ラブ・レター




重い雲に覆われた冬の鈍色から、淡く霞むパステルカラーの青へと変わった春空。柔らかい潮風を頬に受けながら、煌めく海を見つめれば、視線の先で風と出会った海の水が白い飛沫を上げる波になる。瞳を閉じて白い砂浜に寄せては返す穏やかな波の音に聴き入ると、穏やかな気持が広い海へと溶け込んでしまうようだ。

強さを増した太陽の光に反応して元気に飛び回るカモメたちの声や、大小轟く波の音は、今も変わることなく彼らの音楽を奏で続けている。このまま意識までもが、ふわりと波に攫われそうになったとき、携帯電話がメールの着信を知らせる音楽を奏で出した。


はっと我に返った香穂子がディスプレイを開けば、待ち合わせの遅刻を詫びる衛藤の謝罪と、もうすぐで着くという連絡メール。目の前に広がる海を携帯で撮影し、「のんびり海を見ながら待ってるね。慌てると怪我するから、焦らずにゆっくり来てねv」との返事と一緒に添付する。

するとしばらくして帰ってきたメールをいそいそ開けば、「あんたと違って、俺はそそっかしくないから大丈夫。俺が来るまでは、はしゃいで海に入るなよ」と、忠告まで忘れないのが桐也らしい。


待ち合わせには几帳面な彼なのに、寝坊で遅刻は珍しいかも知れない。でも春休みを利用しての、海外で開催されたコンクールから昨夜帰国したばかりだから、きっと時差など疲れがでたのだろう。そういえば一年前のコンサートの翌日には自分がこの海で大遅刻をしたんだよねと思い出し、申し訳なさとその後に味わった甘い時間に、頬へ熱さが募るのを感じた。


「ん〜っ! 潮風が気持ちいいなぁ」


胸一杯に潮風を吸い込んだら、両腕を空へ掲げて伸びをする。スッキリ爽快だねと満面の笑みを浮かべた香穂子は、掲げた両腕を降ろそうとして、手に持っていた紙製の小さな手提げに視線を移した。深い赤のエナメル質が太陽を受け止め、キラリと放つ光に思わず目を細める。

嬉しくて、でもちょっぴり照れ臭くて。自分の心の中を確かめるように、何度でも袋の中をそっと覗きたくなる。そこにあるのは手作りの小さなバースデーケーキと、おめでとうの気持ちを込めた手紙・・・ラブレター。弾き終わったヴァイオリンから弓を降ろすみたく、ゆっくりと弧を描きながら腕を戻すと胸の前に掲げ大切に抱き締めた。



   * 



「香穂子!」
「桐也〜こっちこっち」
「大声で手を振らなくても、ちゃんと見えてるよ! ・・ておい香穂子、危ないから走るな」
「わわっ・・・きゃっ!」


名前を呼びかける声に弾かれ肩越しに振り返れば、道路から続くコンクリートの階段を駆け下る衛藤の姿が見えた。無人島から見える船に存在を知らせるみたく、大きな声で私はここだと呼びかけながら飛び跳ねて、すぐにでも抱きつきたい逸る気持ちを抑えながら精一杯手を振る。砂浜を足早に歩いてくる衛藤は、恥ずかしいじゃんと眉根を難しそうに寄せているが、頬が赤く染まっているところを見ると嬉しい照れ臭さもあるらしい。


子犬のように真っ直ぐ駆け寄る香穂子へ、転ぶから危ないぞと注意を呼びかけた矢先に、パンプスのピールが砂浜に取られてバランスを崩してしまう。あわや転んで砂まみれというところで抱き留められ、あぁほら・・・俺が注意したそばから転んでるじゃんと。降り注ぐ溜息混じりの呆れ声に顔を上げれば、遅れてごめんと申し訳なさそうに、瞳を真摯な色に変えた衛藤がいた。


