今日は髪型を変えて



ポストに届いた数通の郵便物を受け取り、思わず苦笑してしまったのは、演奏旅行の旅先から香穂子に当てた絵葉書が今頃届いたからだった。二週間ほど家を空けて昨日戻ったばかりなのだが、もう既に手元へ届いていたと思っていたのに。まさか俺が帰宅した後にポストへ届き、しかも書いた俺本人が君に届けるなんて予想もしなかった。


このままポストへ放置して、香穂子が取るのを待とうかとも思ったが、早く手渡したい気持もある。文面には君を恋しく想う言葉がそのまま綴られているから、改めて眺めると書いていた時の想いが蘇り、頬に熱さが募ってしまう。直接手渡すのは言葉にする以上に照れ臭いが、たまには良いかもしれないな。同じ写真や言葉を共に眺めながら、感じ思いや見た景色を伝えられたらいいと思うから。


そして数枚の郵便物の宛先を確かめた最後に現れたのは、淡いブルーの封筒。俺宛の手紙の裏をめくれば、差出人は同じ家に夫婦として暮らす香穂子の名前が書かれていた。なぜ香穂子が俺に手紙をくれたのだろうか?と不思議に思ったが、手の中にある手紙の温もりが記憶を灯し、瞳も頬も緩んでしまう。そういえば旅先から出した俺の絵葉書を受け取った香穂子が、自分も手紙を書きたいのだと言っていたのを思いだした。


ならば手渡しでも良さそうだが、どうしてもポストへ投函し、郵便屋に届けて欲しかったという、彼女なりのこだわりがあるのだろう。宿泊先のホテルへ送るわけにも行かず、悩んだあげく家から家になったのかと、想いを巡らせるだけで胸がいっぱいになれる。絵葉書が大好きだけど、小さなスペースには書ききれないから手紙にするのだと・・・そう言っていた通りだ。香穂子からのラブレターを、結婚してからもらうとは思わなかったが、嬉しいものだな。

俺が君に宛てた絵葉書が少し遅れて届いたのは、国際的な郵便事情もあるけれど、二人同じ日に届きたかった彼らの願いを、悪戯好きの妖精が叶えたのかも知れない。




玄関の扉に再び手をかけると、心へ届く温かな囁き声が聞こえてきた。まるで楽しいことを見つけた香穂子が、興奮を抑えきれない様子で瞳を輝かせ、手の平を俺の耳に添えつつ内緒話の吐息を吹き込むように。ふわふわと笑う優しい風に、こっちだよと誘われ足元を見れば、玄関先に飾ってある鉢植えから小さな花が咲き綻んでいる。

ようやく寒さが緩み始めたヨーロッパに、一足早い春を運んでくれるのは、鮮やかな花が彩るプランターや鉢植えなど。窓辺や玄関に花を飾るのがこの街の慣わしで、家庭を守る奥さんの大事なお仕事なのだと、張り切る香穂子が大切に育てている花たちだ。玄関先の中でも一際日当たりの良い場所に置かれていたのは、丸い鉢植えに花びらのドレスを纏ったころんと丸い花が一輪。微笑みを湛えて煌めきを放ち、そっと人目を惹き付けている。どうやら俺に話しかけてきたのは、この丸い花のようだな。


いつ花が咲くのかなと鉢植えの前にしゃがみ込みむ香穂子は、花に話しかけたりヴァイオリンを気かせたりと、我が子のように可愛がっていたな。昨夜帰宅したときにはまだ蕾だったから、きっと今朝にでも人知れず咲いたのだろう。ここ数日でぐっと寒さが緩んだから、せっかちに春を感じた花が目覚めたのかも知れないな・・・戻る寒さに驚かなければ良いのだが。

花が咲いた、ただそれだけでもこんなに胸が躍り、嬉しい気持になるんだな。この花が特別な存在なのは、俺と結婚した香穂子がヨーロッパに移り住み、新居の引っ越しを終えた記念の日に植えた宝物だから。新たな異国の地にしっかり根ざし、花を咲かせようと誓いを込めて種を蒔き、毎日水や肥料をあげて手入れをしていた、いわば彼女の分身。

新居に飾る花を買い求めたときに、花屋の主人にお祝いだと手渡されたのが一粒の種だった。これか咲く花の色や形は、育てている君の心を映したものだよとそういって、種をもらったときには、何の種類でどんな色の花が咲くのかは教えてもらえなかったんだ。だが咲いた花はいくつもの花びらを集めた丸い花、蕾の頃に香穂子が調べたところによるとラナンキュラスという種類らしい。色は太陽のように輝く元気なビタミンオレンジ、心を照らしてくれる笑顔のようだな。


