合ったまま、腕の中に収まる小日向が、背伸びをして耳元へ内緒話を囁きかけてくる。二人だけしかいないのだから、別に内緒話も無いだろう。だが胸の奥が熱く疼くのはこれが、お前がいうところの「とっておきの秘密」だからなのだろう。
「私が居ないところでその・・・あんまり寝顔を晒さないで下さい。だって凄く素敵だから、絶対に触れたくなっちゃうんだもの」
「分かった、俺の寝顔はお前だけのものだ。キスの悪戯なら大歓迎だぜ。だが小日向も約束しろよ? いくら心地が良いとはいえ、どうしてお前は人目につきやすい場所で寝顔を晒すんだ・・・まったく、無防備にもほどがあるぜ。いいか約束しろ、寝顔を晒すのは俺の腕の中だけにしろ」
菩提樹寮のラウンジや森の広場など・・・無防備にうたた寝をする小日向のあどけない寝顔に誘われて、目覚めのキスで起こすことがある。俺が傍にいるのが分かるのか、頬に触れれば幸せそうに微笑む唇に吸い寄せられ、眠りを守りたいと思いながらも気付けばキスで軽く啄んでいて。起こすつもりは無かったが、くすぐったさに目覚めた小日向が驚き、真っ赤に火を噴き出して恥ずかしがるのがいつものパターンだ。
誰かに見られたらどうするのかとお前は慌てるが、別に俺は構わないぜ? なんて冗談だ、ここは森の広場ののなかでも、特に人目に付かない場所だと、お前が教えてくれたんだぜ? 最高に贅沢な目覚めとは、瞼を開いた一番最初にお前が俺を瞳に映すことだ。
約束しますと頷く瞳へ微笑みかけると、向かい合う小日向を膝乗せたまま瞼を閉じる。降ろして下さいと身動いでも、俺を満足させる目覚めのキスが出来るまでは離さないから、覚悟しろよ?