混じりけ無しの色




昼休みの屋上から見上げる空は、雲一つ無く澄み渡たる青のドームが広がっていた。譜読みをしていた楽譜をベンチの傍らに置き、代わりにミネラルウォーターの入ったペットボトルを手に取る。
水を飲もうとてし青いキャップへ手をかけたが、太陽の光を浴びて輝く姿に目を奪われた。青いキャップとラベルの透明なボトルを空へ掲げれば、何の色も付いていなかった水が青空へと変わる。

海の中を漂う魚になったような感覚になるのは、ボトルの中で揺れる水が魔法をかけているのだろうか。
ならばどこまでもこの空を泳いでいこう、君の元へ。



「あ、蓮くん発見!」
「香穂子・・・」
「やっぱり屋上にいたんだね、ふふっ・・・私の予想通りだった。今日はね、お天気が良いから蓮くん屋上にいるかなって思ったから、真っ先にここへ来たの」


ふわりと漂う優しい風が甘い香りを運び、ふと我に返れば耳に染み込む声に自然と頬が緩んでしまう。ヴァイオリンケースを持ち、赤い髪を肩で揺らしながら駆け寄る香穂子を微笑みで迎えると、俺の隣へポスンと腰を下ろす。ベンチに降り注ぐ日だまりが明るさと温かみを増したのは、太陽の固まりのような笑顔の君がやって来たからだろうな。


「これから練習なのか?」
「うん、あ・・・でも。蓮くんは譜読みをしていたんだよね。邪魔しちゃ悪いから私、場所を変えるね」
「いや、構わないから。俺も君が屋上へ来るだろうなと思っていたんだ。もし良ければ、このままここで君の演奏を聞かせてもらっても良いだろうか。香穂子のヴァイオリンが聞きたい・・・一緒にいて欲しいんだ」


立ち去ろうと、腰を浮かしかけた香穂子の手を咄嗟に掴んだ。離したくない・・・傍にいて欲しい想いを、握り締めた手の強さと真っ直ぐ見つめる瞳で伝えながら。手の中にある柔らかさに熱が灯り、瞬く間に頬を赤く染めた香穂子は、立ち去ることなく再びポスンとベンチに腰を下してくれた。

良かった、そう安堵の溜息を吐いても握った手はまだ離せなくて。恥ずかしそうにあの・・・あのねと上目遣いで視線を送る君に気付き慌てて手を離したが、弾けた鼓動が高鳴走り出す。込み上げた熱が顔に集まり、火を噴き出してしまいそうだ。


「その・・・すまない、つい咄嗟に掴んでしまって・・・痛くはなかっただろうか?」
「大丈夫、すごく嬉しかった。蓮くんの手がね、私の心までキュッと掴んでくれたの。じゃぁヴァイオリン用意するからちょっと待っててね。走ってきたから喉乾いちゃった、渇いてくっついちゃいそうだよ。あっ!蓮くんお水持ってる」


肩で息を切らす香穂子が、羨ましそうに眉を寄せて見つめる先は、俺の手にあるミネラルウォーター。ボトルは一本だけ、しかも俺の飲みかけだ。一つの飲み物を一緒にということは、同じ場所に唇が触れ合うという事で・・・。迫られた究極の選択に、ペットボトルと桜色に染まる唇を交互に見つめる視線が離せない。恥ずかしさが勝って嫌だと言えば、君はこの場から立ち去ってしまうだろう。それだけは避けたいし、傍にいて欲しいと思うから。

子犬のように瞳を潤ませ、乾いた喉をコクンと喉を鳴らす君は無意識なのだろうが、欲しいとねだる仕草が魅惑的に映るのは何故だろう。きっと、二人だけで交わす熱いひとときを思い出したからも知れない。落ち着くんだと自分に言い聞かせて深く呼吸をすると、ミネラルウォーターのペットボトルを香穂子へ差し出した。


「・・・俺の飲みかけで良ければ、飲むか?」
「いいの? ありがとう〜! 蓮くんの持っているお水、私も好きなの。まろやかで美味しいよね。青いデザインも好きだし、お水の味も柔らかくて飲みやすいから好き。私の中に、すーっつと染み込んでいくのが分かるんだよ。飲んでいるとね、見たこともない外国の綺麗な景色が浮かんでくるみたい」
「ヨーロッパ産の水は硬いものが多いからな、俺も柔らかいものが好きだ。たくさんの種類から自分だけに合う水を選ぶのは、大切な人との出会いや、好きな音色を探すことに似ていると思う。いや・・・そうではなくて、俺も嬉しいんだ。君と同じ物が好きだったと分かったから」


瞳を緩めて微笑みかければ、ボトルを大切そうに握り締める君の笑顔が眩しく煌めき、青いキャップを捻る音がした。遠いヨーロッパの山に染み込んだ雪解け水は、君の中へ染みこみ潤いに代わり、俺の心へも優しく染み渡る。
柔らかく潤んだ唇、美味しそうに水を飲む表情や、妖艶さを漂わせる白い喉の動きから目が離せなくて。君の喉が潤うほどに、いつの間にか俺の喉も心も渇いてゆくんだ・・・君が欲しいと。


ふーっと息を吐き出し満足そうにキャップを締め直す君が、ふいに俺を見つめるから、悪戯に鼓動が飛び跳てしまう。青いキャップの透明なペットボトルを、空に掲げ、キラキラしているねと頬を綻ばせる・・・そんな所まで俺と一緒なのかと思うと、君が愛しくて緩む頬が止められない。だがボトル越しに青空を見つめる横顔がほんのり赤く染まり、落ち着かないのが分かるから。呼吸も忘れるほどじっと見つめていたのだと、気付かれただろうか?