香穂子はこの花が咲いたことに気付いているだろうか、だが指先を伸ばしそっと触れた花も土も乾いたまま。いつも彼女が水をあげているから光る滴を湛えているのに、今日はまだなのだろうか。なるほど、君は花を咲かせた事だけでな、くお腹が空いた事も知らせたかったんだな。今水を持ってくるから少し待っていて欲しい・・・そう花に語りかけて立ち上がると、記憶を便りにじょうろを探し当てて水をくむ。シャワーの雨を降らせると風呂で戯れる香穂子のように、嬉しそうに水を浴びながら笑っている・・・そんな微笑みが心へ灯った。





香穂子に手紙を渡すのと、花が咲いたことを知らせる為に俺たちの寝室へと脚を向けた。ノックをしてドアを開ければ、部屋の中に咲き乱れるのは、色とりどりに咲き乱れたドレスの花たち。その花の中心に埋もれる香穂子が、あれでもないこれでもないと、困ったように眉を寄せながら、次々にドレスをつまみ上げ選んでいる。

異国で出来た演奏家仲間達とアンサンブルを組む香穂子は、もうすぐコンサートを控えており、今日は朝から衣装選びに必死らしい。いつもは背中まで届く長い髪を下ろしているが、衣装に合わせるために綺麗にアップにまとめ、花の髪飾りと金色のイヤリングも着けていた。鏡の前に立ち、身に纏った空色のドレスの上に取り替えひっかえドレスを当てたり、結わえた髪を解いては髪型を変え直したり・・・女性は大変なんだな。


「ん〜どうしよう、衣装がなかなか決まらないよ・・・」


師事しているヴァイオリンの先生の紹介で、香穂子が組む事になった弦楽四重奏は全員が女性だそうだ。皆がプロのソリストとして活動しており、学長先生の思いつきで一曲演奏したのがきっかけに、演奏の評判が広がりあちこちからオファーが来ているらしい。それぞれの活動もあるし、俺とも相談しながら悩んだ香穂子は、まずは主婦を第一にしたいから生活に支障が出ない程度に、という約束で活動をすることになった。


全員が忙しく飛び回っていると、コンサートやリハーサルの日取りを決めるのも一苦労だが、女性には衣装合わせという別の苦労もあるらしい。香穂子が言うには、何よりも時間が掛かり現実的な問題の筆頭は、何よりもこの衣装合わせなのだそうだ。

アンサンブルならではの時間が掛かるものといえば、弓決めもあるだろう。弓を動かすのがアップとダウンの二つしか無いにも関わらず、どちらから始めるのか、どこで弓を返すのかを決めるのにもめる事も多くない。一人で動く場合には何の問題も無いことが、揃えることが基本のアンサンブルでは重要な問題にもなってくる。もちろんソリストとしてデビューした今も、仕事で何度かアンサンブルを組むことはある。だがやはり星奏学院に通っていた高校時代に、香穂子たちとアンサンブルを組んだのが懐かしい。



女性は髪型や装いひとつでも雰囲気が変わるんだな、時々はっと心奪われる瞬間がある。演奏に備えての盛装選びをする香穂子を見るのは、久しぶりぶりだからだろうか。ヴァイオリンの運指の邪魔にならないように、左手薬指の結婚指輪を右手にはめ直し、傍らには譜面を広げていて。常に音楽が離れない今の君。

香穂子のコンサートが近付くに連れて練習に費やす時間も増えてゆき、お互いの時間が限られてしまうのは寂しいけれど。音楽に熱中している一途でひたむきな姿は、昔も今も変わらず俺を惹き付けてやまない。俺も頑張らなければいけないな、君が前に進む姿を見ると俺も背筋が伸びる気持なんだ。結婚してから久しぶりに、プロのヴァイオリニストとして再び舞台に立つ彼女を、精一杯応援したいと思うし、音楽をたくさんの人にも聴いてもらいたいと願っている。


「空色のドレスがよく似合う、俺が好きな色だ」
「蓮・・・!」


ドアの前に佇みながらもドレスの海に阻まれてしまい、手紙を持ったまま立ちすくむ俺に気付いた香穂子が、あっと声を上げ慌てて床をかき集め始めた。やっと通れるくらいの小さな道が出来たところを、踏まないように気をつけながら注意深く君の所へ辿り着こう。これからコンサートが始まるみたいだなと瞳を緩めれば、照れ臭そうに頬を染めながら膝の上でドレスのスカートをきゅっと掴む・・・ささやかな仕草さえ胸を甘く締め付ける。

