まだ慣れない電話
朝、香穂子と一緒に登校しているときから、心はもう昼休みや放課後に向かい、会いたさに想いを馳せてしまう。そして放課後を共に過ごした帰り道も、俺が消えるまで家の前で見送ってくれる君に名残惜しさが募り、また会いたいと求めてしまう。
君の声が聞きたい・・・君に会いたい。
明日の朝に又会えると分かっているのに、どうしてすぐにでも会いたくなるのだろうか。一日の始まりだけでなく、眠りにつく終わりにも声を聞き、確かな存在と温もりを感じていたいと思う。
夜の静けさが満ちる闇に包まれた時間だから、会いたいと君を訪ねる訳にはいかない。君も会いたいと思ってくれているだろうか・・・ならばせめて俺の言葉を届けよう、安らかな眠りを守るために。もうそろそろいつもの時間だな、今日は俺からか、それとも君からかかってくるだろうか。眠る前のひと時に、君と携帯電話でメールのやり取りをするのが日課になったのは、いつからだろう。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、真っ先に机に置いた携帯電話を確認した。だが電話もメールも着信を知らせるものはなく、それでももう一度確かめたくて受信ボタンを押し、鳴らない携帯電話を握りしめる。心の片隅で気落ちをする自分に苦笑した・・・毎晩必ずと約束をしたのではないし、電源が付いているから壊れている訳ではないのに。どこかで期待をしていたのだろうな。
声が聞きたければ自分から電話をかければいいのに、番号を表示させても通話ボタンを押すところで踏み留まってしまうんだ。携帯のメールだと、伝えたい言葉や心にある想いを素直に届けることができるのに・・・。受話器を耳に当てると何から伝えたら良いか戸惑ってしまい、上手く言葉にならない。直接君を目の前にすれば普通に話せるのに、なぜだろう。
小さくため息を吐いた後で通話ボタンから手を放し、結局メールの文面をしたためて送信してしまうんだ・・・いつものように今夜も同じく。ほら、メールなら素直に君への思いを語ることができるじゃないか。
ディスプレイを開いた携帯電話を握りしめながら、こうして迷っている時間すら俺には惜しいのに。
再びこぼれた溜息が、穏やかな夜の静間に溶け込んでゆく。まだ少し湿り気のある髪の毛をタオルで拭きながらディスプレイを見つめていると、着信メールを知らせるメロディーが鳴り響いた。心のサインが教えてくれるから、誰からというのは浮き立つ心が教えてくれるんだ。逸る心で携帯のメールを表示させると、思わず笑みが浮かんだのは、予想したとおり香穂子からの返信メールだったから。
彼女らしい絵文字入りの可愛らしさは、文字だけなのに表情いっぱいの笑顔が、空間を越えて目の前に飛び込んできそうだ。嬉しさに緩む頬のままベッドへ腰を下ろし返信すると、またすぐに返ってくる。
君も待っていてくれていたんだな・・・。投げかけた心のボールが、君の気持ちを乗せて真っ直ぐ届く喜びと楽しさに、携帯に文字を打ち込む指先も自然と軽くなるのが分かる。
楽しい君からのメールに比べたら短くそっけないかも知れないが、それでも君が驚くくらい饒舌になっている俺がいる。
会話は弾み、俺からも贈り君からも返ってまた送る・・・の繰り返し。二つの空間を繋いだこの携帯電話の向こうに、君がいるんだ。いっそ電話で直接話す方が早いと思うのだが、その一歩がとどまり勇気が出ない。
いや・・・一度走り出したら想いが溢れ、止まらなくなりそうで怖いんだ。
本当は眠る前に君の声が聞けたら・・・そう思うけれど、ぐっと近づく君との距離にまだ慣れないからだろう。感度の良い携帯電話は身じろぐささやかな気配だけでなく、普段感じることのないブレスや甘い吐息までを、細かく伝えてくれるんだ。すぐ目の前にいるのでは、そう思えるほど確かな存在と熱い鼓動が空気を震わせて俺に届く・・・熱くしてくれるから。
耳元で囁かれる吐息や内緒話のような声に、脳裏は甘く痺れ鼓動が高鳴り、目の前に君がいない夜に一人耐えられなくなってしったのだと、どう君に伝えたら良いのだろう。
・・・・・・・・・・!
