La place qui peut briller〜真っ直ぐな光




春一番が過ぎ去っても、まだ春の芽は小さく、頬を切るような寒さと綻ぶ温もりが行ったり来たりを繰り返す。だが数日続いた冷え込みも今日は緩み、天気予報でも春の温かさと告げるほど、ふり仰ぐ青空と太陽が心地良い。 「風も穏やかなこんな日は花見も楽しいけど、海を眺めるお浜見が素敵だと思うの」と、海が見渡せる欄干を握り締めて身を乗り出す香穂子が、肩越しに振り無邪気な笑顔で衛藤を呼ぶ。


お浜見?と眉を寄せながら不思議な言葉を繰り返す衛藤に、桐也は花より海でしょ?と。海から凪ぐ東風にふわりと髪を舞わせ、日だまりのスポットライトを浴びながら頬を綻ばせて。緩んだ寒さの隙間で顔を覗かせ始めた、小さい花みたいなあんたの隣にいる俺は、ほっと穏やかな気持ちになれるんだ。


「おい、そんなに身を乗り出すと危ないぞ。海はいつも見てただろ、練習後に」
「うん、でも今日は特別に素敵な気がするの。風も良い香りがするし・・・ほら、厚いカーテンが開いたみたいに透明な眩しさを感じない? 目の前に海が広がるとね、すごく気持ちが良いんだもの。ほら、桐也も春の海を感じようよ」
「海も好きだけど、俺は・・・」
「なぁに、桐也」
「何でもない。ほら、海風で髪が乱れてるぞ。こっち向けよ、直してやるから」


海と一つになるあんたの横顔を見つめているうちに、自然と頬が緩む自分に気付いた・・・なんて、照れ臭いから内緒。でも香穂子はそんな俺のことなどお見通しなんだろう。言いかけた言葉は、ひととき心の中にしまい込んで、抱き締めようと無意識に動いた手を、さりげなく髪の毛へと軌道修正。ふいにふり仰いだ視線が絡み合えば、あんたは可愛いとそう言って、俺を映す澄んだ瞳が嬉しそうに笑うんだ。


「俺を、可愛いっていうな」
「ごめんね、桐也は格好いいよ。ヴァイオリン弾いている姿も、真摯に頑張っている姿も、私を真剣に叱ってくれる真っ直ぐな眼差しも。でもね、ときどきすっごく可愛いんだもん。ねっねっ、気付いてる?桐也のほっぺが真っ赤っかなの」
「気付いてるよ、俺の顔が熱いことくらい。いつもあんたが真っ赤に照れる時の、仕返しのつもり? そういう事すると、もっとあんたが顔真っ赤にして照れること、してもらうからな」
「えっ! それは、困るの・・・。えっとね、さっき何か言いかけたでしょ。桐也の瞳の奥が熱く揺らめいたから私、胸がドキドキして視線がそらせなくなっちゃったの。だからね、言葉の続きが知りたいな」


俺の懐でちょこんと見上げる香穂子の小さなおねだりに誘われてしなやかな髪に指先を絡めて撫で梳きながら、手串で整えてゆく。だんだん心地良さに緩んでゆく、あんたの可愛い顔がもっと見たい・・・指先の心地良さを求めたくて。いつの間にか手串が優しい愛撫に変わり、手放せなくなっている事に気付いた頃には、髪から滑らせた手で頬を包み柔らかなキスを交わすんだ。


「・・んっ。き、桐也!?」
海も空も光も、確かに冬を越したんだって小さく知らせてくれているけど、あんたが一番眩しく輝いてるって俺は思う。出会った頃はヴァイオリン下手くそだったけど、上手くなったよな。俺が厳しく当たっても、泣き言一つ言わずに頑張ったし」
「桐也の厳しい練習があったから、もっと上を目指せたんだもの。ちょっと泣きそうになった事もあったけど、支えてくれている証だっていつでも感じていたよ。それにね、桐也がすごく頑張っていること知ってるもん。私も桐也みたく、揺らがない自信が持てるようにいっぱい練習して上手くなりたいって、思うの」
「あんた、柔らかくて良い香りする。春って、こんな香りなのかな。俺は、海よりも香穂子を感じていたい」


じっと見つめたまま一歩距離を詰め、肩を抱き寄せそのまま腕の中に閉じ込める。背中からすっぽり抱き締めた身体の前に腕を回して閉じ込め、ちょっとだけ重みをかけるように身を屈めれば、たちまち白い首筋や耳が桃色に染まり出す。もじもじと恥ずかしそうに弄っている香穂子の手に自分の指先を絡め、肩越しに頬をすり寄せれば、シルクのように滑らかで瑞々しい肌が、しっとり吸い付いて離れない。

