またひとつ惚れ直した



大切に思う気持ちや心から溢れる愛しさ、君が好きだという想いは、化学や数式のように理屈で答えられるものではない。君がいて俺がいる1+1は2ではなく、無限の広がりと可能性を見せてくれるんだ。恋する方法を知らなくても、たった一人の誰かを好きになり、恋をすることができる。俺には縁が無いと思っていたが、人は誰もが生まれながらに知っていたんだな。

気付くといつも香穂子が奏でるヴァイオリンの音や、君の姿を探している。真っ直ぐ向けられた笑顔や交わした一言が頭から離れなくなり、ずっと君のことばかりを考えるようになって・・・。いつしか隣に寄り添う距離が近付くだけで熱く落ち着かなくなり、互いのヴァイオリンを合わせれば、響く音色と同じく優しい気持ちになれる俺がいた。


いつ頃からこんなにも、香穂子の存在が俺の中で大きくなっていたのだろう。恋はするものではなく落ちるものだと聞いたことがあるが、まさにそうだな。道を歩いてたら突然大きな穴へ吸い込まれた、そんな気がする。吸い込まれた穴の先にあった世界は優しい色に包まれ、抱き締められいるように柔らかな感触が心地良い。季節に例えたら足取りも軽くなり、心も身体も宙に羽ばたく春だろうか。


だが温かいだけではなく、時には切なく胸を締め付ける寒さが戻ったり、媚薬のように甘い痺れが背中を駆け上る。制御することの出来ないもどかしい想いの正体が、恋心だと知るまでに随分かかった気がする。

香穂子、君はどうだろうか? 今何を想っているのだろう・・・俺と同じく、自分でも気付かないもどかしさを抱えているのだろうか? 恋をする方法を知っていたように、君の心を知る方法があったらいいと思う。




「反則だよ・・・蓮くん。それ反則なの、ずるいよ」
「反則? 俺が?」 
「私が困るの知っててやるのは、意地悪なんだよ? 毎回ドキドキしていたら、私の心臓が張り裂けちゃいそうだよ」
「すまない、言っている意味が良くわからないんだが。どうしたんだ香穂子、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「熱はあるけど風邪とは違うお熱なの。も〜う蓮くんなんて知らないっ・・・!」


楽譜とCDを借りに俺の家へやってきた香穂子をリビングに招き、お茶を入れるから待っていてくれ・・・と。そう伝えて制服のジャケットを脱ぎ、シャツの両袖を捲っただけなのに、香穂子はたちまち顔を桃色に染めてしまった。ソファーに座った制服の短いスカートから晒される太腿の上で、組んだ両手をきゅっと握り合わせて。タイを緩め襟元も寛げる間にも、そっと注がれる熱い眼差しに戸惑ったは俺の方だというのに。潤みかけた瞳の上目遣いで拗ねたように頬を膨らませながら、反則だとそう言ってじっと俺を見つめるんだ。

耐えきれなくなったのか先に視線を逸らして小さく俯き、組んだ手をもじもじと弄る仕草が可愛らしい。見ている俺までくすぐったくなってしまうのは、彼女の照れ隠しだとつい最近気付いたから。吸い込まれてしまいそうな甘い瞳の上目遣いだって、俺の理性を崩す大きな力を持っているのだと知らないだろうな。


そういえば香穂子は最近、俺と過ごす時間の中で「反則」という言葉をよく使う。その時の君は決まって真っ赤に頬を染め、恥ずかしそうに照れてしまうんだ。キスをしたり抱き締めたりという時ではなく、ほんのささやかな触れ合いや、ふとした俺の行動を食い入るように見つめる香穂子が、見えない湯気を昇らせてしまう。

シャツの裾をきゅっと掴まれながら、桃色の頬で上目遣いに反則だと甘く囁かれば、いつしか君を腕の中に閉じ込めていて。俺の何が反則なのか意味が分からないまま、伝わる熱に理性も思考も蕩けてしまい、やがて甘く熱い蜜へと変わるのはいつもの事だ。


反則というのはルールに背くこと。だが自分の行動を振り返っても、今日はまだキスもしていないし思い当たるところは無い。一体俺がいつ君を困らせたのか、謎は深まるばかりだ。気付いていなければ教えて欲しいし、君が何を心に秘めているのか知りたいと思う。


「君を困らせてしまったのなら心から詫びよう、許して欲しい。だが反則だと拗ねるのは今日だけじゃない。考えたが俺には理由が分からないんだ、頼むから教えてくれないか?」
「駄目っ、駄目だよ・・・凄く恥ずかしいんだもの。聞いたら蓮くん、きっと困っちゃうよ」
「音楽や恋、こうして触れ合う大切な時間・・・反則とは君と俺の間にある、見えないルールに背くことだろう? 真摯で真っ直ぐ、互いを思い遣る心を忘れずに、そして嘘はつかないと、二人でそう決めたじゃないか。黙っていては俺の方が困ってしまう。それこそ反則だろう?」
「うん、そうなんだけど・・・でもね、蓮くんの反則は私たちのお約束とはちょっと違うの」


