目一杯、背伸び中




菩提樹寮近くにあるスタジオでの練習が終わり、今日も満足な演奏の出来だったと、ご機嫌な東金千秋を小日向かなでも笑顔で振り仰ぐ。だが壁に掛かった時計に視線を送り、もう終わりなんですね、もっと一緒に音を合わせたかったと・・・。ヴァイオリンを抱き締めながら、残念そうにしょげるもののすぐに笑顔を浮かべ直して。楽器を片付けようと、踵を返しかけた小日向の腕を、東金が引き寄せた。

引き寄せられた反動で、思わずよろけかけた身体を咄嗟に支え、どちらともなくほっと安堵の一息。受け止める胸から振り仰ぎ、「千秋さん?」と不思議そうに小首を傾ける、眼差しと唇に吸い寄せられる。。二人きりの時間が終わりなのが残念なのは、俺も同じなんだぜ?


「んっ・・・」


唇を小さく啄んだ不意打ちのキスが、名残惜しげにそっと離れた。ゆっくりと離れる唇とは正反対に、鼻先が触れ合う近さで留まったまま、互いの吐息は求めるように甘く深く絡まり合う。大きな瞳をぱちくりと瞬きさせながら見開くお前は、何があったのか一瞬の出来事に驚いているんだろう。


時間差でようやく気付き、ぼっと火を噴き出す真っ赤な顔に苦笑すると、指先で顎を捕らえ上向かせた。お前にもう一度俺を刻み込んでやるから、今度はちゃんと受け止めろよ? 息を潜める光の泉を覗き込みながら、身を屈めて鼻先を傾けると、今度はゆっくりと確かにキスを重ねてゆく。

すると鼻腔をくすぐるのは、心地良さに蕩ける気持ちごと優しく包む、柑橘系の爽やかな香り。


「香水? いや違う、整髪料だろう。イイ香りだな、これはオレンジか。そして最後に残るのは、ほのかなシャボンの香り・・・」
「気付いてくれたんですね、そうなんですよ。あの・・・千秋さん、お風呂上がりの石鹸の香りって好きですか?」
「は? 大胆だな。俺を誘っているのか? いいぜ、なんならこの後、二人きりで温泉にでも行くか」
「ち、違います! そういう意味じゃ無いんです。千秋さんは何を好きか考えて・・・考えて、考えて。男の人はサラサラの髪と、お風呂上がりの石鹸の香り好きだって、雑誌に載っていたから・・・千秋さんはどうなのかなって、知りたかったんです」


羞恥で顔を赤く染めながらも、強い意志を宿した瞳で俺を射貫く。好きだから好きになって欲しい・・・音楽も中身も、外見も。
だからいつもより、ちょっとだけ勇気を出してみたのだと。潤み始めた瞳から涙を零さないように、唇を強く噛みしめ小さく俯いた。胸の中で俺のシャツをきゅっと握り締めながら、もう一度振り仰ぎ、からかわないで欲しいと、切実に訴える想いが心を熱く揺さぶる。


「全く、不意打ちで可愛いことばかりするんだな、お前は。火が着いちまったら、責任取れよ?」


嬉しさと愛しさで緩む気持ちを抑えきれないまま、頬をそっと包み込む。気持ちを落ち着けるには、触れ合う肌から温もりを伝えるのが一番だ。俺はいつでもお前に本気だぜ、出来ることならこのまま寮に返したくないんだが。そう告げながら、しっとり吸い付く頬を手の平で受け止めれば、ほうっと零れる吐息と共に火照り出した。


「俺が好きなオレンジの香りを身に纏うとは、ずいぶん意味深じゃねぇか。俺に食べて欲しいのか? 風呂上がりの石鹸の香りは、お前にピッタリだぜ」
「もしかして、子供っぽいって思ってませんか? 大人な香水じゃ背伸びをしているから、お前にはシャボンの香りで充分だって・・・」
「ばか、何を泣きそうになっているんだ。嫌いじゃないって、言っただろう。笑ったと思ったら急にしょげかえる・・・くるくる動くお前の顔を見ていると、飽きないぜ」


泣きそうに瞳を潤ませる、かなでのしなやかな髪に指先を絡め、頭を胸に抱き寄せる。穏やかな呼吸を導くように、甘い旋律を奏でるように撫で梳くと、確かに指に絡む髪の通りも、いつもより心地良い・・・ずっと触っていたくなる。大人な香りを纏って背伸びをしたいだけかと思ったが、変わったのは香りだけじゃなさそうだな。


