ラブ・パニック

「そろそろ、約束の時間だな」


右腕の時計を確認すると、月森は普通科校舎へと足を向けた。
学園祭という事で華やかに装飾された正門や校舎内は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかさだ。
人混みやこういった学校行事は苦手だが、音楽科や普通科の区別無く、互いの校舎を自由に往き来できる自然な空気を好ましく感じるのは、きっと香穂子の影響だろうなと思う。


普通科校舎への渡り廊下の扉を開くと、一気に溢れ出てきた熱気と賑やかさに、思わず圧倒されて立ちすくんでしまった。どうやら普通科の生徒達は、いつにも増して活気に満ちあふれているようだ。


香穂子のクラスは喫茶店をやるそうだ。
準備のためにここ数日間は放課後一緒に練習できなかったり、今日も準備があるからと早く登校していった。
会えない日が続くのは寂しいがそれも今日までだと、賑やかな校舎を歩きながら自分の心に言い聞かす。
彼女の興味を奪うのが例え学校行事であっても嫉妬してしまう自分が、無性に可笑しく思えてしまう。
けれども朝早くから遅くまで準備に頑張っていた彼女が、何を見せてくれるのか少し楽しみであったりする。


香穂子が担当する時間帯は事前に聞いていた。
しかも「終わりの方の時間に、絶対に一人で来てね」と念を押される始末。
時間帯と俺一人という事に、何か意味があるのだろうか?


不思議に思いながらも、気が付けば2年2組の教室前に辿り着いていた。
客引きの声を制して真っ直ぐ教室に足を踏み入れると、キャーという女子達の歓声が沸き起こり、俺へとクラス中の視線が集中した。


気恥ずかしい・・・・。


この状況をどうにかしてくれと思った所で、気付いた香穂子が駆け寄ってくるのが見えた。
彼女の姿を見た途端にホッと安堵感に満ちあふれ、久しぶりに会う嬉しさが込み上げてくる。


「蓮くん来てくれたんだね。嬉しい!」
「あぁ、君との約束だから」


笑顔を向ける彼女が眩しくて胸が高鳴る。
高鳴るのは笑顔のせいだけでなく、いつもと違う彼女の魅力がそうさせるのかも知れない。
黒いパフスリーブの半袖ワンピースで、白いフリルのエプロンにお揃いの白いカチューシャ。それに気のせいではなく、スカート丈が制服よりもかなり短い気がする・・・・。これはいわゆるメイド服というものか。
他の女子生徒も同じコスチュームなのだが、不思議な事に香穂子以外は全く目に入らない。


「ねぇ、これ可愛いでしょ?」


そう言って香穂子は、スカートの裾をつまんでピラリと広げて見せた。


確かに・・・可愛い・・・・。


そんなささやかな仕草とメイド服がどれだけ男心をくすぐるものか、君はきっと分かっていないんだろうな。
つまんだ時にめくれた裾から白い脚がチラリと見えて、吸い寄せられるように釘付けになってしまった。
君が無邪気である程に、自分の欲深さを改めて見せつけられるようで、心の中で苦笑を隠せない。


「とても良く似合っているよ」


そう言うのがやっとだった。
嬉しそうに頬を染めて微笑んだ香穂子があまりにも可愛くて、気を緩めれば周囲の視線も省みずに抱きしめてしまいたくなるから。
理性を総動員して動揺と欲を押さえ込みながら、俺は試されているのか、あるいは我慢大会もいいところだと思う。
俺の理性と心臓は、一体どこまで持ちこたえられるのだろうか・・・。


「そうだ、決まり台詞を忘れる所だった」


香穂子は思い出したようにポンと手を叩くと、コホンと咳払いをして改まった。
両手を前に組み小首を傾げながら、俺に向かって満面の笑顔を向ける。


「お帰りなさいませ、ご主人様」
「はぁっ!?」
「さっ、こちへそうぞ」
「か・・・香穂子・・・・・・!?」
「一名様ご案内で〜す」


賑やかな教室内に、元気な声が響き渡った。
今・・・何と言ったのだろうか。
確か・・・「ご主人様」と言われた気がするんだが?


呆気にとられながらも、彼女に先導されて席についた。
机を配置してテーブルに見立てて、綺麗な白いテーブルクロスがかけられている。各テーブルの上には小さなガラス瓶に入った花が生けられており、細部にまでこだわりが見受けられた。
ご注文は?と言われてとりあえずコーヒーをオーダーする。
しばらくして準備スペース用に仕切られた奥に消えた香穂子が、銀のトレイにカップを乗せてやってきた。


「お待たせし致しました」


テーブルの上にコーヒーの入った白い陶器のカップと、手作りだという添え物のクッキーを乗せた小皿を置く。
ふわりと甘い香りが漂い、白い湯気が立ち上っているカップの中ではブラックの水面が揺れていた。
彼女からの給仕に、くすぐったさを覚えながら仕草の一つ一つを見つめていると、ふと視線が絡んではにかんだように微笑んだ。恥ずかしいからあんまり見つめないで・・・と。
そう言われると、ますます目が離せなくなってしまう。


給仕が終わって銀のトレイを胸に抱えた香穂子が、失礼しますと言って、俺の隣の椅子にちょこんと腰掛けた。
てっきり戻ってしまうと思っていたのに、俺の所にいてもいいのだろうか?