一緒に暮らし始める新婚さんのお約束みたいだよねと、笑みを浮かべた香穂子は、新婚さんと言った自分の言葉に改めて頬を染めてしまう。頼むからこれ以上、俺の理性を揺さぶらないで欲しい。今すぐにでも君を抱き締めたくて、微笑んでいられるのも風前の灯火なんだ。

ソファに座る香穂子の前で膝を折ってしゃがみ込み、真摯に瞳の奥を射貫いた。嘘が付けない香穂子は、そわそわと肩を揺らし始め、ね?と愛らしく小首を傾げて誤魔化そうとする。それで俺の気を反らすつもりなのかと、最初は厳しく構えるものの、いつの間にか頬が緩んでいるのは惚れた弱みなのだろう。


言いたくないのなら、無理には聞かない・・・が、少し寂しいのは正直な気持ちだ。小さく溜息を吐き顔を逸らすと、横顔に視線を注ぐ香穂子から零れた甘い吐息が頬を掠め、心のキャンドルに火を灯した。焼け付く熱さに振り向けば、火照る頬を押さえた香穂子と視線が絡み、何でもないのと慌てて手を振るけれど。耳まで真っ赤に染まっては、何でもなくはないだろう? 隠すほどに気になってしまうじゃないか。


「あのっ私、キッチンに行ってお茶の支度してくるね。ティーポットの中で葉っぱが、ジャンピングのウインナ・ワルツをくるくる踊るには、お湯をたっぷり沸かさなくちゃ! この間蓮くんに、美味しい紅茶の入れ方を教えてもらったから、今日は私が淹れてみたいの」
「ならば、俺も手伝おう」
「い〜からい〜から。お台所も分かるようになったし大丈夫だよ、蓮くんはここに座って待っててね」


止める間もなく伸ばした腕からするりと抜け出すと、腕を掴まれくるりと大きく視界が周り、君と踊るワルツのターン。振り回された勢いのまま、押し倒されるようにソファーへ座らされてしまった。無邪気な笑顔を浮かべた香穂子は、立ち上がろうとする俺の肩を押さえると、くるりと背を向け軽やかにキッチンへと駆け出してゆく。ここに座っていてと君は言うが、さっきまで座っていた温もりが直接伝わるから、くすぐったいほどに落ち着かない。君が座っていた同じ場所で待つのは、俺には無理だな。

頬に込み上げる熱を隠すように口元を押さえると、何度目かの溜息を吐いてソファーから立ち上がった。離れて待つよりも、普段見ることの出来ない香穂子を、たくさん傍で感じながら待ちたい。共に入れたお茶は、きっと美味しいさも二倍に膨らむと、君もそう思わないか?





キッチンへ脚を運べば、楽しげな鼻歌が聞こえてきた。何度も通ううちにすっかり勝手を覚えた月森家のキッチンを、蝶となってくるくる駆け回る香穂子につい頬が緩んでしまうのは、一緒に暮らしているような甘い夢を見させてくれるからだろう。もっとも、恥ずかしすぎて君には言えないが・・・。

もう少し幸せな夢に浸っていたくて、気付かれないようにそっと見守っていると、お湯が沸いたと知らせるコンロのやかんが賑やかに騒ぎ出した。一歩を踏み出しかけた俺よりも、棚からティーセットを出していた香穂子の方が早かったようだ。


「ふ〜っ危ない危ない、沸騰したお湯が噴き出すところだったよ。えっと火を消したこの後は、沸いたお湯をティーポットに移すんだよね・・・っと。きゃっ、熱っ!」
「香穂子、大丈夫か!?」


カタカタと賑やかに踊るやかんの蓋から溢れ出す前に、駆け寄った彼女がコンロの火を止めたまでは良かった。だが気が焦ったままやかんの持ち手を触れようとして、熱さに小さな悲鳴が上がる。僅かに触れたほんの一瞬で手を離し、熱いよと眉を寄せながら、自分の耳たぶを摘んでいるのは、指先の熱を冷ましているのだろう。

ヴァイオリンを弾く大切な指なのに、まさかやけどをしたのでは!? 一気に水を浴びたように身体が緊張で凍り付き、考えるよりも先に駆けだしていて。驚きに目を見開く香穂子の手を掴み引き寄せ、勢いのまま反動で飛び込む身体を、強く腕の中に抱き寄せた。


「蓮くん、いつの間にいたの? リビングで待っていると思ったのに・・・」
「その・・・一人で待つのが寂しくて、香穂子を手伝えたらと様子を見に来たんだ。指は大丈夫か?どこかか痛むか?」
「どこも痛くないから大丈夫だよ、ちょっと赤いけどびっくりしただけだから。これくらいなら水ぶくれにはならないし、赤身もすぐ引くから心配しないでね」
「無事で良かった。ヴァイオリンを弾く指なんだ、大切にしてくれといつも言っているだろう。君はいつも驚かせてくれるな、俺の心臓も張り裂けそうになった。後で腫れるかも知れないから、とにかく水で冷やすんだ」
「うん・・・ごめんね」


