唇を確かめるように




海の見える公園のベンチに座る香穂子の傍らには、楽譜の入った鞄と小物が入ったポシェットが置かれていて、足元には、愛用のヴァイオリンケース。ポシェットから手鏡を取り出した手鏡で前髪やサイドの乱れを手串で整えて、その後にはビューラーで持ち上げた睫毛のチェックも忘れずに。にっと口角を上げて頬を綻ばせながら笑顔も練習。

すぐ目の前まで来てるのに、メイク直しに夢中の香穂子は衛藤がいることに気付いていないらしい。まぁ・・・いっか、このまま少し様子を見ても。声をかけようかと思ったけど、香穂子があまりにも楽しそうだから、ちょっと待ってみるか。


今日はいつもより笑顔が可愛いぞと、笑顔の自分に語りかけるのは、あんたが大好きな人に会う前のおまじないだって知ってるんだぜ。どうして知ってるのかと拗ねられたら困るし、香穂子だけの秘密だろうから言わないけれど、魔法をかけるその笑顔が自分の為だと分かるから、込み上げる愛しさが止まらない。


あんたが唇にリップを塗る仕草とか、可愛く化粧をしている様子を見るのは好きなんだけどな。こびとの靴屋や鶴の恩返しの童話まで出してきて、メイクの過程は覗いちゃ駄目なの!と、真っ赤に膨らました頬の風船と泣きそうな瞳で、乙女心は大切にね?と懇願されたのはちょっと前のことだ。

約束の時間まで未だ余裕があるし、だからこうして終わるまで待っているのは乙女心を大切にしようね?という香穂子のお願いが、心と身体にしっかり染み込んだ証なんだろうと思う。


「あ、そうだ・・・唇が乾燥しないようにリップクリームを塗っておかなくちゃ。キスしたときに、もしもカサカサだと困っちゃうし。うん、やっぱり二人で蕩けるのは、しっとりぷるるんだよね。だって桐也の唇は、柔らかくて吸い付いちゃうんだもの。気持ちいいって言われるように、私も頑張らなくちゃ」


一緒に練習をする衛藤を待ちながら、熱心に手鏡を見つめてメイク直しに余念がない。赤ちゃんの頬みたいに淡いピンク色のチューブを取り出したら、伸ばした人差し指で上から下へとゆっくり唇をなぞりながら、ちょっぴり出した透明なグロスを丁寧に塗ってゆく。その仕草が色っぽいのと、キスのためにというのが嬉しくて、自然と顔に熱が込み上げてしまう。あんたってホント可愛いよな・・・やっぱり、じっと待つのはもう限界みたいだぜ。


「何一人で、鏡みながらニヤニヤしてたんだ?」
「・・・っ、桐也!」


唇を映す手鏡に夢中の香穂子目の前までそっと静かに歩み寄ると、身を屈めて鏡の奥でニコニコ笑う瞳を覗き込む。その笑顔、早く俺に見せて欲しいんだけどな。不意打ちの呼びかけにはっと視線を上れば、鼻先が触れ合う近さで目の前に映る衛藤の顔。悪戯を仕掛けた子供みたいな無邪気さで、真っ直ぐふり仰ぐ瞳がそこにある。

胸に手を当てたままホッと一息。びっくりしたよと、頬をぷぅっと膨らますけれど、すぐに嬉しさを全開にしたピンク色の笑顔に変わった。


「嬉しそうな顔しちゃって、俺に会えるのがそんなに嬉しかった?」
「うん! すごく嬉しくて待ちきれなかったから、今日は少し早く着いちゃったの。大好きな人には可愛い自分でお迎えしたいから、鏡でチェックしてたんだよ」
「そこでマジに返されると、逆に俺の方が照れるじゃん・・・可愛いことしちゃってさ」
「でもごめんね、鏡を見ていたら桐也が目の前にいたこと気付かなかったよ・・・」
「いいって、気にすんなよ。あんたの顔、くるくる変わるから見てて面白かったけどさ。香穂子すごくご機嫌じゃん、何か良いことあったのか? この調子でヴァイオリンの調子も最高だと良いんだけどな」


