メトロノーム
コツコツコツ・・・。心も身体も音楽も、一つに溶け合うひとときには、絶え間なく規則正しいリズムを刻むメトロノームに乗せて、俺たちは心のヴァイオリンを奏でるんだ。甘く優しいドルチェで歌う、恋の歌。だがメトロノームは同じテンポを保つことが出来ず、些細なきっかけで早く駆けたかと思えば、再び穏やかな歩みを取り戻す。
白いシーツの波にふわふわ埋もれる君の瞼は、さざ波に揺られ閉じたり薄く開いたり。ふいに落ちてしまう眠りと目覚めを行きつ戻りつ、まどろみの海に漂っている。穏やかな眠りに入るまであともう少しだなと、あどけない表情に魅入っていたが、ふいに何かを思いだしたらしく、ぱっちり瞳を開き目覚めてしまった。
一度目が目が覚めてしまえば、もうしばらくは眠りから遠ざかってしまいそうだな。眠さが吹き飛ぶほどの楽しい事を思いついたのだろう。行動せずにはいられないから、じっとしていられないのだという興奮と、期待に高まる瞳の輝きを見れば分かる。どんな楽しみを見つけたのか、俺にも教えてくれないか?
俺の腕を枕に横たわっていた香穂子が小さく笑い、とっておきの秘密を俺だけに語るように口元を寄せ、耳元を甘い吐息でくすぐった。あのね・・・と、囁く瞳がすぐ近くで笑うと上半身を起こし、甘える子猫のように擦り寄りながら胸の上によじ登ってくる。まだ少し汗ばむ素肌の胸にしがみつき、耳を当てている香穂子は、音が聞こえるよとそう言って瞳を閉じ静かに黙ってしまった。疲れが襲い眠ってしまったのだろうかと首を巡らせれば、穏やかな微笑みを浮かべたままの、緩んだ口元から心地良さそうに口ずさむ歌が聞こえてくる。
コツコツコツ・・・と、最初は鼓動のリズムに合わせ規則正しく。自分の中にリズムを溶け込ませた後は、俺の鼓動というたった一つのメトロノームをリズムに刻み、彼女の心から沸き上がる名も無きメロディーを歌うんだ。その時の気分によって違うのだろう、聞いたことのあるメロディーもあれば、その場の即興など初めて聞く曲もたくさんある。
優しく穏やかで、温かい・・・日だまりやバスタブに浸っているような心地良さは、このままもっと聞いていたくなるな。
奏でるヴァイオリンと同じく、心から生まれる彼女の音楽全てが愛しいのだと、思わずにいられない。
だが素肌の上をくすぐる悪戯な髪の毛や、甘い吐息が耐えきれず小さく身をよじれば、頬を寄せていた顔をちょこんと起こし、頬を膨らませてしまうんだ。ぴたぴたと胸を叩きながら、じっとしていて欲しいのだとせがみ、メッと俺を諫める眼差しの可愛らしさに心も瞳も奪われ動きを止める一瞬。互いに吸い付き、蕩ける素肌と温もりを感じながら、大人しくじっとしているのは我慢と忍耐の戦いなのだと、どうしたら君に伝えられるだろうか。
困ってしまうのは俺の方なんだが・・・と苦笑しても、どうして?と心底不思議そうに小首を傾げられたら、もう俺に勝ち目はない。君に頼まれると嫌とは言えないのは、惚れた弱みというものなのだろう。それに・・・ついさっきまで激しい波に飲み込み翻弄させ、気を失うくらいに疲れさせたのは俺なのだし。せめて今は、彼女の心地良いひとときを大切にしよたいと思う。出来る限り君の希望に添うように努力するが、どこまで穏やかさを保っていられるか・・・約束は出来ないのは許して欲しい。
「トクトクトク・・・あっ! ほらメトロノームが早くなったよ。ねぇ蓮、お願いだからじっとしていて欲しいな、歌が歌えないよ」
「無茶を言わないでくれ。香穂子がくすぐったり、わざとじゃれたり悪戯をするからだ。君に触れずにいるだけでも、充分に俺は大人しくしていると思うんだが」
「ふふっ、だって嬉しいんだもん。私ね、心臓の音が聞こえるここが一番安心するの。広くて温かい蓮の腕の中が大好き」
「ならば、ずっと君を抱きしめていようか。眠っている間も・・・目覚める朝までずっと」
