マシュマロよりも甘く



いつもは海岸通りや海の見える公園でヴァイオリンを練習するけれど、今日は香穂子の部屋で勉強。どこか落ち着かない気持ちを抑えられずにいる胸の鼓動は、薄い皮の内側で忙しなく走るばかりだ。外で練習やデートも良いけれど、たまにはお家も良いよねと。机の上に広げた楽譜や楽典、音楽理論の本に囲まれるあんたは嬉しそうに寛ぐけれど、無防備過ぎると俺の理性が持たないって、そろそろ気付いてくれよな。

二人きりになれる部屋は確かに落ち着くけれど、まだ慣れない香穂子の部屋は、どこに視線をやったら良いか解らないくらい落ち着かない場所なんだぜ。二人だけしかいないから、図書館とは違って多少の声を出しても迷惑にならないし、ぴったり寄り添いながら一つの本を見ても、誰の視線を気にする必要もない。

だけど、小さなテーブルの向こう側・・・小さなテーブルから顔を上げる度に、香穂子が背にしているベッドが視界に焼き付くんだ。もう何回、熱さを沈めながら深い深呼吸をしたのか自分でも解らないぜ。何も知らないあんたは、顔赤いよ大丈夫?と心配そうに聞くけれど、俺はいつまで冷静で居られるんだろうな。


「ん〜・・・」
「どうしたんだ、さっきからずっと難しい顔して」
「うん、あのね。楽譜を見ながら、この間桐也に注意された演奏の事を思いだしていたの。ほら、特に大切だって言ってた休符と弓の扱い方だよ。曲を演奏する上で休符を上手く操ることは、演奏家にとって最大の武器だって、オーケストラの練習でも都築さんに言われたの。楽譜に書き込まれている休符だけじゃなくて、見えないものもあるから難しいよね」
「休符っていうのは音と音の隙間じゃなくて、曲の一部だな。最後の一瞬まで保たれて、曲全体に緊張感やリズムが生まれるんだ。音符を音符として存在させるためのもので、役者にとって最も説得あるセリフが沈黙なのと一緒だよ。演奏家も最も多くを語る瞬間が、楽譜にある休符なのは同じってわけ」


例えば人混みで息苦しくなったときや疲れたときに、気分転換したくなるだろう? 空間に解放されることを望むっていうのかな、音楽も同じだよ。音楽に例えるなら、香穂子と過ごす俺の時間が大切な休符だ。弓を持つ右腕の力をリラックスさせて、空気の状態へと戻すように、あんたの隣にいる俺の心が透明になっていくのが分かる。

楽譜と向かい合いながら難しく眉を寄せる香穂子の眉間を、衛藤の伸ばした指先がそっと触れた。はっと驚いて目を見開く香穂子の瞳を見つめながら、額と鼻先が触れ合う近さまで顔を寄せて。面白い顔してるぜ・・・と吐息で呟くと、恥じらい照れる頬の赤が、みる間に拗ねた茹で蛸に染まってゆく。


「もう〜桐也ってば、びっくりさせないでよ。き・・・キスしてくるかと思って、すごくドキドキしてたんだからね!」
「悪かったよ、謝る。ま、こういうのも休符の一つだって分かったんだから、いいじゃん」
「良くないー。意地悪する桐也なんて、嫌いだもん」
「おい拗ねるなよ、悪かったって謝ってるじゃん」


大きな瞳を潤ませながら、風船の頬をぷぅと膨らました香穂子が、い〜っと小さな赤い舌を出すと顔を背けてしまった。あんた、子供みたいだな。すぐ傍に近寄り膝を付いて覗き込むけれど、合わせようと覗き込む視線をふいと逸らすばかり。膝の上できゅっと強く握り締めている手が痛々しくて、何とかしてこわばりを解いてやりたいって思う。温もりを重ね包むけれどあんた頑固だから、一度曲がった臍はなかなか元に戻らないんだよな。


照れて拗ねるのは予想していたけど、まさかここまで怒るとは思っても見なかったから。自分の不器用さに小さな溜息を零し、波立つ心を落ち着かせる為の深呼吸を一つした。香穂子と音色を重ねてから知った、アンサンブルの楽しさのように、自分の心と気持ちをあんたに向けて重ねるよ。ほら、二つの気持ちが一つになって溶け合うんだ。