馬鹿・・・と囁く吐息は、注ぐ微笑みと同じくらいに甘く優しい。響きの中に感じ取った想いに、引き締まった胸に顔を預けていたかなでも、ちょこんと腕の中で振り仰ぐ。あやすように額へそっと押し当てたキスに、小さくはにかむお前も腕の中から背伸びをして、頬に返してくれる可愛いキス。どうやら、機嫌は直ったみたいだな。


「トップノートで香るオレンジの、爽やかさが、熱と時間で少しずつ変わり、ラストでは仄かに香るシャボンになる・・・。思わずドキッとしたぜ、風呂上がりのお前を想像しちまうくらいにな」
「千秋さん・・・」
「男が好きな香りか・・・確かにそうかもな。まぁ個人の好みはあると思うが、身体の奥に潜む本能を掻き立てられるぜ」
「えっ、つまりそれは、どういう・・・?」
「このままキスで熱くお前を溶かしたい。“したくなる”ってコトだよ」
「・・・! もう、エッチな想像しないで下さい〜」


羞恥で泣きそうに瞳を潤ませながら、今にも火を噴き出しそうな茹で蛸に染まる、真っ赤な顔。千秋さんのイジワル、と告げたっきり黙ってしまったのは、見えない湯気を全身から噴き出し、もう言葉も出ないのだろう。はっと我に返ると、腕の中から抜け出し、スタジオの隅に置いてあった楽器ケースへと走り去ってしまう。


相変わらず純情だな、言葉だけで茹で上がるようじゃ、この先の道のりはまだ遠いか? あんまり俺を焦らすなよ?
安心させたいから冗談だと言ってやりたいが、残念ながらそんな余裕はねぇんだ。逸る気持ちを、ぎりぎりの理性で押さえながら歩み寄り、背後からそっと抱き包む。


ぴくりと跳ねた小さな身体を逃がさないように、腕の戒めに力を込めながら、首を回し頬に触れる。すっぽりと身体の中に収まるかなでは、持っていたヴァイオリンをケースに置くと、胸の前で両手を握り締めている。離して下さい、と小さな抵抗を示すが、大人しく収まっているのは嫌いではないから。お前も、心の底では俺を求めているから、そう信じても良いんだろう?



「香りで俺を引き寄せて、こうして触れて欲しかったんだろう? 違うか」
「違わない・・・です。触れて欲しいというか、ぴっとり寄り添いたいとは思っていましたけど・・・」
「甘いな。好きな女を相手に、男がそれだけで満足すると思うなよ? 俺だって例外じゃ無いぜ」
「えっ! そ・・・そんな私、心の準備がまだ・・・」
「・・・といいたいが、お前が良いと言うまで俺は待っててやる。安心しろ」


挑発に負けてコクンと頷いたかなでが、悪戯が見つかった子供のような瞳で、肩越しに振り返った。あの・・・そのと、口籠もるじれったさを耐えながら、お前が心にある想いを言葉にするまで、じっと待つ。素直におねだりするには恥ずかしかったのだと、予想通りに、上目遣いで白状する小さな企み。どうした、まだ何かあるのか?


「やっぱり、天使の惚れ薬の効果があったのかなぁ」
「は? 天使の惚れ薬?」
「このヘアオイルには、アンジェリカという名前のハーブが配合されているんです。ハートを温めて幸せな雰囲気にしてくれるから、天使の惚れ薬って言われているそうなんですよ。あのっ、香りとサラサラ感でちょっぴり背伸びしたい気持ちはあったんですけど。その、千秋さんに惚れ薬の効果を試そうとか、思ってませんからね!」
「お前は嘘吐くのが下手だから、すぐに分かる。効果も何も、俺はお前に惚れているんだ。お前に惚れている俺に使っても、惚れ薬の意味は無いだろうが。そんなもの使わなくたって、お前の願いならいつでも抱き締めてやるぜ」


菩提樹寮に戻れば、二人きりの時間が難しくなる。だから、誰にも邪魔されない練習スタジオの空間は、いつもよりお互いを求め合い、少しだけ素直になれるんだと思う。願い通りに、オレンジなったお前を食べてやるよ・・・そう甘く囁き唇にしっとり重ねるキスを。今日のキスは蕩けるな、美味くて止まらねぇ・・・。


しかし、さっきからずっと鼓動が早いままだな。そろそろ落ち着いたらどうだ? 熱さが俺にまで移っちまうじゃねぇか。

落ち着くなんて無理ですと、ふるふる頭を振りながらしがみつく、その鼓動が教えてくれる。恋をすると嬉しくて幸せな気持ちが溢れてる。だが時々、寂しさや嫉妬だったり悲しい気持ちも溢れてくる。そう・・・恋をする胸の中はとっても忙しいのだと。