くるくるとボトルを回し、ラベルの表示を読んでいた香穂子がコツンと肩を寄せて、俺の前にも差し出してくる。


「ねぇ蓮くんラベルを見て? ナトリウム、マグネシウム、カリウム、それからえっと〜カルシウム! いつも気にしないけど、透明なお水の中には毎日欠かせない栄養がたくさん入っているんだね。ココアとか紅茶とかいろいろな飲み物があるけど、お水が一番美味しいなって思うの」
「柔らかい水もあれば、硬い味もある。含まれているミネラルも、種類によって少しずつ違うから、音色や俺たちのように、それぞれ個性や好みがある。ミネラルウォーターも生きているんだな」
「ふふっ、ミネラルウォーターって音楽みたいで面白いね。お水が無いと生きていけないように、私たちも音楽がないと元気になれないもの。私ね、この青いパッケージのお水を飲んだときに蓮くんみたいだなって思ったの」


ごちそうさまと両手で返されたたボトルを、手の平ごと包み込みながら受け取った。このまま君へ全部託してしまおうかと迷ったが、幸いこの屋上には俺たち以外誰もいないし、たまには二人で飲むのも悪くない。黙ったまま見つめる俺を、不思議そうにきょとんと小首を傾げる君に微笑むと、キャップを捻りボトルへ唇を寄せてゆく。さっき君が口づけた同じ場所へ、キスをするように重ねながら。


喉を通る水が熱を帯びたように感じるのは、君が飲んだ後だから。
目を見開く顔が真っ赤に染まっていく、その熱が俺に伝わり、手の中のボトルを温めているからだろうか。
飲み終わってから急に照れ臭さが込み上げてしまい、上手く掴めない指先を叱咤しながらもどかしくキャップを閉め、君と俺との間にボトルを置く。


染めた頬を隠すように恥ずかしそうに俯き、手を膝の上で握り合わせていた香穂子がボトルを手に取った。
くるくると手の中で転がし弄びながら愛おしそうに見つめ、何を想っているのだろうか・・・教えて欲しい。心の声が聞こえたのか、真っ直ぐ振り仰ぐ笑顔が光りとなって俺を照らす。


「この水が、俺・・・?」
「透明で澄み渡っていて、奏でるヴァイオリンみたくキラキラしいるの。飲んだ柔らかさとまろやかさは、優しい琥珀の瞳や微笑みみたい。一緒に過ごしている時に大好きだなって感じる私の心と、蓮くんの透き通る想いの雫が私の中に溢れてくるんだよ。お水はとっても大切なの、心の中のお花畑に綺麗な花を咲かせてくれるから」
「ありがとう香穂子、君にそう言ってもらえて嬉しい。水や音楽と同じように、俺にも無くてはならないものがもう一つあるんだ」
「・・・? それはなぁに?」


きょとんと小首を傾げ暫く考えていたが、思いつかないらしく、気分転換にと俺のボトルを開けて美味しそうにミネラルウォーターを飲み始めた。香穂子・・・と優しく呼びかけ頬を包み、緩めた瞳と頬で微笑みを注ぐと、口元に残った雫へ唇を寄せた。ほんの一瞬ふれるだけのキスで吸い取る雫は、朝露のように清らかでシュガーよりも甘さを秘めている。たった一滴なのに染み渡った想いが大きく膨らみ、君という海が俺の中へ溢れるんだ。


「美味しいな、水は。俺にとっての一番大切なミネラルウォーターは、香穂子だ」
「えっと・・・あの、蓮くん・・・」
「真っ直ぐ向けられる笑顔が心を温め、音色が身体へ染み込むのに似ている・・・まるで香穂子のように。このミネラルウォーターは君に似ているのだと、そう思う。だからもっと飲みたいと、求めてしまうんだ」
「私、ヴァイオリン弾かなくちゃ・・・・蓮くんに聞いてもらいたいの。きっとね心が潤った今なら、良い演奏ができると思うの」
「そうだったな、すまない。では、続きはまた後で」


吐息が絡む近さの顔をゆっくり離すと、蕩ける眼差しで見つめる香穂子が我に返り、そわそわ身動ぎだした。
ヴァイオリンケースから楽器を用意する君を見守りながら、小さな俺だけのコンサートを待つひととき。ふいに絡まる視線に甘く胸を締め付けれられ、照れ臭さを覚えながらも、どちらともなく微笑みが浮かんでゆく。


調弦の音は、静かな水面に跳ねる軽やかな水しぶきの音色。
触れ合うキスは緩やかな波紋となって描くのは、心の水面に浮か、どこまでも満ち広がる恋模様。



渇いた喉に染み込む水は、どうしてこんなにも美味しいと思うのだろう。
冷たさが、強く欲して止まない心と身体を沈め、優しい音色が降り積もるように穏やかな気持ちになっていく。
透き通る輝きを飲み込めば、俺の心も透明に透き通ってゆくのが分かるんだ。とても心地が良い。
瞳を閉じれば満ちる水が、君と俺を包んでいるのが・・・ほら、君も感じるだろうか?


当たり前のように傍にあるけれど、とても大切で俺たちには欠かせない存在・・・生命の源。


目に見えない所でも星が輝いているように、小さなたくさんの幸せたちが、溢れる水となって俺たちを潤してくれるから。絶え間なく自由に流れれ、透明な輝きと潤いで力を与えてくれる。
普段照れ臭くて形に出来ない言葉や想いも、煌めく光りの雫に溶けこませてて届けたい・・・。
大切な物が、ここにあると教えてくれた君へ。