「ほら、だから言っただろ。走ると転ぶぞって。だからあんたは、危なっかしくて目が離せないんだ」
「桐也、ありがとう。ふふっ、大好きな桐也の香りだ〜このぎゅっとされる感覚が、すごく懐かしい感じがする」
「おい・・・香穂子、近い! 抱きついて、顔すり寄せるななっ」
「え〜っ。会うのは私の卒業式以来だっていうのに、桐也ってば、冷たい・・・」
「香穂子の甘えん坊。二週間も俺に会えなくて、そんなに寂しかったのか」


しがみつく腕の中から、唇を尖らせてちょこんとふり仰ぐと、にやりと見下ろす衛藤の悪戯な笑みが返ってくる。寂しくなかったもん、と強がりたいのに求める心に嘘はつけなくて。うん・・・と頷き再び広い胸へポスンと顔を埋めると、背中を支えていた両腕がふわりと羽ばたく羽根となって、優しく抱き寄せた。


「珍しく素直なんだな、可愛いじゃん。電話越しに元気だって笑ってたけど、あんた最後はちょっと泣きそうだったよな」
「コンクールのファイナル前に、桐也には心配かけたくなかったんだもん。こんなに長い間桐也と離れたのは初めてだったから、あれこれ考えて戸惑ったりもしたけど。これからは一人になることも、慣れなくちゃいけないよね」
「そうだな、香穂子は音大に進学。俺は学院の二年生になるけど、これからは国際的なコンクールも狙うから忙しくなる。会える時間が少なくなるけど、だからってあんたを手放すつもりはない。会える時間が貴重だからこそ、自分の気持ちに素直になれたときが、最高に気持ちいいって思うんだ」
「桐也・・・?」
「会いたかった、俺も。香穂子に会いたくて・・・抱き締めたくて、気が狂いそうだった。出発前に約束したとおり、ちゃんとコンクールで優勝しただろ?」


柔らかな春の日差しでふわりと微笑んだと思ったら、切なげに心の内を吐き出す熱さに変わる。背中がしなるほど抱き締める腕の力が強くなり、広い胸へ押しつけられるのに、苦しさを感じるどころか抱き締めて欲しいと願い、しがみつき返す。心に火が付いてしまえば、もう止めることは出来なくて。言葉が無くても胸の奥に灯った炎がお互いのサイン。

久しぶりのキスが待ちきれずに、気持ちだけが先走ってしまう私の心は、先にあなたへ届いただろうか。
閉じたままそっと差し出す唇に熱い吐息が絡み合い、柔らかな唇がしっとりと重なった。


元々大人びた衛藤だが、高校に進学してからは表情も体躯も、目に見えて分かるほど青年へと変わりつつある。人と競う会うのが大好きだが、相手を負かして優越感に浸ろうという気持ちは一切無い。あるのはライバルとぶつかり合い、勝負のスリルを楽しみながら、自分を高めていきたい強さだけ。勝利を手にする努力は惜しまず、何事にも正面から挑む彼の姿は、憧れであり尊敬して止まない。


追いつけばまた彼は、音楽の高みへ昇ってしまう。自分を飛び越し、一足先に大人になってしまうような彼にライバル心だけでなく、寂しさを感じないといえば嘘になる。それでも抱き締められる腕の強さや、甘く蕩けそうな吐息も肌の熱。少年のようにあどけない笑顔を向けられると、心がどうしようもなく熱くざわめいてしまう。


「国際コンクールの優勝おめでとう。そして、お誕生日おめでとう、桐也。お祝いが二倍になったね」
「まっ、狙うからには優勝するって決めてたけどな。さすがにファイナルは緊張したけど、楽しかったよ。あっそうだ、コンクールの審査員にさ、以前俺がアメリカに居たとき、俺に厳しいこと言ったあの先生がいたんだ」
「音楽は征服するものじゃない、愛して伝えろって桐也に言った、あの先生?」
「そっ、パーティーで挨拶したら何て言ったと思う? 足りない物は見つかったようだねって、微笑んでた。君は今、恋しているね。音楽と、大切な誰かに・・・ヴァイオリンが歌っていたよってさ。俺の音楽が変わったのは、香穂子のお陰だ・・・ありがとう」
「今日は私が桐也にプレゼントを贈る日なのに、私の方がたくさんの贈り物をもらっちゃったね。ありがとう」


