ラヴァーズ・グラス
デートの帰り道に立ち寄ったカフェから見渡せるのは、通りを隔ててすぐ目の前にある海や砂浜。初めて入ったけど、ゆったりとした席の配置と自然な雰囲気、全面ガラス張りの開放感が、海沿いのカフェらしくて居心地が良いかも。
でも俺たちが座るこの席・・・窓の外を向いている、この二人がけの小さなソファーは、もしかしてつまりカップルシートっていうのか?
店内に流れるジャズのBGMを聞きながらソファーに身を委ねても、どうにも落ち着かないのは、コツンと寄りかかる香穂子がくれる柔らかさと温もりのせいかもしれない。海って見ていて飽きないよねと、無邪気に頬を綻ばせて嬉しそうに眺めるあんたを見ていて思う・・・。海ってあんたの表情みたく、くるくる変わるあんたの表情みたいだから、ずっと眺めていても飽きないのかもな。
「どうしたんだよ香穂子、飲まないのか? 喉乾いてたんだろ? まだ一滴も口つけてないじゃん」
「・・・うん、飲むよ。でもね、えっと・・・・」
「気に入らなかったのなら、注文し直せよ。それ、代わりに俺が飲んでやるから」
「いいの、このままで大丈夫! ありがとう、桐也」
メニューを取り寄せようと店員を呼びかけた衛藤の腕に、慌てて飛びつく香穂子に驚き、ぐっと近くに迫った瞳に鼓動が走り出す。衛藤の手を止めるのに香穂子が必死なら、ソファーに押し倒されそうな勢いを踏みとどまるのに、衛藤も必死。
分かったよ・・・と、溢れそうな心音を宥めながら吐息で囁けば、頬を桃色に染めて恥じらう香穂子が、小さな微笑みを浮かべて懐から甘くふり仰ぐ。
ブランデーグラスが大きくなったような、深めのグラスに色づくのは、これから海に沈む夕日のように真っ赤なブラッドオレンジのフローズンドリンク。カットされたオレンジと真っ赤なブラッドオレンジがグラスの縁に飾られており、南の島だよね!と目を輝かせた香穂子が一目惚れで注文したドリンクだった。なのに・・・衛藤がグラスのコーラを飲み干しても、香穂子のグラスは並々と注がれたまま。
綺麗だねと大はしゃぎして携帯に写メをしていたかと思ったら、同じくらい真っ赤に頬を染めて黙るんだもんな。一体このグラスに、あんたが恥ずかしがる何があったんだよ。だから、ちょっと大人な気分になりたいのとか見栄を張らずに、いつものあんたらしく、「ストロベリー・ピーチラテ」とか甘ったるそうなのにすれば良かったのに。
具合が悪い・・・わけじゃ無さそうだよな。だけど心配している俺の気も知らずに、無防備な心へ熱い爆弾を落としてくれるんだ。しかも、他の事が考えられなくなるくらい、とびきり強力なヤツをね。
「私たち、恋人同士に見えるんだね。初めて入ったお店の人にも、ちゃんと私たちの雰囲気がわかるんだなっていうのが嬉しくて。でもすごく照れ臭かったの・・・」
「は? なっ、何なんだよ突然。確かに手は繋いでたけど、人前でそんなべたべたした覚えはないぞ」
「ねぇ桐也、ほら見て。私のグラスにね、ストローが2本刺さっているんだよ。グラスも大きいし南国トロピカルだし、これってやっぱり、二人でどうぞっていう心遣いなのかな。それともお店の人が、一本多く用意しちゃったのかな」
このタイミングで既に、コーラを飲み終わっていて良かったと心の底から思う。俺のコーラはストロー1本だったぜ、見てみろよ。恋人同士にストローサービスなら、俺のコーラにも二本刺さってて良いはずだろ? 今月のスペシャルドリンクってあったのは、2本の恋人ストローなんだよと。ブラッドオレンジのフローズンドリンクみたく、真っ赤に顔を染める香穂子がひたむきにふり仰ぐから、俺まで身体中の熱が顔に集まってきたじゃん。
「まさかあんた、そのストローの使い道に困って、飲まずにすっと悩んでたのか?」
「うん・・・・。1本だけ使おうかなとか、2本一緒に使って同時に飲もうかなとか。でも2本同時に使うってあんまり聞かないから、桐也に笑われそうだったし。本当はね、一緒に飲めたらいいなぁって思っていたけど恥ずかしくて。その、大好きな人とおでこくっつけながら飲むのって、ベタかもしれないけど憧れだもん」
「香穂子がストロー握り締めながら、俺のこと熱い視線でちらちら見てた意味が、やっと分かったぜ。思わせぶりな視線って、罪だよな・・・勝手に期待したじゃん」
「え? 期待って、何を」
「何でもない、こっちの話」
俺の事が好きだとか、まだ帰りたくないから一緒にいたいとか・・・。物言いたげにじっと注がれる、甘く熱い眼差しに心焦がされていたなんて、照れ臭くて言えるはずが無いっての。まぁでも、広い意味では当たっていたのかな。照れ臭さに俺が却下するって、思わなかったのかよ・・・まったく、あんたって本当可愛いよな。