「担当の仕事に戻らなくていいのか?」
「うちのクラスはメイドカフェなんだよ。だから女子はみんなメイドさんの格好なの。メイドカフェにもいろいろあるみたいなんだけど、うちのは一緒にお話もしましょうってものなんだよ」


なるほど・・・。だから先程「ご主人様」と言ったのか。
某電気街で有名なやつだなと、記憶の引き出しを探り当てる。
ちらりと入り口に視線を向けると、同じように出迎えられて顔の表情を緩める男子生徒の姿があった。
普通科と音楽科が入り交じって大入り満員の賑わいを見せている教室内には、各テーブルに女子生徒が一緒に座って話に興じている。


一体発案者は誰なんだ。
これが普通科と音楽科の発想の違いなのかと、小さく溜息を吐いた。


「はい、あ〜んして」
「・・・・・・・!」


こんな事まで・・・・・!?
コーヒーに添えられた手作りのクッキーを手に取った香穂子が、俺の口元に運んできた。
普段は恥ずかしがってやってくれないのに、学校行事と割り切れば出来てしまうのだろうか。
いや、この際気にしないでおこう。
押さえきれない嬉しさをそのままに、ついしなやかな指まで口に含みそうになるのを、危うく思い留まりながら焼き菓子に口を添えた。


あれこれと、かいがいしく世話を焼くいつもと違う雰囲気の彼女に、鼓動が激しく高鳴ってしまう。


「ねぇ、ご主人様?」
「・・・お願いだから、普通に喋ってもらえないだろうか・・・・・・」
「え〜っ蓮くんまで・・・ちょっと楽しみにしてたのにな〜。つまんないよ」


月森は瞬く間に顔を赤く染めて口元を押さえると、照れ隠しにフイと視線を反らした。
しかしそんな彼とは反対に、すっかりなりきって楽しそうな香穂子は、本気で残念そうな顔をしている。


ここまできたら言ってもらいたのは、男としては一度は思うんだが・・・。
学校とはいえ、自分がどうなってしまうか分からないんだ。
学園祭の遊びと分かってさらりと流せるほど、俺は器用ではないから。


あれ・・・ちょっとまて?


香穂子の言葉に引っかかるものがあって、眉根をひそめた。
“まで・・・”という事は俺以外にも来たということになるな。
クラスの出し物だから、校内のいろんな生徒が出入りして当然だと思うのだが、まさか・・・・・・。


「香穂子、もしかして他のコンクール参加メンバーも来たのか?」
「うん。土浦くんでしょ、志水くんに火原先輩に柚木先輩・・・あと金澤先生もきたよ」


香穂子は、思い出しながら指折り数えていく。
何だ、結局全員来たんじゃないか。


「でもやっぱり皆、普通にしてくれってすぐ言ってきたんだよ。どうしてだろうね?」
「香穂子、まさか他の奴にも同じ事を?」


口元に指を当てて不思議そうに思い出している香穂子に、表情を硬くした月森が詰め寄った。
香穂子が他の男に文化祭の出し物とはいえ、あれこれ世話を焼く姿を想像したら我慢ができなくて。
彼女に対して俺と同じような思いを他の奴らも抱いたのかと考えると、みっとも無いくらいの独占欲と嫉妬心が沸き上がってきた。最後にと言ってきた彼女の読みは正解だったかも知れない。
きっと目の前でその光景が繰り広げられていたら、迷わず彼女の手を掴んで連れ出していただろうから。


え!? どうしよう・・・蓮くん怒ってるよ!!