手の中にある携帯電話がメールではなく、通話の受信を知らせるランプとメロディーを知らせていた。鼓動が大きくとび跳ね、取るべきか・・・迷っていても心の中ではもう答えは出ていた。深呼吸して落ち着けてから通話ボタンを押すと、携帯電話を耳に当て静かに声を伝えた。
「もしもし、香穂子か?」
『もしもし、月森くん? ふふっ、メール打つ指がそろそろ疲れてきたから、電話しちゃったの・・・なんて。やっぱりね、月森くんの声が聞きたくなっちゃった。ねぇ、今話しても大丈夫?』
「あぁ、構わない。ずっと文字だけで長い間、二人で会話していただろう? それに俺も香穂子の声が聞きたかったら、とても嬉しい・・・ありがとう」
だがいつも痺れを切らして先に携帯に電話をかけてくるのは、いつも香穂子からだ。最初から電話にすれば良かったねと楽しげに笑うけれど、メールだって本当はおやすみの一言を伝えて終わるはず・・・だったんだ。月が出ているのさえ気づかないくらい夢中になってしまったけれど、夜更かしせず早く休んで欲しい気持ちには変わりないから。
名残惜しいのは俺だけでなく君も同じなんだな、それが嬉しくて心の奥がじんわり温まるのを感じる。
受話器の向こうにいる香穂子は、俺が何かを話すたびにくすぐったいねとそう言いながら、腕の中で身をよじるような小さな笑いを零している。確かにくすぐったいな、柔らかい吐息を吹きかけられている気分になるのはなぜだろう・・そんなはずはないのに。耳元に直接届く声が心地良くて、俺も耳朶が熱を帯びるのを感じる。忙しない鼓動の高鳴りまで携帯電話から伝わってしまうだろうか?
『ねぇねぇ、電話ってドキドキするね。月森くんの声がとってもくすぐったいの。顔を寄せ合いながら、二人だけの内緒話をしているみたい・・・って、クシュッツ!』
「香穂子!?」
電話越しに聞こえた小さなくしゃみと鼻をすする音に、緩んだ空気は引き締まり緊張が走った。部屋の中だと思うが、まさか薄着でいるのだろうか? 風邪をひかせてしまっては大変だ、こんな時にやきもきする以外、何もできない自分がもどかしい。携帯電話を握りしめる手に力を込めながら、受話器の向こうに意識を集中すると、向こう側にいる香穂子へ呼びかけた。
「香穂子、大丈夫か? 寒いのか?」
『心配かけてごめんね。実はシャワー浴びたばかりで、まだ髪の毛が濡れていたの・・・早く乾かさなくちゃ』
「・・・香穂子、なぜ早くそれを言わないんだ。風邪を引いたらどうする、体調管理も演奏者の大切な務めだぞ」
『うん、わかっているけど・・・今シャワー上がりでぽかぽかなのって、恥ずかしくて月森くんには言えなかったんだもん。TV電話じゃなくて良かったなって思うの。あっ! ちゃんとパジャマ着ているから安心してね』
「そういうことは、言わなくていいから」
『どうして?』
「・・・・・・・・・・」
なぜって・・・それは、わざわざ言われたら、湯上りの君を思い浮かべてしまうからに決まっているだろう。いや、もう既に遅いな・・・きっと頬を湯上りのばら色染めて、シャンプーの香りを漂わせているんだろうな。素肌にバスタオルを巻いているなど、思うわけが・・・ないだろう? 必死に言い聞かせるものの、顔に集まる熱は募るばかりだ。無邪気な君は気づいていないみたいだが、崩れそうな理性を試されているようで困ってしまう。
小さく吐いた溜息が伝わってしまい、叱られた子供のようにごめんねと謝る香穂子が、パタパタと部屋を駆け回り始めた。やがて忙しない音と共に元気な君の声が聞こえ、バスタオルを持ってきたからもう寒くないよと笑顔を伝えてくれる。
『ごめんね? もし月森くんが目の前にいたら、今みたいに風邪ひくぞって怒りながら急いでバスタオル持ってきてくれそう。でね、私の濡れた髪の毛をわしわし拭いてくれるの・・・ふふっ、気持良いだろうな〜』
「出来ることなら、今すぐにでもそうしたいが・・・・くしっ!」
『月森くんも、くしゃみした! ねぇ大丈夫? もしかして湯冷めしちゃったのかな、風邪引いたら大変だよ』