「フローズンドリンクに刺さっている2本のストローは、カップルにシェアされるためじゃなぃ。シャーベット状になってて飲みにくいから、氷がストローにつまったときのスペアなんだぜ。つまり一本は予備ってこと」
「えぇ〜っ! 桐也と私のカップルサービスじゃなかったの!?」
「っ・・・香穂子、声が大きい!」
「あ、ごめん・・・」
大きな声を上げた香穂子に驚いたのはむしろ俺の方で、慌てて抱き寄せ手で口を押さえながら、静かにしろと視線で訴えるしかできない。一つのグラスを飲み合う近さっていうのは、額が触れ合うこの状況がずっと続くんだよな。改めて気付いたらもう、真っ赤なドリンクと二本のストローしか目に映らなくて。ジタバタと身動ぐ身体を片腕で戒める力が、どんどん強まって肌と肌が触れ合ってゆく気がする。
「・・・っ、けほっ、こほっ」
「悪い、香穂子。大丈夫か?」
「うん、びっくりした。私こそ、突然驚かせちゃってごめんね」
「グラスが大きいから、2本で飲むんだ方が飲みやすいって理由もあるらしいぞ。その時の量が、直接グラスに口づけて飲む量と同じになるらしいぜ。バーとかで飲む、フローズンカクテルと同じだろ」
「へ〜桐也って詳しいんだね。って、未成年なのにどうしてバーの事知ってるの!?」
「俺は飲んでないからな、誤解するなよ。暁彦さんに連れてってもらった事があるんだ。もちろんジュース強制だったけどね。その時、名前が洒落てたノンアルコールのフローズンドリンクを頼んだら、俺もグラスにストロー2本ついてきて驚いたってわけ」
恋人ストーでないと知り、しゅんと肩を落として俯く香穂子へ差し出されたのは、飲まずに放置されていたブラッドオレンジのフローズンドリンク。あんたが飲まないから寂しがって泣いてるぜ、そう優しく微笑む衛藤の視線の先には、透明な滴を纏うグラスがあった。微笑みと優しさごとグラスを受け止める時に触れ合う、ささやかな指先さえ、心が甘く疼くほどくすぐったい。
ようやくストローに口を付けて飲み始めた香穂子に、ホッと胸を撫で下ろす自分の顔が、ガラス越しに映るのが照れ臭いけど・・・嫌いじゃないぜ。何だか海を背景にした一枚の写真みたいで、いいよな。青からオレンジに変わる海と空は、この日最後の輝きを放ち眩しく煌めいていた。西日の強さに窓際のブラインドカーテンが自動で降りてくると、映画のエンドロールみたくだねと、そう言って目を細める小さな重みがとても愛しく感じる。
本当、海って不思議だよな。穏やかになったり荒れたり、あんたに恋する俺の心みたいだぜ。
「ストロー2本一緒に使うのは、ちょっと飲みにくいし。ん〜でもやっぱりもう1本使わないのは寂しいよね。西日が落ち着くまでブラインドカーテンが降りてるし、どこにも見えないと思うの。ね? ちょっとだけ、ダメかな」
「却下。何もそんな恥ずかしいこと、外でやらなくてもいいじゃん。今時そんな事してるカップルいるのかよ、恥ずかしい」
「隣のカップルさんは、こっそりやってたよ。ガラスの端っこに映ってたの。私、仲良しぶりがずっと気になちゃって、いいいな〜ってちょっぴり羨ましかったの。家の中で二人っきりなら良いの? 」
「そういう問題じゃ、ない。てか、それもっと良くない・・・理性が効かなくなる。じゃぁあんた先に飲んでよ、俺がグラスもらって後から飲むから」
「二人で見つめ合いながらおでこくっつけ合って、同時に飲むから恋人ドリンクなの。はいこれ、桐也のストローだよ」
香穂子と俺とでしかできないのだと・・・特別な存在だと告白されて熱くせがまれたら、断るわけにいかないよな。香穂子も一度決めたことは簡単に曲げない強さを持っているし、俺もそうとう頑固だって自覚はあるけど。あっさりと色を塗り替えられちまううのは、惚れた弱みなんだろうな。降参だぜ、一緒にやってやるよ。
俺に渡したストローって、あんたさっきどっちも口付けてたやつだよな。いきなり間接キスかよ。
香穂子はさっそくテーブルへ置いたグラスに唇を寄せているから、理性や羞恥心の狭間で揺れる選択権さえもう無いんだ。早く来て?とキスをする時みたいな、甘くねだる唇に吸い寄せられ、ソファーの背もたれから見えないよう身を屈めて。上目遣いに飛び出しそうな鼓動とブラッドオレンジ色の熱さを、深呼吸で宥めがら顔を寄せると、加えたストロ−の反対側には、はにかむ香穂子が自分のストローを加えて待っていた。
最初はお互いに息を潜めていたけれど、額を寄せ合ううちに緊張もほぐれて、じゃれ合う余裕さえ生まれてくる。
2本のストローに繋がれて、溶け合おう。ストローでこのグラスの中身を飲み干したら、今度はあんたの番だぜ。