少し強引かもしれないけど、そっぽを向いた顎を指先で捕らえ振り向かせると、最初は啄むような軽いキスを鼻先に。驚いて目をぱちくり瞬きする香穂子の唇へ、今度は優しくキスを重ねた。すると毒気を抜かれたように大人しくなったあんたも、そわそわと照れながら膝立ちの背伸びをして、甘く啄み返してくれるんだ。良かった・・・機嫌は直ったみたいだな。

ほっと安堵の溜息を吐いて崩れる俺の前に、ごめんねと謝りながら脚の間にちょこんと座る。悪戯が見つかった子供みたく、肩を竦めたはにかむ上目遣いに鼓動が跳ねて、熱い予感を教えてくれる。桐也のキスが欲しかったのだと、そう可愛く出られたら、俺の方が恥ずかしくて嬉しくて・・・もう何も言えなくなるじゃん。


「・・・何か疲れた、もう一気に力抜けた」
「ごめんね桐也、でも私は桐也の甘いキスで元気いっぱいになったよ」
「俺は・・・今のだけじゃ、足りない。パワー不足で動けなくなったら、あんたに責任取ってもらうからな」
「えっと、じゃぁ一息入れて休憩にしない? 疲れた時には甘い物だよ」
「は!? いいのか」
「うん? どうしたの桐也、赤くなって。ほら、さっき桐也からもらった、お土産のマシュマロ入りココアを飲もうと思うの」


なんだ、香穂子が飲みたいって言ってた、あのココアだったのか。俺はてっきり違う甘いもの、つまりあんただと思ったのに。勝手に先走って少しがっかりしたのが伝わったのか、不思議そうに小首を傾げる香穂子が覗き込んでくる。別に何でもねぇよと、顔を逸らしても赤くなった顔は隠れないのに。そんな無防備に近付いたら、抱き締めたくなるだろ・・・きっと抱き締めるだけじゃ治まりそうにない。俺の腕があんたの背中に届く、距離圏内にいるってこと忘れてるな。

俺も飲みたいから、早く行ってこいよと。なけなしの理性をかき集めてそう言うと、嬉しそうな笑顔で頷きその場に立ち上がる。フローリングの床へ座ったままの視線には、ミニスカートからすらりと伸びる脚が惜しげもなく目の前に晒されて。見上げる視線からは、その秘めた中まで見えそうになってるって、どうしたらあんたに伝えられるだろう。


元気良く、パタパタと部屋を駆け出す背中を見送ると、後ろ手についた両腕で上体を支えながら天井をふり仰ぐ。やっぱり香穂子の部屋はアウェーだな、いつもと違って調子が狂う。いや、とういうことは香穂子も、俺の部屋へ遊びに来たときには、こんな風にドキドキしたり緊張してるのかもな。



* * *



楽譜や本が広げられていたテーブルを片付けると、木のトレイを抱えて部屋に戻った香穂子が、白い皿に盛ったドーナツと、湯気が昇る二つのマグカップを並べてくれる。ハイどうぞと差し出されたマグカップを、受け取っただけで温かい気持ちになるのは、あんたの笑顔が溶け込んでいるからだろうな。

スイスの雪山が描かれた青いパッケージの粉末ココアは、アメリカでも欠かせない人気の品なんだ。ココアが好きならきっと病みつきなるぜ。一人分が個別パッケージになっていて、お湯を注ぐだけで手軽に味わえる、チョコが濃厚な本格ココア。しかも中にはあらかじめ、小粒の白いマシュマロも多めに入っているのが、イイだろ? 


「桐也、お待たせ〜ココアが入ったよ。熱いうちに飲もうね。ウチに来る途中に買ったドーナツも、お皿へ用意してきたの」
「サンキュ、香穂子。何だよ、言ってくれたら手伝ったのに・・・重かったろ」
「大丈夫だよ、ありがとう。ねぇ、このココアすごく甘い香りがして美味しそう! 早く飲みたいな〜」
「そのココアは、アメリカではポピュラーなメーカーなんだ。マシュマロ入りって珍しいだろ、朝食や小腹が空いた休憩とかに、飲むんだぜ。日本のココアと違ってお湯を入れても味が薄くならないし、カカオの濃厚さと甘さはけっこうやみつきになるぜ」
「小さなマシュマロがたくさん入って可愛いよね。ココアにはやっぱり白いふわふわマシュマロが、最高の組み合わせだと思うの。お湯を注いだら、乾燥マシュマロがむくむく膨らむから楽しくなっちゃった。それにほら見て? 小さいからあっという間に溶けるんだよ、耳を澄ますとシュワシュワ音がするの!」


