薬指にキス



オレンジ色の夕日に染まる海を、公園のベンチに座りながら君と眺める。目の前に映し出されるのは、薔薇色に染まる海と空が一つになり、青に溶けゆく幻想的な光景だ。まるでコンサートホールや映画館のように・・・そう、ここは俺たちだけの指定席。香穂子の希望で先ほど二人で見た恋愛映画よりも、心模様を映す空はドラマチックな物語を作り出していると思う。

解け合う空と海は、肩越しに触れ合う温もりが互いに伝わり、どこから君で俺なのか分からないほど一つになる俺たちに似ていると思わないか? 青がゆっくりと赤に変わるのは、君という色に染まり包まれる、俺の心を現しているのだろうな。


夕暮れ空の映画館だねと微笑む香穂子は、ハッピーエンドを迎えた映画の余韻にふんわり浸りっている。緩めた腕の中にあるパンフレットの表紙に蕩ける眼差しを注ぐと、心へ刻むようにしっかり抱きしめ直し空を見上げた。
甘い吐息が零れるたびに、薔薇色に染まる夕暮れ空と、黄金色に輝く海、そして温もりを抱きしめる俺の心も染めてゆく・・・。

夕日の赤が街や公園を染め出すと、いろいろ想いを巡らせたくなるのはなぜだろう。君や自分を見つめ直し、生まれ変わる太陽と同じように真摯な気持ちで向かい合う・・・そんな時間だからかもしれない。見て感じる心の全てが音楽を生み出し、寄り添う君と心の弦で奏で合う・・・。心から生まれる優しい音楽が、二人で眺めるスクリーンのBGMだ。


「蓮くんは生まれ変わったら何になりたい? 私はね、空を飛びたいの。空飛ぶ美少女になりたいな」
「・・・は?」
「あのね、水の中でも呼吸できる美少女も捨てがたいけど、やっぱり空を飛びたいな。ねぇ、蓮くんは?」


困難を乗り越えて結ばれた恋人達が迎えた幸せな結末を、興奮気味に熱く語っていた後だからだろうか。ほんのり頬を染め、光を映す水面のように輝く大きな瞳に吸い寄せられてしまう。くるくる変わる表情と同じく、いつの間にか話題も変わってたらしい。好奇心いっぱいに身を乗り出しながら、曇りの無い純粋さが、驚きに目を見開く俺の答えを待っていた。


そういえば映画のシーンでも、こんな会話があったような気がする。あまりはっきりと記憶にないのは、ハンカチを握り締めながら、感動のすすり泣きを堪える香穂子が気になって、神経の全てが彼女へ向いていたからだ。
空を飛んだり水の中という彼女の希望と、一緒に観た映画の物語は、全くもって関係が無い事だけは分かる。香穂子の説明を借りるなら、自然が美しい外国の田舎町を舞台にした、音楽の綺麗な純愛映画・・・らしい。


主人公の少女よりも、香穂子が奏でるヴァイオリンの方が俺の心を捕らえるし、数倍にも魅力的だと。素直に感想を伝えたら、頬を真っ赤に染めて口籠もりながらも、ちゃんと観たのかと拗ねてしまう。仕方がないだろう? スクリーンの中で紡がれる甘酸っぱい恋のくすぐったさよりも、隣にいる君の存在が、遙かに勝ってしまうのだから。


君が好きなものは俺も好きになりたいと思うのだが、恋愛映画というのは、君の心を掴むように難しいな。
良く覚えていないと言ったら君を傷つけてしまうから、言葉は選んで慎重に。
俺自身の事を聴かれているのだからと、焦りを覚える鼓動を落ち着かせた。


香穂子は空を飛びたいのか・・・。ひらひらと身軽に駆け回る君は、今でも自由に空を飛んでいると思うんだが。これ以上飛んでしまうと、君を捕まえられなくなってしまいそうだな。彼女の答えはいつも俺の予想を超えているけれど、新鮮な驚きは新たな君を知った喜びに変わる。


「そうだな、俺は・・・生まれ変わってもヴァイオリンを弾きたい。そして、どんな出会い方をしても君を見つけ、恋をするだろう」
「蓮くん・・・ありがとう。私もね、ヴァイオリンがあれば絶対に蓮くんと出会えるって信じているから、凄く嬉しい。どっちが先に見つけるかな? 私かな蓮くんかなって、想いを馳せるだけでも楽しいよね。それには空を飛ばなくちゃ」
「空を飛ぶ・・・か、夢があるな。俺も君と一緒に大空を羽ばたきたい。だが美少女というのも重要なのか? 香穂子は今のままでも魅力的で、その・・・可愛いと俺は思う」
「蓮くんは嘘付かないって知ってるから、嬉しいな。真っ直ぐな想いが伝わってくるの。照れくさくてほっぺが熱くなっちゃったよ。でも甘えちゃうから駄目だよ、もっと頑張りたいの。女の子はね、大好きな人の為にいつでも可愛くいたいんだもん」