久しぶりだから、一度触れたら離せなるって言おうとしてたんだ。だけど、もう手遅れみたいだぜ。


「桐也・・・あの、なかなか連絡できずにごめんね」
「いいって、オケの練習忙しかったんだろ? 香穂子のヴァイオリン聞いたら、頑張ってたことすぐに分かったよ。こうして握っている手の感触でも分かる。もうすぐだな、あんたがコンミスをする春の音楽祭。本番は俺も聞きに行くから、演奏楽しみにしてるぜ」


アンサンブルのコンサートでコンミスに認められた香穂子は、この一ヶ月オーケストラの練習で慌ただしく、本番を目前に控えた休日にやっと二人で会うことが出来た。オケの練習が終わってもパート練習や個人練習。帰宅しても自宅で譜読みをしたり本を読んで曲について解釈を深めて・・・夜になれば疲れがどっと出てしまい、メールや電話をする間もなく睡魔に襲われてしまうらしい。

夜に部屋でヴァイオリンの練習を済ませた後で携帯を握り締め、声を聞きたい・・・会いたいと願いながらもう限界かもと。そう思ったときにどちらともなくやってくる、たった一言のメールや眠る前のお休みコールに、心がふわりと温かくなりるのは、互いの部屋で携帯を握り締め合う二人が、きっと一緒。

ここが彼女の頑張り時なのだから、信じなくては。だから俺もあんたより一歩も二歩も先へ進むために、頑張るんだと自分自身に言い聞かせて、今まで以上に練習へ熱を入れていた。


あんたの笑顔が俺に頑張る力をくれるように、俺もあんたが頑張れるような何かを心へ送りたい・・・支えになりたい。
絡める指先ごと握り返しながら肩越しにふり仰ぎ、本当は毎日でも桐也に会いたかったんだよと。切なげに光る瞳を必死に見開いて仰ぐ香穂子の肩を、緩めた眼差しと一緒に抱き寄せた。


「何かあったら、いつでも電話しろって、言っただろ。あんた、俺に余計な気を遣って変な遠慮してただろ。俺の声が聞きたかったくせにさ」
「だって、今ヴァイオリン練習中かなとか、もう寝てるかなとか考えると電話しづらかったんだもん」
4月になって俺が学院に通うようになれば、いつでも会える・・・この切なさもあと少しの辛抱じゃん」


そう香穂子と自分の心に言い聞かせて髪へ鼻先を埋めれば、心へ春を呼ぶ優しい花の香りが、ふわりと俺を包み込む。足元へ降り注ぐ日だまりの温もりごと、あんたをこの腕に抱き締めさせてくれ。お互いがもっと音楽の高みを目差そうとすれば、今よりもっと会えない日がくると分かっていても、大事に育てるこの愛しい時間を大切にしたいから。



「嬉しそうにそよ風を受け止めるあんたも、待ち焦がれた春の微笑みに嬉しさを押さえきれなかった、海鳥みたいだぜ」
「だって嬉しいんだもん。桐也とこうしてゆっくりデート出来るの、久しぶりでしょ?キラキラの海を飛ぶ鳥さんみたく、私の心も空へ舞い上がりそうなの。本番前にリフレッシュ出来たから、音楽祭では良い演奏が出来そう」
「コンサートがあったから、バレンタインも慌ただしかったもんな。ホント言うと・・・さ、今日が、すっげぇ楽しみだったっんだぜ。声を聞きたい、会いたいって言うのは簡単だけど、頑張ってるあんたの邪魔したくなかったし。嬉しくて眠れなくなるなんて・・・マジ子供みたいだって思ったけど、今じゃそんな自分もけっこう好きだぜ」


冬の海の色は波も荒く鈍色をしていたけれど、春が近付くにつれて澄んだ青さが増してくる。重い鈍色の雲を映す冬の海もパステルカラーの青に変わり、空を見上げれば海辺を舞う海鳥たちの数も増え、光に敏感な彼らの動きも以前より活発になってきた気がする。見ているだけでも冷たい海水が、何となく微温くなったように感じるのは、強さを増した日差しが波間をきらきらと照らしているからだろう。

だけど海だけじゃなくて、俺には目の前に広がる景色の全てが、鮮やかな色彩で輝き始めたんだ。奏でる音の色、見る景色の色、心の色。あんたと一緒に過ごすうちに、ささやかな表情の変化や言葉の一つ一つに心が揺れて、心の色が一つ・・・また一つと増えていく。



「ねぇ桐也、学院の入試で演奏したとき、緊張した?」
「別に、全然。星奏学院は余裕で合格圏内だって、言ったじゃん」
「本番前とか、大きなステージでは緊張する? あ、でも桐也ならどんな時も、余裕かな」
「なんだ香穂子、音楽祭前に緊張してるのか。覚悟も決めて、いっぱい練習したじゃん」
「うん・・・