贈り物?と不思議そうに首を傾けた衛藤に、桐也に会えたことや抱き締めてくれた温もりとか、キスも・・・贈り物たくさんなのと真っ直ぐ伝えれば、たちまち顔を赤く染めてしまった。大胆なことをするくせに、その後で恥ずかしくなるところが、相変わらず可愛いなぁと、緩む頬を引き締めるのに必死。だって可愛いって言ったら、拗ねてしまうんだもの。


出会った頃はお互いに学校が違ったから、放課後や週末のデートが待ち遠しくて、朝早くから遅くまでずっと一緒にいたよね。私の家まで送ってくれるときに私はいつも、手を繋いでくれるあなたの手を、いつもぎゅっと握り締めたまま離せずにいたよね。まだ一緒にいたいよと泣きそうになる私に、俺だってこの手を離したくない・・・切なげにちょっぴり困りながらも、ぎこちないキスをそっと重ねてくれたのを、今でもちゃんと覚えているの。


「桐也が星奏学院に入学してからは、朝から放課後まで一緒に過ごす時間が増えたのが、すごく嬉しかった。お昼ご飯も森の広場で一緒に食べて。あっという間の一年だったなと思う。でも・・・いつも一緒にいることに慣れてしまうと、限られた時間だと頭の片隅で分かっていながら、それがいつまでも続く当たり前のように思えていた自分に気付いたの」
「香穂子・・・?」
「傍にいることの大切さや存在の大きさを、つい見失いそうになって、喧嘩をしたり時には我が儘を言い合ったりもしたよね。繰り返される毎日の生活の中で、心に想い描きながらも、何だか照れ臭くて言いそびれしまっていた想いが、たくさんあるの。今日は大切な日だからこそ、桐也への胸に心を込めて伝えたい」


あなたが私にくれた、たくさんの気持ち・・・楽しさや嬉しさ、温かさや優しさ、笑顔や時にはきゅんと切なくなる恋の気持ちも。いつも素敵な宝物をもらってばかりだよね。私も、ちゃんとあなたに返せてるかな? 心の全てを語るあなたのヴァイオリンの音色は、こんなにも私の心へ真っ直ぐ届いてを揺さぶるのに。


短いようで長い一瞬が過ぎ去っても、ドキドキと早く駆ける鼓動は収まることが無く、顔や身体中が火照ったままだ。冷静にと自分の心へ言い聞かすのに、会話の切れ目で沈黙が訪れれば、どちらとも落ち着かない無くくすぐったさが込み上げてしまう。

砂浜に寄せるさざ波だけが聞こえる。穏やかで、心ごと優しく包み癒す音が・・・。


「あのね、これ・・・良かったら食べて? お祝いにチョコレートケーキ作ったの」
「サンキュ、香穂子。やっぱり、誕生日に手作りケーキって嬉しいよな。なぁ、今食べてもいいか?」


コクンと頷けば無邪気な笑顔で、嬉しそうに中から包みと取りだした。透明なラップに包まれた茶色のケーキは、チョコレート味。本当は丸いケーキになるはずだったけど、失敗したところを切り取ったら、手の平サイズの四角いケーキになってしまったの。厚みもぺたんこだから、どうみてもこれではけーきではなくチョコブラウニーだ。

リボンやラップを解き、口に運ぶまでの一瞬をじっと見守りながら、祈る想い出手を握り合わせて待つしかできない。手作りが食べたいとリクエストした彼の気持ちに小足られるだろうか・・・ステージに立つよりも緊張する。