ほら、あまり腕の中で強く抱きしめてしまうと、抱えたドレスたちが皺になってしまうぞ。これから君がステージに立つための衣装なのだから、大切にしなくては。



「お部屋を散らかしちゃってごめんね、もうすぐ終わるから。久しぶりだから昔の衣装が着れるか心配で、あれこれ着てみたところなの。これで足の踏み場ができたかな・・・あっ!この辺りのドレスも避けなくちゃ蓮が座れないよね」
「いや、気にしなくてもいいから、じっくり選んで欲しい。久しぶりのコンサートなのだろう? 俺こそ取り込み中にすまなかったな」
「一人で弾くときにやオーケストラと共演するときには、みんな黒だから私がどんな色をのドレスを着ても平気なんだけど、女性が揃うと衣装も気を遣わなくちゃいけないんだもの。色や素材をあらかじめ打ち合わせるんだけど、みんな譲れないものがあるから決まらなくてね・・・困っちゃう」


床に散らばるドレスを踏まないように隣へ歩み寄ると、小さな空き地へ腰を下ろした。香穂子はこの空色のドレスを着たいらしいが、他のメンバーは赤や白、ピンク色のふわふわお姫様ドレスが良いのだとか、誰もが譲らず意見が合わないらしい。空色のドレスが一番好きだが、俺は香穂子が何を着ても似合うと思う。自信たっぷりに眼差しの奥へ届ければ、男性の蓮はタキシードだから良いなぁと、頬を膨らましてしまった。なるほど、衣装もアンサンブルのひとつなんだな。


「実際に当日持ち合わせたら話と違っていた・・・なんて事も音大時代にはあったよ。喧嘩になるとアンサンブルの危機だもの。でも今は携帯で写真を送り合っているから、忙しくて会えないメンバーとも連絡取れるし、便利になったなって思うの」
「練習で遅くなった君を迎えに行ったとき、アンサンブルの練習を聴かせてもらったが、いい演奏だったと思う。一人一人の技術や表現力のレベルも高いし、ハーモニーを作り上げるまとまりもある。それぞれが国籍も音楽の環境も違うんだろう? だが誰もが楽しそうに演奏してたし、心が一つになっていたと俺は感じた。最も大切で難しい、皆の息が合うようになったのだから、きっと大丈夫だ」
「蓮にそう言ってもらえると自信が沸いてくるよ、ありがとう」
「空色のドレスを着た姿を、携帯の写真に収めたらどうだろうか。ドレスの写真だけを送るよりも、香穂子にどれだけ似合うか分かってもらえると思う」


それは良い考えだねと手を叩いた香穂子は、足元に転がる携帯電話を俺に託し、いそいそと立ち上がってポーズを決め始めた。一度思いついたら行動に移すのが早いのは、相変わらずだな。小さな微笑みを注いでシャッターを押し、取った画像を保存した後に再び返すと、さっそく仲間へ写真を送っているようだ。願わくば、その・・・撮った写真を俺も欲しいんだが・・・。じっと見つめる俺が言うよりも早く、蓮の携帯にも送ちゃったから後で見てねと無邪気に笑った。

どうして分かったのだろうかと驚く俺の心は、既にお見通しという訳か。やっぱり私たちが一番息が合うよねと、悪戯に笑みを浮かべこつんと肩を預ける重みが心地良い。そうだな、言葉に出さなくても感じ合えるほど息が合うようになるまで、時間がかかったな。想いを重ね、心や音楽を磨き、いろいろな苦労をお互いに乗り越えたから今がある。


「蓮、郵便屋さん来た? ポストにお手紙来てる? 今日辺りにお手紙が届く予定なの」
「あぁ来ていたぞ、香穂子宛の絵葉書と俺宛の青い手紙が。演奏旅行先から君に宛てた絵葉書なんだが、どうやら俺の方が早く君の元へ辿り着いたようだ。直接手渡すのは照れ臭いが、受け取って欲しい。音楽と花に溢れる温かい街だった、いつか君と一緒に訪ねたい・・・そう思う」