「ありがとう、蓮の鼓動は私の子守歌だから気持ち良く眠れそうだよ。胸に耳を当てると聞こえる心臓の音は、私だけのメトロノームなの。穏やかな時もドキドキしている想いも、みんなみんな伝えてくれるから、鼓動に合わせて私も歌うの。蓮の心に、私の想いも真っ直ぐ届きますようにってね」
くすぐったさに笑ってしまうと、振動で香穂子を振り落としてしまうから、気をつけなくてはいけないな。ゆるゆると腕を持ち上げ、右腕でそっと背中を抱きしめると、左手は花の香りがするしなやかな髪に絡め、ゆっくり撫で梳いてゆく。髪に触れられるのが心地良いと言っていたから、ほら。君の表情が幸せそうに緩めば、触れる胸から感じる鼓動も穏やかなリズムに変わるんだ。
俺にも君のメトロノームが聞こえる、抱きしめて触れ合う身体越しに感じる君の鼓動が。胸の鼓動が早くなったのは俺だけでなく、香穂子もだろう? そう言うと頬が桃色に染まり、違うもんと強気で言い張りながら瞳を潤ませ、ぎゅっと俺の胸にしがみついてしまった。トクトクトク・・・ほら、メトロノームがアンダンテからアレグロに変わってゆくから、照れ隠しだと分かるんだ。そんな君が可愛らしくて抱きしめたい想いが募れば、俺の鼓動も追いかけるように早さを増してゆく。
君の温もりに包まれている・・・俺のすぐ傍で生きてくれている事は、最も大切で大きな幸せだと思う。だからもっと聞かせて欲しい、心で奏でる音楽を。愛しさのまま瞳を緩め、香穂子と優しく名を呼べば、見つめ合い蕩けてゆく眼差しや微笑みと共に、いつしか穏やかな早さに戻ってゆくのが不思議だな。
俺のメトロノームで奏でる香穂子の歌声が温かな光となり、胸の奥を震わせる。透明な滴となり心に染み込めば、想いの芽吹きが大きく膨らみ、愛の花を盛るんだ。
「香穂子の音楽が、俺は好きだ。ヴァイオリンも、こうして歌う優しい歌声も、もっと聞かせて欲しい。日だまりに身を浸すように心地良いから、このまま眠ってしまいそうだ」
「じゃぁ蓮の為にこれから毎晩、胸の鼓動に合わせて子守歌を歌ってあげるね。ふふっ、私お母さんみたい」
「そういう香穂子こそ寝付きが良いから、いつもまっ先に眠ってしまうだろう?」
「そっ、それは・・・。蓮が弾いてくれるヴァイオリンがとっても気持ち良いからだよ。特にね、左手のヴィヴラートが、うっとり夢の中へ蕩けそうなの。ほら、感情を伝えるヴィヴラートは、弦楽奏者にとっては大切でしょう?」
頬を寄せていた胸の上にちょこんと顔を上げると、身を乗り出すようにじっと見つめる大きな瞳に、吸い込まれそうになる。そうだなと緩めた眼差しで微笑み、止めていた左手を再びしなやかな髪に絡め、穏やかな呼吸と眠りを導く早さで撫で梳いてゆく。君は俺のメトロノームで歌うのなら、俺は君の鼓動が刻むメトロノームに合わせ、抱きしめた身体のヴァイオリンを奏でよう。
右腕のボウイングで強く優しく、そして左手のヴィヴラートは髪に絡め、次第に首筋から背中へと滑り落ちて深く激しく。時折悪戯に啄む軽やかなキスは、心の弦を楽しげに弾くピチカートだ。
「んっ・・・やっ。ちょっと、蓮ってば・・・もう駄目!」
「・・・すまない、これ以上じっとしているのは、もう限界だ。ドルチェな歌の時間は終わりだな」
優しいく穏やかに、そして無邪気にじゃれ合いえばほら、君も俺もメトロノームがアンダンテからアレグロへ。呼吸も浅く速く互いを求め合えば、更に高鳴るヴィヴァーチェへ変わってきたのが分かるだろうか? 身をよじりながら抜け出そうとする柔らかな身体を逃がさないように閉じ込めると、抱き込みながらくるりと反転させ覆い被さる。もう駄目なの・・・と困ったように俺を見つめる瞳に最後の理性は崩れ去り、笑みを浮かべたままの唇を深く重ねた。
甘く可愛らしいドルチェから、情熱のアパッショナートへ、鼓動も身体も指先も・・・奏でる旋律全てが熱を増す。ならば俺も再び情熱の歌を奏でようか、君だけに捧げる愛の歌を。メトロノームが気にならなくなるくらい、互いだけを見つめ、共に心と身体の音色を重ね合おう。