大丈夫だと強気で言い張る香穂子を説き伏せ、腕を掴んだまま流水で冷やす間は言葉はなく、ただ水が勢いよく流れる音だけが響いていた。ごめんねと泣きそうな顔で唇を噛みしめ、口を噤んでいる・・・赤くなった指先と同じくらい、辛そうな表情が痛々しい。きりりと胸が締め付けられるのは、君が感じる痛みなのか。

水の冷たさで指先が赤く染まり出せば、冷たいよと控えめに呟き、訴えかける瞳が切なげに振り仰ぐ。もう良いだろうか、これだけ冷やせばもう腫れることはないだろう。水を止めてほっと安堵の吐息を零すと、綺麗なタオルで香穂子の手を丁寧に拭き、北風にかじかむように冷たくなった手を握り締めた。


ずっと俺が掴んでいた手首は薄く赤い腕輪の跡があり、痛いと言わなかったがずっと我慢していたのだろう。俺のためにかいがいしく世話をしてくれる香穂子が嬉しくて、君が淹れてくれる紅茶がが楽しみだったのに。悲しませるつもりはなかったというのは簡単だが、心配のあまり必死になり過ぎてしまい、君を泣かせてしまうところだった。

すまなかった・・・そう心から告げて俺を映すと、こわばったまま様子を伺う眼差しに、困ったような微笑が浮かぶ。包んだ手に吐息を吹きかけ、俺の温もりを伝えよう。腰を攫い優しく腕の中へ閉じ込めると、ぴんと伸ばされたままの人差し指に顔を近づけ、傷が癒えるように願いを込めながら唇に含んだ。



「あのっ! れ、蓮くん指・・・。私の指は、食べても美味しくないと・・・思うよ」
「そんな事はない、甘さに蕩けてしまいそうだ・・・離したくはない。元気が出るおまじないだと、君が俺にキスをしてくれるだろう? 俺も香穂子の心と指に、元気を分けたいと思ったんだ。もう痛みはないか?」
「反則だよ・・・蓮くん、反則! もう〜私、涙が出ちゃいそうだよ」
「すまない香穂子、痛むのか?」
「違うよ、痛いんじゃないの。凄く嬉しい・・・蓮くんが大好きで、気持が溢れちゃいそうなの」


ふるふる顔を横に振ると、今までにないくらい茹で蛸に顔を染める香穂子は、俺の胸にしがみつき顔を埋めてしまう。顔を埋めながら聞こえる呟きは、先ほどと同じ反則という言葉たち。抱き締めた背中をあやしながら優しく名前を呼びかけると、赤く目元を染めた君の瞳が振り仰ぎ、煌めく光が俺を照らす。胸から直接伝わる振動が温もりを灯し、優しい響きへと変われば、気付かなかった言葉の花びらに隠された宝石が恥じらうように顔を覗かせた。


「反則・・・か。俺はまた、君を困らせてしまったのだろうか?」
「私こそ心配させちゃってごめんね。ちょっと血管が浮き出る引き締まった腕まくりした時の腕とか、男の子なんだなって感じて大好きなの。私を抱き締めてくれる腕なんだよね、ドキドキしちゃう。綺麗な鎖骨とか横顔も素敵だなとか、ふいにぺろって舐めてくる柔らかさに蕩けちゃったり。蓮くんは、私をときめかす恋の矢をたくさん持っているんだよ」
「反則というのは、そういう意味だったのか。どうして香穂子が困っていたのか、やっと分かった」
「ふとした仕草が素敵過ぎて目が離せなくて、もう蓮くんしか見えないの。落ち着かなくちゃって思っているのに、いつも蓮くんは私をドキッとさせてくれるんだもん。蓮くんの素敵なところを見つけるたびに、恋の矢に射貫かれて胸がキュンとするの。ほら、今もドキドキが止まらなくて、ぽ〜っと熱くなってるよ。最近の私、変だよね・・・病気なのかな」


俺の手を掴み自分の胸へと引き寄せる香穂子は、ほらこんなにドキドキしてるでしょう?と切なげな瞳で見つめてくるけれど。感じる早い鼓動は君のものなのか、それとも俺の耳から聞こえる熱さなのか・・・いや、両方なんだろうな。
反則なのは、君だって同じだろう? ほらこんなにも俺の鼓動を高鳴らせてくれるのだから。


恋をする方法は知っていても、育てる方法は自分たちで見つけてゆかなくてはいけないんだ。真摯に真っ直ぐに、だがたまには悪戯な不意打ちで心の水槽が揺れれば、カップの中の紅茶とミルクのように、二つが綺麗に混ざり合う。

心は計算で計れないし予測が付かないから、二つの想いが重なると無限の力を秘めるのだろう。君と俺のヴァイオリンが重なると新しい音色が生まれるように。俺と同じその症状は恋の病、心は心の薬が必要から、そっと優しいキスを重ねよう。不意打ちのキスでは、反則だとまた君が拗ねてしまうだろうか。


反則・・・それは俺のことが大好きだという、君の想いの言葉たち。
香穂子の心へとびきり大きな恋の矢が居抜き君の心が俺で一杯になった証だから。
この言葉を聞いてしまったら、これからはもう、冷静でいられないかも知れないな。