自分を見つめる月森の瞳の色が、熱く変わり始めている。
やきもち焼いているんだとすぐに分かったけれど、まずは誤解を解くのが先だ。
彼の気持ちも考えずに、傷つける迂闊な発言や振る舞いをしてしまったのだと、心に後悔の荒らしが巻き起こる。
香穂子は慌てて両手を振って、違うのだと否定の仕草と言葉を必死の思いで向けた。


「や・・・やだ蓮くん、誤解しないで。他の人は普通にお茶飲んでお喋りしただけで、すぐに帰っていったよ。私本当に何もしてないんだよ? それに・・・」


言葉を途中で濁らせると、膝を寄せてピタリとくっつくいて寄り添い、椅子に腰掛けた俺の太脚の上にそっと両手を添えてきた。ちょうど机の陰になって他の人からは見えない場所に。
頬を染めて恥ずかしそうに見上げなから、耳元に小さく囁く。


「蓮くんだけは、特別サービスなの・・・・」


脚に添えた手にきゅっと力を込めて甘える仕草を見せた。
特別・・・という言葉が魔法のように心に染みこんで、胸が詰まって俺の中を焼き尽くす熱さを生む。
耳にかかる吐息と脚に添えられた彼女の手から伝わる熱さに、眩暈を覚えるのはそのせいだろうか。
見上げる顔も更に赤くなって、恥ずかしさの為か瞳が潤んでいた。


「蓮くんに怒られるとか、そういうのは蓮くんと二人でやってろとか・・・・みんなから同じ事言われて、何だか照れくさくて恥ずかしくなっちゃった。だからね、蓮くんが来るの楽しみだったんだよ」
「そうか・・・すまなかったな」


さんざん冷やかされたらしく、真っ赤になって俯き照れる香穂子に連られて、月森も顔を赤らめた。
二人っきりで・・・本当にそうだったらいいのにと思わずにいられない。
ちょっと待て・・・一体何を考えているんだ俺は・・・。
込み上げる恥ずかしさと照れ隠しに、コーヒーの入ったカップを手に取り、口元に運ぶ。


「ねぇ蓮くん、男のロマンって何?」
「・・・・・・!!」


突然の香穂子からの質問に、飲みかけのコーヒーを危うく吹き出しそうになるのを、俺は何とか堪えた。
気管に入ったのか、激しく咳き込む。


「蓮くん大丈夫!?」
「・・・・・・・・」


咳き込み続ける俺の背を、心配そうにさすりながら見上げる香穂子の大きな瞳が間近にあった。
そんなに間近で見つめないでくれ・・・。
いろんな意味で、心臓に悪い。
ここが学校だからまだ理性が保てるものの、俺の家でだったら確実に壊れているな・・・と思う。


咳と呼吸が落ち着いた所で、苦しさのために涙で滲んだ目尻を指で拭い、掠れた声を何とか絞り出した。
俺の心まで悟られしまったのではと、今度は激しく鼓動が高鳴り始めるのを押さえながら。
こんな時こそいつものポーカーフェイスが役に立つと言うものだ。


「すまない、何と言ったんだ?」
「金澤先生がね、うちのクラスを見て『男のロマンだな〜』ってにこにこしながら帰っていったの。よく分からないんだけど、男のロマンって何かな〜と思って」
「・・・・・・すまない。あの先生の考えは、俺にも良く分からない」
「そっか、大人の人の考えることなのかな」


まぁ、ある意味当たらずしも遠からず。
適当に誤魔化したけれど、今の君そのものだという事は黙っておくとしよう。
納得したのかしないのか、それ以上は深く追求してこない彼女に感謝しつつ、ほっと胸を撫で下ろす。


「俺が、一番最後だったんだな」
「それはっ・・・真っ先に会いたかったけど、最初だと後からお客さん来ちゃうからゆっくりできないし。私もうすぐ交代の時間だから、これからは最後まで蓮くんとだけゆっくり過ごせるの。だから・・・最後に来てって言ったんだよ」


ようやく聞くことができた真相とささやかな独占欲。
必死に説明する香穂子に、、もういいよと宥めるように微笑みを向けた。
俺は嫉妬と独占欲ばがり沸き上がらせていたのに、真っ直ぐに想いを向けてくれる彼女に申し訳ないと思いつつ。


しかし・・・そうか、もう終わりなのか・・・。
香穂子は何を着ても可愛い。しかしメイド服姿をこの学園祭限りで見納めなのは、正直ちょっともったいない気もする。そう思ったら、つい本音を口にしてしまっていた。


「このまま、お持ち帰りしてしまおうかな・・・」
「え?」
「・・・・いや、何でもない。そうだ、君の当番が終わったら一緒に校内を回らないか?」
「うん! 二人で一緒に普通科も音楽科も堂々と回れる機会なんて、滅多にないからね。二人で一緒に過ごすの久しぶりだから、凄く楽しみにしてたの」


胸の前で手を組んで嬉しそうに微笑む香穂子に、知らず口元がほころんだ。
君の笑顔と温かさに触れると、俺も君に笑顔で返したくなる。
純粋で真っ直ぐに向けられる想いと前向きさが好きなんだと、そう思うから。


先程からずっと俺の脚に添えられたままの香穂子の手から、想いが温かさとなって俺の中に流れこんでくる。
机の下にそっと手を忍ばせて、包むように彼女の手を握り占めた。