ちりちりと涼やかに響くカップとスプーンが奏でる音楽と、くるくる躍るマシュマロを楽しげに覗き込む、あんたの笑顔。
マシュマロの一粒が小さいから、飲んでいるウチに少しずつ溶けて、ココアとマシュマロの味が混ざってくるだろ。これも上手く弾けた時に時に飲むのかと、そう聞く香穂子頑張ったご褒美というより、俺のご褒美かもしれないな。純粋にあんたの喜ぶ顔が見たかったんだティースプーンでくるくるかき回せば、小さな粒がしゅわしゅわと音を立てながら、泡雪のように消えてゆく。


桐也はアメリカに住んでいた時に、毎日こういう素敵な物が飲めたんだね、羨ましいなと。隣に寄り添いながらちょっぴり甘える上目遣いの視線に、何度目かの鼓動が大きく飛び跳ねる。可愛い唇をすぼめて、熱くないようにふぅっと冷ましたカップを口元に運ぶと、甘いね美味しいねと綻ぶ笑顔。あんたって不思議だよな、いつの間にか俺まで同じ顔をしているんだ。


「・・・っ! 熱!」
「桐也、大丈夫!?」
「熱いうちに飲もうねって、あんた・・・これは熱すぎだろ」
「ごめんね、熱すぎたかな。ポットのお湯を切らしちゃったから、沸かし立てをそのまま注いじゃったの。ふーふー冷ましながら飲めば、調度良いかなって思ったの。どこか火傷してない? 冷たいお水持ってこようか?」
「水は、いい・・・ちょっとびっくりしただけ。俺も、少し注意が足りなかった。でも舌、火傷したかも。ちょっとひりひりする」


泣きそうに瞳を揺らした香穂子が、慌てて俺のマグカップを取り上げて、両手に包み持ちながらすぼめた唇を寄せてふぅっと吐息吹きかけ始めた。熱いココアを冷まそうとして、何度も何度も。マグカップの中で揺れるマシュマロを眺めていたさっきと違ってひたむきで真剣な眼差しに、熱くなった身体の熱が顔へゆっくり集まるのを感じる。

いじらしくて愛しくて。ふいに顔を上げた時に呼びかける声を聞くだけで、身体が緩むんだから、俺ってどれだけあんたに惚れているんだろうな。大切にしたいとそう思うのに、想うほどにもっと欲しくなる。マグカップへ寄せられる唇や、ココアに溶ける甘い吐息ごと。私に何か出来ることは無いかなと、見つめるひたむきな眼差しに、熱く焦がされた心は蕩けてゆく。今なら、本当に俺が食べたい甘い物が、あんたから直接もらえるかも。


「まずは冷やした方がいいのかな。赤く腫れたり、水ぶくれになったらたらどうしよう」
「これくらいの火傷なんて大したこと無い、舐めときゃ治るから心配すんなって」
「ねぇ見せて? ごめんね熱かったよね、痛いよね」
「見せるのはいいけど、じゃぁあんたが治してくれよ。責任、取ってくれるんだろ? ほら・・・」
「えぇっと、その・・・つまり、私が桐也の舌をペロっと舐めれば良いのかな。ねぇ、本当にそれで治るの?」
「あんたはもうお腹いっぱいだろうけど、俺だって香穂子のキスが欲しい。マシュマロの溶けたココアよりも甘い、あんたがくれるキスをね。ただのキスだけじゃ、俺は満足しないぜ」


心配そうに見つめる肩をそっと抱き寄せ、自分からキスをねだるように唇をよせると、小さ出した舌を香穂子に差し出した。舐めときゃ治るの意味に気付き、ぼんと音を立てて真っ赤になった香穂子が、羞恥に耐えながら両手を脚の上で握り合わせている。耳や首筋まで赤く染めながら小さく俯き、ゴニョゴニョと口籠もりながら、動く気配の無さにじれったさを覚えて、結局最初に動くのは衛藤だった。

軽いキスで唇の扉をノックすると、小さく出した舌でぺろりと境目を舐めて、薄く開いた唇からそっと中に忍び込む。奥に逃げ出しそうな舌を捕らえると、ココアに浮かぶ小さなマシュマロを引き寄せるように、ちゅっと吸い取る甘いキスを。
マグカップのココアを一口飲んだ時のように、ほうっと甘い吐息を零した香穂子の、じっと見つめる潤んだ瞳を優しく捕らえて。どっちが甘い?と自信たっぷりに訪ねる衛藤に、マシュマロよりも桐也が甘いねと素直に返す答えが、胸に愛しさを募らせる。


