口移し

どうやら風邪を引いてしまった・・・らしい。



滅多に風邪は引かないのだが、朝からベッドに張り付いたまま起き上がれずにいる。
目が覚めて腕の中にいた香穂子が、感じる呼吸や触れ合う体温からいつもと違うと、俺自身よりも真っ先に気づて飛び起きた。目覚めたてを感じさせないくらい忙しなく動き回る姿を、ベッドの中からぼんやり眺めていると、次々に用意されたのは氷枕や氷嚢や毛布やタオルなど・・・。

起き上がれないより以前に、強引に寝かしつけられたと言っても良いのだが。


今の季節流行の風邪は胃腸に来ると言われていた通りに、吐き気をもよおし身体も熱っぽく重い・・・。
自分は平気だろうと思ってたのが、油断だったのだろうか。こんなに大きな風邪を引いたのは久しぶりだ。



「蓮、しっかりして〜! 痛いのはどこ?苦しい? お腹に何もないのに戻すのは辛いでしょう・・・。昨日の夕ご飯に変な物出しちゃったのかな? 今日は休日だからお医者も休みだし・・・このまま蓮にもしもの事があったら、私どうしよう〜!」 
「香穂子、縁起でもない事を言わないでくれ。ただの風邪だから、寝ていれば治る。君だってそうだったろう?」
「だ、だって〜私、こんなに具合の悪い蓮を見るのが初めてなんだもん・・・。もう驚いて動揺しっぱなしなんだよ。私が具合悪くなった時に、蓮はいつも冷静に優しく対処してくれるのが、今更だけど凄いなって思うの」


本当は落ち着いてなどいなかったと心の中では苦笑を漏らすが、安心して欲しいから微笑みで覆い隠した。
俺よりも隣で心配そうに見守る香穂子の方が辛そうで、潤んだ大きな瞳には涙をいっぱいに溜めている。
これ以上泣かないようにと必死で堪えながら、ぐっと強く噛みしめる唇が痛々しい・・・。


俺たちの寝室にあるベッドは広く大きなサイズの為、淵に腰掛けただけでは真ん中で寝ている俺までの距離が遠い。間近に寄り添おうと、ベッドの上によじ登ってぺたりと枕元に座り込んだ香穂子が、ぎゅっと両手で包むように手を握りしめてくれている。数日前に彼女が風邪を引いて寝込んだ時に、慌てていた俺を見ているようだ。


何か言おうと口を開きかければ、どうしたの?と力無い小さな声を聞き取ろうと身を屈めて顔を寄せてくれる。
必死でかいがいしい姿が嬉しくて、ちょっとだけ甘えたい気持ちになるのは何故だろう。
風邪で心が弱っているからなのか、自分を押さえる理性の力がいつもより少ないからなのか。


「恐らく先日に香穂子が引いた風邪をもらったのだろうな、症状が同じだ。君もこんなに辛かったんだな・・・」
「ほらやっぱり、具合悪いのは私のせいじゃない! 私の事は良いの、それよりも蓮が・・・コンサート前の大事な時期なのに・・・ごめんね」


心配でたまらない香穂子は安静に寝かせてくれるどころか取り乱し、寝ている俺の胸に強くしがみついてしまう。
横になったまま重い腕をゆるゆる持ち上げると、抱きついたまましゃくり上げる香穂子の髪に指先を絡めて。
緩やかな曲を奏でるように何度も優しく撫で梳けば、触れる胸で呼吸と涙が次第に落ち着いてくるのを感じた。

頃合いを見計らい、少し苦しいのだが・・・と控えめに呟けば、胸に突っ伏した顔をパッと上げ、ごめんねとすまなそうに頬を赤らめた。それでも離れようとはせずに枕元で見守る頬を、髪から滑らせた指先でそっと包み込む。


香穂子が取り乱す気持ちも分かる、何より心を痛めるほど心配をかけているのは俺なんだし。
それに俺だって香穂子が寝込んだ時には、他の何も考えられず、心臓が潰れる思いだったんだ。
食事も取れず、水を飲むのも辛そうに寝込むのを、側にいてただ手を握りしめ見守る事しかできなくて。
回復力は自分自身との戦いとはいえ、俺が変わりたいと・・・辛さを半分貰うことが出来たならどんなにか良いだろうかと思っていた。