いつから居たの?と小首を傾げる問いかけに、少し考えてから「たった今来たところ」と、笑みを浮かべて隣に腰を下ろした。本当はもう少し前からあんたを見ていたんだけど、それは秘密。お気に入りのワンピースを着て、腕に付けているのは、この前の休日にショッピングをしたときに、可愛さに一目惚れして買ってたシュシュ・・・。身に着けている好きなアイテムも、あんたの笑顔の素になるんだろう。


「ん〜どうしようかな、桐也に教えちゃおうかな〜」
「おい、焦らさないで教えてくれよ」


隠し事が苦手だから、いずれ正直に話してくれると分かっていても、楽しげに小首を左右に傾けながら遊ぶ仕草に焦らされてしまう。眉を寄せて食いつく自分がカッコ悪いじゃん、そう気付くと一呼吸落ち着いて姿勢を正す。あんたの瞳を見れば、嬉しくて話さずにいられないのが分かるから、一歩引けばほら・・・香穂子の方から瞳を輝かせて身を乗り出してくるんだ。


「実はね、友達に素敵なリップクリームをもらったの。ほらこれだよ、赤ちゃんのほっぺみたく可愛い色でしょう? リップグロスみたいなんだけど、最近話題の唇用の美容液なんだって。これを使うとキスしたくなるらしいの、だから試してみてって薦められて・・・」
「で、使ってみたら人気の唇用美容液の効果は抜群。潤いがぷるんと閉じ込められた唇のしっとりさに、思わず嬉しくなって、キスがしたくなったって訳か。あんた黙ってても、ちゃんと顔に書いてあるぞ。あんたの唇が誘ってるぜ、俺と早くキスしたいってさ」
「えっ! 本当!? やだ、どこに書いてあるの?  恥ずかしいよ〜」


ポンと真っ赤に火を噴き出して林檎になった頬を手の平で押さえながら、そわそわと身動ぐ香穂子は予想通りで、思わず零れてしまう笑みを押さえるのに必死。俺を待ちながらあんなに熱心に鏡を見つめていて、キスしたとき一緒に蕩けたいと、心の問いかけがちゃんと口に出ていたんだぜ。煌めく泉のように艶めいて、触れたら柔らかそうな自然な色とふっくらした質感。見ただけでも、すぐ食べたいくらいに美味しそうだ。


「ほら、ここにちゃんと書いてあるじゃん。俺が確かめてやるよ、あんたが嬉しくなるほどの唇をさ」
「き、桐也・・・!? んっ・・・」


照れ臭さに俯く顎を捕らえて上を向かせると、もう片方の指先で唇をゆっくりなぞってゆく。早く唇を重ね舌先で直接確かめたいと、逸る気持ちを抑えながら。指先だけで、しっとり吸い付く柔らかさに蕩けてしまいそうなのに、直接重ねたらどうなってしまうのだろう。そう最後まで考えること無く勝手に身体は動いてしまい、鼻先がぶつからないよう顔を少しだけ傾け
ながら、吸い寄せられるままキスを重ねてゆく。


「ヤバイ、すげぇ気持ちいい・・・」
「桐也、ここ・・・外・・だから・・・もうそろそろ・・・・・」


触れた瞬間、理性が焼き切れるような・・・閉じた目の裏で熱く弾けるような快感が襲う。例えるならなば香穂子が好きな、ココアの中でマシュマロがしゅわっと蕩ける、あんな感覚。キスをしたくなる唇になれる・・・手の中でしっかり握り締めている、淡い桜色のリップグロスのチューブの宣伝効果は、抜群だった。だからあんたは嬉しそうだったんだな。


大好きだと言われた自分がもっと大切に思えると、二人で繋ぐ手や唇は自分だけじゃなく二人の物なんだと想う。だから触れ合って気持ち良いとお互い嬉しいし、もっと触れて欲しいと願ってしまう。重ねた唇を少しだけずらしながら、息継ぎする間に、蕩けた吐息で甘く囁く。


ほんのの一瞬触れて確かめるだけ、そう思っていたのに。どんなに残った理性をかき集めても、淡雪のように一瞬で熱に溶かされてしまう。ヤバイ・・・キスが、あんたの唇が気持ち良すぎて、離せないもないぜ。