「・・・ん? これはチョコブラウニーか? そういやアメリカにいたころ、よく食べたぜ。ナッツ入ってるヤツとかさ、懐かしいな。堅さもちょうど良いし、美味いじゃん」
「あのね、桐也・・・えっと・・・・・・」
「どうした、香穂子」
「これ、チョコブラウニーじゃなくて、チョコレートケーキなんだけど・・・な。オーブンの中では膨らんだんだよ! でもね、扉を開けたら萎んじゃったの。どうしてだろう? レシピではフワフワしっとりになるはずだったよ・・・」
「え!? マジで! うわっ・・・俺ってサイテーじゃん。ごめん香穂子、傷つけたよな・・・悪かった」


予想通りにチョコブラウニーと思っていた衛藤の瞳が驚きに見開かれ、慌てて素直に謝ってきた。怒ってないよ、だって美味しいと満面の笑みを綻ばせて完食した後じゃない。今のは上手にケーキを焼けなかった私がいけないかったの、桐也のせいじゃないよ。美味しいと言ってくれた桐也の気持ちは、本当だって伝わったから。


「あれ?袋の中に手紙が入ってるぞ? しかも、ずいぶん分厚いな」
「うん、私から桐也に誕生日おめでとうラブレターだよ。誕生日は大切な人のことをいつも以上に想う、大切な日だもの。普段言えないありがとうの気持ちや、どんな風に桐也が好きかを書いていたら、便せんがたくさんになちゃった。私の心をそのまま届けるみたいで照れ臭いけど、お家に帰ってからじっくり読んでね」
「家に帰るまで待ちきれない。今、読んでもイイか?」
「駄目っ、恥ずかしいから絶対に嫌!」
「香穂子だって去年のコンサート後に、俺の目の前でジェリービーンズに挟めてあった手紙読んだだろ。すっげぇ恥ずかしかったんだぜ、おあいこじゃん。どのみち明日になったら顔会わすんだから、一緒だろ」
「もう〜そういうことすると、目の前で音読するからね。桐也が大好きですって。もっと恥ずかしいよ、きっと」


手紙を奪わまいと背伸びをしながら腕を空に掲げる桐也へ、一生懸命飛び跳ねて奪おうとする私。面白そうにからかいながら、ひらりと身をかわし続ける無邪気な追いかけっこが、砂浜へ二人分の足跡をどこまでも刻んでゆく。肩越しに振り返って悪戯な笑みを向けると、とうてい追いつかないスピード駆けだし、あっという間に引き離してしまった。

男の子なのに、駆け足で本気出すなんて、ズルイよ〜もう。


離れた場所で立ち止まり背中を向けているのは、私が書いた手紙を読んでいるのだろう。桐也から手紙をもらったことはあったけど、私から書いたのは初めてかも知れない。追いつく距離が縮まるほどにドキドキしながらも、じっと佇む背中の前で立ち止まったら、深呼吸を整える。


「桐也〜。やっと追いついた!」
「・・・っ! わわっ、香穂子! いきなりしがみついたら、びっくりするだろ」
「お誕生日、おめでとう。そしてありがとう。あなたに出会えて良かったと、心の底から想うよ」
「くそっ、手紙って卑怯だよな。形に残るからこう、心の底が震えてじーんとくるっていうか」
「私も桐也からお手紙もらったときは、泣きそうなくらい嬉しかった。自分で書いたら、もっともっと好きになったの」
「可愛いことしちゃってさ、どれだけ俺を惚れさせるつもり。くそ、じゃないよな。香穂子、ありがとう・・・最高の誕生日プレゼントだ。自分の気持ちがはっきりするだろ。俺もあんたに手紙を書いたとき、好きな気持ちが大きくなったのを覚えてるよ。それは今でも変わらなず、どんどん大きくなるんだぜ。俺もあんたに伝えたい・・・何度でも、大好きだよ」


あなたに伝えたい、大好きとありがとうの気持ちは、本当は便せんが何枚あってもたりないの。
普段は照れ臭くだからこれからは、毎日伝えていこうと想う・・・それが私たちの仲良しの秘訣だから、ね、そうでしょ?
素直になれたときの私や、あなたが大好きなの。


心の中にある、煌めく宝石。それは「ありがとう」と「大好き」の言葉。
たくさんの、そしてたった一つの大切想いが、あなたに届きますように。