「ほら、俺が見本を見せてやったんだから、今度はあんたの番だぜ」
「だってそんな・・・恥ずかしい。私、桐也みたく気持ち良く出来ないよ。受け止めて返すだけでも必死なのに。どうしたらいいか、分からないんだもん」


そう言うと困ったようにじっと見つめ、ダメかな?と潤んだ瞳で見上げてくる。可愛くおねだりしたら、余計に欲しくなるだろ? 欲しいけど恥ずかしいのと胸にしがみつきながら、嫌々と首を振るからくすぐったい。それにくぐもった声が直接振動になって伝わってくる。待っているだけじゃ、欲しい物は手に入らない。音楽も心も・・・自分から取りに行ったり、届けなくちゃ駄目なんだ。それを教えてくれたのは香穂子、あんただよ。


「俺たちのキスに上手い下手は関係ないだろ。俺だって分かんないよ、ただ夢中で。恥ずかしいこと聞くなよな」
「そういう恥ずかしいこと、求めているのは桐也のくせに〜」
「・・・っ! 俺は・・・その、あんたが好きだ。だから気持ちが知りたい、俺をどう想っているか確かめたい」
「桐也・・・」
「俺はココアに浮かんだ、蕩けかけの小さいマシュマロを吸い寄せるみたくして、香穂子の舌にキスをしたぜ。上手く言えないけど、その・・・扱い他が分からないのなら、あんたが好きな甘い物に例えてみたら?」
「私も、溶けたマシュマロ好きだよ! そっか、桐也の唇と舌をマシュマロだと想えば良いんだね。ソフトクリームも大好き。甘くて冷たい溶けかけた所を、ぺろっと舐めるのが美味しいの」


マグカップに唇を寄せた香穂子が、ちゅっと小さなマシュマロを吸い寄せている。うん、こんな感じだねと一人納得したように頷きながら、満面の笑顔を浮かべているのは、ひょっとしてキスの練習なのか? どんなに強気で挑んでも、結局最後は香穂子が俺の心に大きな恋の爆弾を落としていくんだよな。

マシュマロたく溶かされてしまうのは、いつも俺なんだぜ。 俺の熱さに火を付けるから、あんたが好きだって想いが心から溢れて止まらない・・・顔に集まる熱とか、耳から聞こえる鼓動に変わるんだ。


「ほら、来いよ・・・」
「うん!」


ドキドキ走り出す鼓動を深呼吸で押さえてから、恥ずかしそうにちょこんと座る香穂子に向き直る。はにかみながらこくんと頷く笑顔が、いそいそ懐に近付くのと、待ちきれない俺が背中を攫い抱き寄せるのがほぼ同時。桐也はココアで蕩けたマシュマロでソフトクリームでと、眉を寄せながら暗示のようにゴニョゴニョ呟く顔、あんた相当面白いぜ。

堪えきれない笑いを小さく零しながら、微笑みを浮かべた唇を薄く開き舌を少し覗かせる。さぁ来いよ、俺の所へと心で呼びかければ、膝立ちで背伸びをした香穂子がきゅっと肩を掴み、大きな瞳が迫ってきた。


「桐也・・・んっ・・・」
「・・・!」


瞳を閉じた分だけ、全ての感覚が舌先だけに集まってくる。舌先をぺろりと舐めて、美味しそうに吸い付く香穂子の柔らかさに溶けたのは、マシュマロではなく俺の理性。思わず瞳を開けば、ぴくりと跳ねた身体に手応えを感じたらしく、気持ち良かった?と素直な無邪気さで聞いてくるんだ。気持ち良かったって言ったら、もっと返してくれる?

だけど答えを待つよりも早く、甘く痺れる電流が背筋を駆け抜け脳裏を焼く。その瞬間、背がしなるほど香穂子を抱き締めて、息が出来ないほど深く唇を重ねていた。




火傷したって嘘でしょと、頬を膨らませる拗ねた顔も、やっぱりあんたって可愛いよな。嘘じゃない、香穂子が触れた唇も心も、焼き焦がされそうに熱いんだ。あんたがマシュマロになったら、マグカップのココアにいるヤツらみたいに、あっという間に蕩けるんだろうな。試してみる? マシュマロよりも甘く柔らかいあんたを、俺の中で心ごと蕩けさせてやるから。

腕も胸も背中も、ヴァイオリンを弾いて抱き締めるその手も。柔らかな頬も髪も睫毛も、脚や締まった足首までも・・・あんたの全てを俺に見せてくれ。