喜びいっぱいの眼差しで真っ直ぐ振り仰ぐ瞳は、小さな悪戯を秘めた子供のように輝いている。だが俺はもう知っているんだ、今日届く予定だった手紙は、君が俺に宛てた手紙だろう? 数通の手紙を披露して緩め微笑みかけると、青い封筒に気付いた笑顔が桃色に染まった。その桃色の花をもっと咲かせるために、今度は俺からも・・・。持っていた絵葉書を差し出せば、ラブレターを直接渡す恋の告白のように、高鳴る鼓動が踊り出す。


「ありがとう! うわ〜綺麗な湖と街の景色の写真、とっても素敵な絵葉書だね。留学中だけじゃなくて結婚した今でも、蓮からこうして絵葉書をもらえるのが、すごく嬉しいの。大好きな人からの手紙がポストに入っていたら、嬉しくて息が止まりそうになるんだもの。文字が形に残るだけじゃなくて、絵葉書を選んでくれた気持も全部詰まっているから、私の宝物だよ。いつも私が感じる気持ちを、蓮にも届けたかったの」
「君に喜んでもらえて嬉しい。本当は旅先で君に会いたい気持が止められなくて・・・溢れそうな想いを手紙に乗せたんだ。離れていても、心と音楽は君の傍にあるようにと願って。だが、香穂子から手紙をもらえるとは、嬉しい驚きだった。そうだ香穂子、もう一つ嬉しい知らせがあるんだ。今日は玄関の花に水をやっていなかっただろう?」
「あ、忘れてた! もしかして蓮がお花に水をあげてくれたの?」 


ごめんねとすまなそうに眉を寄せて謝る香穂子の頬を包むと、額にそっとあやすキスを唇に降らせた。温かな滴が心の奥まで染み込み、優しい花を咲かせる潤いになるように。収録などの仕事はこなしているものの、基本的に主婦をしている香穂子が一番時間に融通が利く。ここしばらく香穂子は、他のメンバーが本番を終えた後、夜中に練習やリハーサルをする日々が続いていたのだから、疲れも相当溜まっている筈だ。

それでも疲れを見せず、家の仕事も音楽も両方こなしているのだから、尊敬せずにはいられない。休ませてやりたいと思いながらも、遅くまでベッドの中で抱きしめ愛を身体で語ってしまう俺は、もう少し君を気遣い反省すべきだと・・・何度自分を戒めただろうか。


「また泣きそうな顔してる・・・私は平気だって言ってるじゃない。だってどんなに忙しくても、蓮が私に心の栄養をくれるんだもの。いっぱいキスしてくれるし、ぎゅっと強く抱きしめて私の心に印を付けてくれる。蓮のヴァイオリンを聴くと、私も頑張ろう〜って思えるんだよ。今までは蓮のコンサートを私が客席から聴いていたけど、今度は蓮に聴いてもらえるのが嬉しいの。だからね、笑って?」
「香穂子が喜ぶ知らせを持ってきたのに、俺の方が幸せをもらってしまったな」
「私が喜ぶ知らせって、なぁに? にこにこ笑いながら隠すなんて意地悪だよ、ねぇねぇ早く教えて?」


ぷぅと頬を膨らませながら俺の両肩を掴み、急かすように揺さぶってくる。分かった、降参だ・・・教えるから大人しくしてくれないか? 必死に宥めると動きを止めた香穂子に、来ていたジャケットを羽織らせた。きっと知らせを聞いたら、薄着のドレスのまますぐ部屋を飛び出してしまうだろうから。

おめでとう・・・そう言って瞳を見つめながら微笑み、きょとんと不思議そうに小首を傾げる香穂子の耳に、内緒話の甘い吐息を吹き込んだ。




夏の激しい熱さや雨風、厳しい冬の寒さを乗り越え春に花を咲かせたように、香穂子も言葉や生活文化の違いなどいくつもの困難を、ひたむきさや明るさで乗り越えてきたんだな。小さな太陽へ眼差しを向けると、そこにあるものが静かに語りかけてくるようだ。予想通りに玄関先に飛び出し、興奮と驚きに目を見開きながら、花の前で崩れるように膝を折ってしゃがみ込む、香穂子の肩をそっと優しく抱き寄せた。


咲き誇る二つの花は、異国で新たな生活を始めた日に種から育て始めた生活を鉢植えと、そして音楽と人生を俺と共に新たな一歩を踏み始めた君。

花は光や水が無いと枯れてしまうが、俺たちの心にある愛という花も、手をかけなければ枯れてしまう。けれども想いを伝える言葉や優しさや思いやり、そして音楽・・・そんな栄養を注げば愛は可憐な花を咲かせ大きく育つのだと思う。