俺に背を預け向けたまま、こくんと頷く香穂子の手が、前で繋いだ指先ごときゅっと強く握られる。さらりと流れた両サイドの髪が隠すから、どんな表情をしているのか頭一つ分高い俺からは見えないのがもどかしい。だけど、耐えるように強く込められた力や、指先から伝わる微かな震えは、華奢な肩で背負う大きなプレッシャーと必死に戦っているのが分かる。


「私もね、桐也みたいにどんなときも『余裕だよ』って言えるようになりたいな
「俺だってコンクールのファイナルとか、大きな舞台では緊張するさ。あんたの為に演奏するときも」
「・・・ねぇ、どうすれば緊張しなくて済むのかな」
「舞台で緊張せずに普段通りの実力を出すには、確信が持てるまで毎日練習して、本番と同じ状態に積み重ねるんだ。本番の演奏は一度きりだ、やり直しはきかない。いつもの練習だって本番を意識すれば、最初の一曲目がものすごく大事なんだぜ」


指先ごと絡めた手を解けば、温もりにすがるように、放すまいと俺の腕を抱き締めてくる香穂子の手。背中から抱き締めたゆっくりと放すと、くるりと香穂子の肩を回し、海を背にして正面から向き合あわせる。普段は持ち前の前向きさと笑顔ででみんなを励ますけれど、今は泣きそうな子犬みたいな眼差しで、じっとふり仰いでいる。それでも澄んだ瞳の奥に宿るのは、諦めない真っ直ぐな光。

俺が音楽の道に迷ったときに、あんたが手を差し伸べてくれたように、あんたが進む道の光になれたらいいと思う。


演奏だけじゃない。普段の生活を、出来るだけ舞台をイメージして近づけるってのもあるぜ。歩き方や立ち振る舞いとか、突然やろうとしてもとけっこう落ち着かないだろ」
「自信がもてるように、いっぱい練習する。そして本番の舞台をイメージしながら動くってことなんだね」
「そういうこと。例えば電車のホームとか交差点で信号待ちしてる時に、周りを良く見るんだ。周りを客だと思って全員を感じ取れるようにする・・・とかね」


舞台では予想もしないことが起こるから、自分のことに必死だと周りを感じられなくなる。自分がリラックスして音楽の世界に集中したとき、周りの空間が変わるのを、あんたもアンサンブルの中で感じたことあるだろ。あんたも言ってる音楽していて幸せって、澄んだ空間の中で生まれる自分や周りの音、息づかいとかいろんな変化を肌で感じることなんじゃないの。そうだろ?



「迷いを振り切った時に見える道が、あんたの進むべき道だ。それを真っ直ぐ信じて進む最近の香穂子、いい顔してるよ。コンミスの責任感と覚悟で、表情が前よりも凛々しくなったと思う。音にもちゃんと、それが出てる。可愛い・・・その、綺麗になったよ」
「桐也・・・」
「香穂子、自分を信じろ。今まで頑張ってきたことは、絶対に自分を裏切らない。そうだろ?」



照れたように目尻を赤く染めて笑う香穂子が、力を宿した瞳で真っ直ぐ俺を映しながら頷いた。潤む瞳から溢れる透明な滴を零すまいと、必死に見開く目尻に困った微笑みで指先を添わす。


「あんたって、ホント泣き虫・・・いつもは気が強いのに」
「だって、桐也が優しいから。でもみんなの前では、泣かないもん。桐也の腕の中だけ、だよ」
「知ってる。強いところも弱いところも、そういう可愛いとこも全部、俺は好きだぜ」


そう小さく笑って頬に零れた軌跡にキスをして。くすぐったそうに身をよじらす香穂子の手を両手で包み、顔の前まで抱え上げる。とびきりのおまじない、してやるよ。そう言って息を潜めて見つめる香穂子に甘く囁き、包んだ手をそっと開き唇を押し当てた。誰よりも大事なあんたが音を紡ぐこの手に、俺の想いが宿るように心を込めて。


音楽の世界で上を目指すのなら、才能や能力はあるのが前提で、それ以上のものを求める・・・というか求めないとやっていけない。ただ上手いだけじゃ駄目。華があって、聞いている人に語りかけながら、心を伝えることの出来る演奏が大事なんだ。心で奏でる音楽・・・あんたは一番大切なものを、ちゃんと持っているだろ? 


揺れ動く自分の心に戸惑っていた俺に、変化する勇気をくれたあんたが、俺に新しい音楽をくれた。
俺を変えたってこと、それって実は凄いことなんだぜ。新しい芽を育てるのは自分だけど、心届ける音楽で春に咲く花の種を蒔いたのは、あんただから。