彼女の風邪が治ってすっかり元気になり、ほっと安堵したのも束の間。今度は俺が同じように風邪を引いてしまったのだが、君を泣かせている方がよっぽど辛いのだと改めて思い知った。
心も身体も、互いに健康が一番だな。寝込んでいる場合ではない、俺も君の為に早く元気にならなくては。


「どうか泣かないでくれ、香穂子のせいじゃない。体調管理は自分の責任だし、同じ家に暮らして生活を共にすれば仕方の無い事だ。君が早く元気になれたのなら、俺は嬉しい。それに、風邪をもらっても仕方の無い事をしたのは俺なんだし・・・」
「もうっ、蓮が風邪引いたのは絶対にあれが原因だと思うの。乾いた喉が潤った代わりに、風邪菌だけじゃなくて全部蓮に吸い取られちゃったもん。私ね、あの後の記憶がいつもパッタリ無いんだよ」
「それは薬が効いて、君が眠ってしまったからだろう。だが、無理をさせたのなら、すまなかったな」
「でも・・・ね、本当は凄く嬉しかったの。だって・・・ほら、元気な時なら恥ずかしくてなかなか出来ないでしょう?」
「・・・・・・・・」


恥ずかしそうに頬を赤く染めて俯きながら、もじもじと手をいじっている姿が可愛くて、思い出す自分にも熱さが募ってくる。風邪の熱ではない、別の何かが熱く込み上げ身体を疼かせるから。
確かに非常時以外なら、よほどお互いが熱く高まるか、酔った雰囲気の中でしかしないだろう。




香穂子が言っていた「あれ」というのは、口移して水を飲ませる行為だ。
自分でコップを持つ力も無く弱り果てた彼女へ何とか水分を取らせよう、どうすれば飲ませられるかと。
あれこれ悩んで考えた末に思いついたのが、俺が口に含んで少しずつ直接飲ませる方法だった。

ミネラルウォーターは弱った胃に重いだろうから、飲ませたのは身体に優しく吸収の良いスポーツドリンク。
冷た過ぎないようにと口の中に含んで人肌程度に温めながら、様子を見て重ねた唇の隙間から注ぎ込んでいった。その時に風邪も一緒に吸い取ってしまったのだろうな。


初めは俺も余裕が無くて必死だったのだが、食欲や元気な輝きを取り戻して行くに連れて、当初の目的がだいぶ変わっていったように思う。甘えてねだる彼女の為に、そして楽しみを覚えた自分の為にと。もう口移しで飲ませる機会が無いのは残念で仕方がなかったし、俺も君の口から飲んでみたかったのは正直な気持ちだ。


同じ状況の今なら、密かな願いは叶うだろうか?


「ねぇ、何か欲しい物ある? 柔らかいスープとかなら、食べられそうかな」
「欲しいもの・・・そうだな、少し喉が渇いた。それと俺の心の薬、香穂子のキスが欲しい」
「蓮はお水が欲しいの? それとも・・・えっと。一度に二つなんて無理だよ、こんな時だけ欲張りさんなんだから」
「二つを同時に出来る方法があるじゃないか、俺が君へ飲ませたように。風邪の時なら良いのだろう?」
「えっ! そ、そんな〜駄目っ、恥ずかしくて出来ないよ。蓮は自分で起き上がって、お水飲めるでしょう?」
「香穂子から直接飲ませて欲しいと思ったんだが、どうしても駄目だろうか?」
「うっ・・・駄目というか、その。私の元気がみんな蓮に吸い取られそうというか・・・それ以上に蓮の具合が心配だし・・・本当に何もしないよね?」
「君が欲しい事に変わりはないが、いくら俺でも今日は無理だ。具合が悪いのは本当だから安心してくれ・・・というの変な言い方だな」


火を噴き出すくらい真っ赤に顔を染めた香穂子は、俺の視線を受け止めながらじっと何かを考えている。しかし暫くすると振動を伝えないようにと気を配りつつ、広いベッドの上を膝立ちで移動し始めた。僅かに揺れる振動を感じながら見守れば、ベッドサイドのテーブルに置かれていたスポーツドリンクのペットボトルを手にして戻ってきた。
ボトルの蓋を捻り開けると口元へ運ぼうとしたが、何故か途中で止めてしまい、膝の上に乗せたまま両手できゅっと握りしめている。


