唇強奪犯
私服の他校生が正門前で誰かを待っている、それがかなり格好良い・・・何度か見ているが誰を待っているのだろうかと。放課後の星奏学院にざわめく女子たちの声を遠巻きに聞き、もしやと思った香穂子が携帯電話を見れば、予想通り衛藤から「会いに来てやったぞ、早く来い」とメールが届いていた。練習を終えたヴァイオリンを片付け、今から行くとメールに返信をして。楽器を持つこの身は簡単に急げないのに、会いたい気持だけが先に走る。
私服で待つ他校生というだけでも、通り過ぎる学院の生徒達の視線を集めているが、本人は全く気にした様子もないらしい。正門前で待っていた衛藤に気付いた香穂子が、元気よく手を振りながら足早に駆け寄ると、煉瓦造りの門柱に寄りかかっていた身体を起こし、一歩を踏み出し・・・。待ち合わせしていなかったけど会えて嬉しいと、笑顔で真っ直ぐふり仰ぐ香穂子の腕を、いきなり掴み攫うように歩き出してしまった。
「衛藤くん、ちょっと・・・ねぇどこ行くの? そんなに強く掴んだら、腕痛いよ」
「香穂子、あんたを逮捕しに来た」
「へっ、逮捕? 衛藤くんが私を? 衛藤くんいつから刑事さんになったの。あ! ひょっとして昨日テレビでやってた刑事ドラマ、ヴァイオリン刑事(デカ)を見たんでしょう。私あの番組大好きなの、ねっねっ、あれ格好いいよね〜」
「香穂子には悪いけど。俺、あぁいうのあんまり好きじゃないんだよね」
「そう? ヴァイオリン弾きながら、主人公お馴染みの決め台詞を言って欲しかったのに・・・残念。でもね、私は衛藤くんのヴァイオリンの方が好きだし、素敵だなって思うの!」
いつも心が無防備なった隙に、真っ直ぐ届く想いの熱さに、息が止まりそうになる。遠回しや飾った言葉は苦手だから、俺もストレートだと思うけど、直球の威力はあんたに絶対敵わないと思うんだ。今も、そしてこれからもずっと。最初はむくれていたのに、どことなく香穂子が嬉しそうなのは、いつもよりしっかり強く手を握り合っているからだろう。捕まえたとそう言って腕を掴んでいた手は、いつの間にか手の中へ滑り降りて、お互いの手がしっかり繋ぎ合っていた。
どうして俺がこの手を掴んでいるかって、あんたは知ってるか?
心から大好きな人のどんな悪戯や気まぐれにも、目をつぶって飛び込んでしまうのが惚れた弱みっていうんだよな。今のは、まさにそんな感じだ。惚れた相手に振り回されない奴がいたら、会ってみたいぜ。いやこの場合、振り回しているのは・・・奪おうとしているのは俺か。でも悪くないって思えるのは、嬉しそうにはしゃぐあんたが、とっても可愛いって思えるから。
「もしかして衛藤くんがぎゅーっと掴んでいる私の手は、犯人を捕まえた手錠ってことかな。でもちょっと待って、何で私が衛藤くんに捕まらなくちゃいけないのかな。私、犯人役より女性刑事の役がいいなぁ」
「悪いけど、テレビドラマの話じゃない。香穂子を捕まえに来たって、さっきも言っただろう? あんたこの間、俺から大切な物をこっそり内緒で奪ったんだ。知らないとは言わせないぜ」
「知らないよ、意味分かんない。言いがかりは止めてよね。私、衛藤くんの大切な宝物なんて、取ってないもん!」
繋いだ手を揺さぶりながらどこへ行くのかと問う香穂子に、彼女が好きなドラマに例えて事件現場と一言告げれば、不安そうに瞳を曇らせてしまう。本当に覚えてないのか? あれから俺は、寝ても覚めて香穂子の事を考えていたっていうのに。
休日のデートで訪れた場所と同じ港桟橋に辿り着いた頃には、目の前に広がるのはゆっくりと暮れゆく港町の景色。赤と濃紺のグラデーションが一つになる、海と空へ輝く街の灯りたち。昼と夜では違う景色を見せていて、昼間は青空と海が穏やかに思えたのに、暗闇となった海は吸い込まれそうな怖ささえ感じる。
小さな溜息をつきながら隣の温もりへ視線を向けると、沈黙に耐えきれなくなった香穂子が、急にそわそわ肩を揺らし始めた。ほら、やっぱり何か隠しているんじゃないか。
「この間のデートで、ハンバーガー屋さんに連れて行ってくれたんだよね。もしかして、衛藤くんが席を外して携帯電話しに行った隙に、こっそり衛藤くんのお皿からオニオンリングをつまみ食いしたの・・・怒ってるの?」
「・・・違う。っていうか、何だかいつもより少ない気がしたのは、香穂子の仕業だったのか」
「だって美味しかったんだもん。でもね、代わりにフライドポテトを、少し多めに、衛藤くんのお皿に乗せたんだよ」
「それじゃぁ交換じゃないか・・・俺が言いたいのは、その後のこと。なぁ香穂子、あんた本当に覚えてないの?」
「衛藤くんが大切にしているものって、何だろう。ヴァイオリンや楽譜やCDかな、ボディーボードとかかな・・・ますます思い当たらないよ。食事をした後に、二人で海を眺めていたんだよね」