「・・・いや、その実は。俺も君と同じで、ちょうどシャワーを浴びた後だったんだ、すまない。早く上着を羽織らなくてはいけないな、どうりで寒かったわけだ。少し待っていてくれないか?」
『なんだぁ、そうだったんだ・・・って、え!? もしかして月森くん、えっと・・・今パジャマの上着来てないの? それって上半身は何も着てませんって・・・こと? 私たち偶然だけど、同じ時間にシャワー浴びてたことになるのかな?』
「はっきり言われると困るが、そうなるだろうか」
香穂子のくしゃみに風邪を注意したばかりなのに、今度は自分がくしゃみをしてしまった。そうだ・・・俺もシャワー上がりで髪を乾かしていた途中だったんだ、君の事を言えた立場ではなかったな。香穂子が知ったら頬を膨らませて拗ねるか、風邪を引くと怒るかもしれない・・・何とかしなければ。淡い呼吸だけが聞こえる沈黙が、長く思いく重い時を刻んでいた。
『・・・・・・・・・・・・』
「香穂子、どうしたんだ?」
『・・・・・・・・・月森くんのエッチ! もう知らないっ! 私が今夜眠れなくなって、明日寝坊したら月森くんのせいだからね』
「は? おいっ、香穂子!」
ベッドの上にあったパジャマの上着を掴み、携帯電話で話をしながら袖を通しかけたところで、プツリと電話が切れてしまった。慌てて引き留めようとつい立ち上がったものの、目の前に君がいないから、伸ばした手が虚しく発信音を掴むだけ。
耳に直接伝わった熱い呼吸に、真っ赤に頬を染めた君が堪え切れず、ふいと顔を背けたのだと分かった。茹でだこに染まった、拗ねる表情まで脳裏に浮かんでくる。
はぁっと大きくため息を吐いてベッドに再び腰を下ろし、そのままま背中から倒れこんだ。
だが君だって同じことを俺に言ったのに、気付かないんだな・・・一歩的に詰られるのは、少しばかり心が痛い。
いや・・・眠れなくなったらという事は、それだけたくさん俺を想ってくれていると。つまりはそういう事なのだろう・・・俺が君を同じように。
君と同じ時間シャワーを浴びていたなどそんな偶然、携帯電話ののメールだけでは分からない。
まるで一緒に風呂へ入っていたみたいだと、君が伝えたかった一言が心にに届き、冷めかけた身体の熱さが心から灯りだす。
・・・・・・!
再び鳴った携帯電話は香穂子からの電話だ。勢いで一度切ったものの、後でちゃんとかけ直してくるところが素直で優しい君らしいなと、頬も瞳も自然に緩んでしまう。通話ボタンを押して耳に当てると、泣きそうな声の香穂子が開口一番、ごめんねと必死に謝ってきた。ベッドに寝転んだまま、小さく微笑んだ空気を震わせ、見えない手で君の頭をを優しく包み込む。
「香穂子、怒ってないから」
『本当に? だって私が癇癪起こして一方的に電話切っちゃったのに・・・月森くん優しいね。ごめんね、もうしないから。えっと、謝りたかったのもあるんだけど、大事な忘れものがあって電話したの』
「忘れ物?」
『うん、あのね・・・月森くん目を閉じてくれる?』
上目づかいで窺うように、ねだられれば嫌とは言えない。無意識に高鳴る期待を鎮めながら、目を閉じたことを伝えると、閉ざされた視覚の分だけ聴覚へと鋭く神経が注がれる。甘い吐息に乗り耳に吹き込まれた「おやすみなさい」の後で聞こえてきたのは、チュッと耳元で鳴る唇を鳴らした音・・・君からのキスの音。
その後でぷつりと途切れた携帯電話をそのまま耳に当てながら、噴き出した熱さに眩暈を覚えていた。
ゆっくりと携帯を下ろしディスプレイを閉じると、投げ出した腕ごとベットの枕もとへ放った。スプリングをきしませて寝返りを打てば、まだ耳の中に君の声が・・・最後に残してくれたキスが余韻となって響いている。
心臓がここにあるのではと、そう思えるほどに熱く脈打つ自分の耳朶を指先で触れながら思った。
そろそろ君の無邪気さと、携帯電話ですぐ傍に聞こえる声や吐息に慣れなくてはいけないな。
君と電話で会話をするたびに、心臓が弾けていてはこの身が身が持たないから。