枕元に座り込む彼女が、そわそわと落ち着かないのが伝わってくるだけに、期待は膨らんで高まってしまう。


「香穂子・・・?」
「あの・・・あのね、恥ずかしいから目を閉じて欲しいな」
「分かった・・・」
「緊張してるから、蓮みたいに上手く飲ませられないかもだけど。ちょっと脇に零しちゃっても、怒らないでね」
「君の唇ごと、零れないように俺がしっかり受け止めるから」
「も、もう〜蓮ってば楽しんでるでしょう?」
「喉が渇いているのは本当だ、それに君の口づけが欲しいのも。今日は朝から慌ただしかったから、まだおはようのキスも貰っていない。身体も心もどちらも渇いているんだ」


ベッドに横になったまま隣に寄り添う香穂子を見上げ、潤みかける瞳に想いを伝えるべく真っ直ぐに射抜いた。
一つ深呼吸をすると躊躇いと恥ずかしさを振り切るように、一気にペットボトルに口をつけて中身のスポーツドリンクを口に含む。目を閉じて・・・と拗ねたように訴える視線に応え、頬を緩めたまま瞳を閉じた。




ふわりと甘い香りが漂ったと思った瞬間に、柔らかい温かさが唇に重なる。
恥ずかしさと緊張で僅かに震える唇を薄く開いて受け止め、抱きしめるように髪に指を絡ませると、合図となってゆっくりと口に含まれたスポーツドリンクが俺の中へ注ぎ込まれてゆく・・・。


一度唇が離れてからコクンと喉を鳴らして飲み下し、瞳を開ければ目の前にまだ俺を見つめる君がいて。もっと飲みたい・・・そう視線で伝えれば、再び重なる唇と共に、優さの詰まった温かい滴が身体と心を潤してくれた。






「香穂子の手は、冷たくて気持ちが良いな」
「ほらっ、やっぱりお熱があるんだよ。今日はベッドから起きちゃ駄目、ヴァイオリンの練習もお休み。私も仕事が無い時にはずっと側にいるから、ゆっくり休んでね」
「あぁ・・・すまないな、そうさせてもらう。良いコンディションで演奏する為にも、早く元気にならなくては。キスの続きも、それからだな」
「やっ、もう〜蓮ってば恥ずかしいんだからっ。あの・・・ね、待ってるから、早く元気になってね」


身を屈ませはにかんだ微笑みで覗き込みながら、汗で張り付いた前髪を丁寧に払いのけ、乱れた髪を優しく撫で梳いてくれる手が心地良い。呼吸と頬が柔らかく緩んでゆくのが分かる。はだけた毛布を肩先まで引き上げてくれた香穂子にありがとうと伝えれば、ほんのり染まった頬のまま、きょとんと不思議そうな眼差しを向けてきた。


「・・・蓮?」
「一人で無くて良かった・・・香穂子がいてくれて良かったと強く思う。少し弱った身体と心を抱いたまま、側に感じる君の存在がこんなにも心強い」
「私もね、蓮がずっと側で看病してくれた時は嬉しかった。もう一人じゃないんだよね・・・蓮がいたから元気になれたの、ありがとう。だって私たち夫婦じゃない、いろんな事があるけれど二人で支え合わなくちゃ。一緒にいられる今が何よりも幸せだから。あのね、もう少しお水・・・飲む?」
「あぁ・・・ではお願いしようか」


嬉しそうに笑顔を見せた香穂子が屈めた身体を起こし、側に置いてあったスポーツドリンクのペットボトルを開けて口に含んでいる。多少恥ずかしさが残っているようだが、先程よりも幾分か慣れたようだな。
再び身を屈めてきた唇を薄く開いて受け止めると、キシリと音を立てるベッドのスプリングと一緒に覆い被さる背中を微笑みで包んで抱きしめた。




想いの分だけ温かくなった水が注がれ、言葉にならない優しさが熱さとなって満ち広がってゆく。
注がれる水をコクンと飲み下し無くなっても、いつしか両腕で柔らかい身体を閉じ込め、ただ互いに唇を求めて重ね合わせていた。


一つ一つの仕草から、君の声が聞こえてくる。
握り返す手の平から、触れる唇から俺の心に伝わり奥から震わせる大切な何かが。
ゆっくりと少しずつ口の中へと注がれる水が、乾いた大地を潤すように-----。