指折り数えながら記憶を辿る香穂子は、握り拳となった両手に眉を寄せながら降参を訴え、答えを教えて欲しいとせがんでくる。日が暮れて強さを増した海風を受け止めながら、頬に絡んだ髪を掻き上げ、手は繋いだまま正面に向かい合った。
「じゃぁ答えを教えてやるよ。盗ったものは、ちゃんと返してもらわないとな。香穂子、目を閉じてくれ」
「どうして目を閉じるの?」
「・・・あんた、本気かよ。目を開けたままだと、恥ずかしいんだよ」
「ちょっと待って、衛藤くん。目を開けたままでは出来ない、恥ずかしいことをこれからするの?」
「あ〜もう、いちいち揚げ足とるなよ。そうだよ、照れ臭いから目を閉じるんだ・・・って、言わせるな。言っておくけど、香穂子が最初にやったんだからな」
「え、私が!?」
「いいからほら、目を閉じろ」
驚きに目を見開き、訳が分からずうろたえる香穂子が、渋々ながらに目を瞑る。眉間に皺が寄るほどぎゅっと堅く目を瞑り、肩をすくませながら身を閉ざし、警戒心を丸出しにする・・・怯える小動物のような仕草に、思わず可笑しさが募ってしまい、笑ってはいけないと思いながらもつい笑みが零れてしまった。さて、あんたが俺からこっそり奪った物、ちゃんと返してもらうからな。
今かまだかと固まる香穂子へ身を屈め、素直な愛しさが込み上げる、微笑みを浮かべたままの唇をそっと重ねた。
優しい羽がそっと触れ合うように、柔らかな唇が溶け合う甘いキスを。ゆっくりと余韻を残しながら唇が離れた直後に、弾けるように目を開いた香穂子の顔が、夜闇に分かるほど真っ赤に染まり、火照った湯気を登らせてゆく。
「・・・っ! ちょ、ちょっ・・・衛藤くん、いきなりキスなんてびっくりするじゃない。どうして・・・って、あ〜もしかしてあの時!」
「やっと気付いたか。あんた、やっぱり鈍いな」
「私が盗った物って、衛藤くんが大切にしていたものってまさか、キス・・・だったんだね、やだもう恥ずかしい。でもあの時、絶対に衛藤くん寝てるかと思ったんだもん」
「そこのベンチに座りながら、海を見ていたんだよな。香穂子の肩にもたれながら俺は、いつの間にかうたた寝していた。たぶん香穂子が身動いで肩を離した頃から、起きてたんだと思う。あんた正直だから、楽しそうな気配は目を閉じていても伝わるんだよ。で、気付いたときには俺の唇に、柔らかいものが重なっていた訳」
「起きていたのに、黙っているなんてずるいよ。衛藤くんの意地悪!」
もう知らないとそう言って、勢いよく繋いだ手をふり解き駆け出そうとする香穂子の手が、衛藤の手からすり抜ける。だが離れる直前に慌てて握り締め、胸元へ引き寄せた。その反動でバランスを崩しかけた身体を抱き留め、腕の中へ閉じ込める強さと温もりであやしながら、頬を膨らませてふり仰ぐ唇へもう一度キスを振らせた。
「あんたって、本当に可愛いよな」
「・・・んっ・・・・・・」
キスを受け止めた恥ずかしさなのか、それとも悪戯が見つかった気まずさなのか、茹で蛸に染まる頬と潤む瞳でぷぅと膨れながらも、すっかり大人しく腕の中に収まっている。意地悪だと拗ねるけれど、俺だってじっと耐えて知らない振りするの、大変んだったんだからな。いつ言い出すかと待っていたら、結局何も言わずに一日終わったし。
「意地悪はお互い様だろう? その・・・香穂子と初めてのキスだったのに、あんた勝手に先に俺の唇を内緒で盗るんだ」
寝ていると思っただろうけど、ちゃんと気付いてたんだぜ。寝込みを襲うとは、卑怯だぞ」
「ごめんなさい、衛藤くん。いつもは自信たっぷりな俺様で偉そうなのに、寝顔はとってもあどけなくて可愛かったんだもん。嬉しくて幸せで、ずっと眺めていたいなって思ったら・・・その、ついチュッとしちゃったの」
「俺だって、寝顔に触れたいのをずっと我慢していたんだぞ。ちゃんと目を見て、心も一つに重ねたかったんだ。それなのにあんたは・・・まぁいい、覚悟しなよ。これからたっぷり返してもらうから」
「えっ、え〜そんな・・・! 今のキスだけでも心臓壊れちゃいそうだったのに」
「嬉しかった。夢にはしたくなかったし、しっかり心に刻んだら忘れられなくて、逆にどんどん想いが膨らんで溢れたんだ。今日は、驚かせて悪かったな」
真摯な気持で届けた言葉はふわりと優しい微笑みに代わり、少し上を向くように唇を差し出しながら瞳がそっと閉じられた。
不意打ちは「初めて」には入らないから、もう一度やり直そうか、俺たちのキスを。
胸がドキドキしたり、ふいに甘く締め付けられる感覚が最近増えたと思う。
この先、何度でも感じたいから、この手はもう離さない。
さて唇強奪犯は無事に逮捕。でもあんたが俺からこっそり奪ったのはキスだけじゃない、心も眼差しも呼吸も・・・俺の全てだって、そろそろ気付いた方がいいぜ。・・・なんだよ、真っ赤になったら俺まで照れ臭くなるだろう?