夕日の赤を受け止めた頬が、薔薇色に染まってゆく。見つめる視線に耐えきれず、微かに俯きはにかみながら、もじもじと弄る両手がきゅっと膝の上で握られた。俺の為だと、ひたむきな眼差しと気持ちで届けてくれた君が、たまらなく愛おしい。海を渡る帆船の汽笛やさざ波の音を聞きながら、二つの空気を溶け合わせる、穏やかな甘い沈黙が流れてゆく。


「香穂子は、どうして空が飛びたいと思ったんだ?」
「この広い大空を飛べたら、とっても気持ち良さそうなんだもん。屋上でヴァイオリン弾くとね、音と一緒に私も吸い込まれるのを感じるの。空の上でヴァイオリン引けたら、きっと気持ちが良いよね。それにね、いつでも好きな時に、蓮くんに会いに行けるんだよ。遠くの外国にだって、あっという間に行けちゃうの」
「風に乗り、世界中に君の音色が響くのか。太陽とそよ風と青空、そして君で奏でるカルテットだな。だが飛んでいる姿を誰かが見たら、驚いて大騒ぎになってしまうぞ」
「そっか、そうだよね。じゃぁ飛んでいる時は姿を隠すのはどう? 気付かれないように、蓮くんの隣に舞い降りて、そっとほっぺに触ったりキスをするの。うん、とっても素敵!」


ほら、こんなふうにね? と悪戯な瞳で小首を傾げれば、肩からさらりと髪が零れ落ちる。視線を奪われる隙に、柔らかく頬に触れた君の指先が熱を灯し、鼓動を高鳴らせた。軽く目を見開いたまま隣を振り向けば、鼻先が触れ合う近さに、身を乗り出す君がいて。掴んだ俺の腕を支えにちょこんと背伸びをすると、掠めるだけのキスが唇に触れた。




早駆けする心臓の音が、耳の中から聞こえてくる。すぐ目の前にある俺の唇と吐息に、はっと我に返った香穂子が驚き、慌てて身体を離してしまう。水平線に沈む真っ赤に熟れた夕日の行き先は、君の中・・・いや、確かな温もりで宿る俺の中にも。そう思うほど火を噴き出し、耳や首筋まで茹でだこに染める香穂子は、胸に抱いた映画のパンフレットを、恥ずかしさに耐えながら強く抱きしめていた。自分と君との二つの熱さに溶かされ、俺も壊れてしまいそうだ。


俺に会うため・・・その願いがいずれ遠く海を離れ、留学する事にあるのが切なく胸を軋ませる。だが君は、会いたいと俺を求めてくれている・・・翼があったらどんなにか良いだろうかと、俺も願わずにいられない。


「音楽の妖精みたく無邪気な君が空を飛べたら、ファータになってしまいそうだな。悪戯は彼らだけでたくさんだ。君の可愛らしい悪戯は歓迎だが、姿が見えないのは困る。確かな存在と温もりをいつでもこの腕に受け止め、抱きしめていたいから」
「蓮くん・・・」
「君の夢を一緒に叶えたいと思う、一人では難しくても二人でなら手に入れられる夢もある。その身を空へ飛ばす為にまずは、近い未来の夢から少しずつ叶えてゆくのはどうだろう? 生まれ変わったらではなく、香穂子が今この先で叶えたい夢を、良ければ俺に教えてくれないだろうか?」


柔らかく瞳を緩めて微笑むと、意外な予想外の質問だったらしく、きょとんと目を見開き数度瞬きをした。
蓮くんの夢はプロのヴァイオリニストになる事だよねと呟くと、何かを言いかけた口を閉ざし言い淀んでしまう。抱きしめたパンフレットを覗き込んだり、そうかと思えば困った時の上目づかいで、俺の様子を伺っている。君もヴァイオリニストを目指すのかと訪ねれば、眉を寄せて悩んだ後に、もっと大きな夢なのだと甘い吐息で囁いた。

トクンと大きく跳ねた鼓動が、やがて訪れる熱い波の予感を伝えている・・・。


「私はえっと・・・その、言っても笑わない?」
「香穂子が真剣なのに、笑うなどあり得ない」
「あのね、お嫁さんなの・・・花嫁さん」
「お嫁さん?」
「子供っぽいかも知れないけど、大好きな人と一緒になるのは、女の子にはとっても大切な夢なんだよ。左手の薬指にね、キラキラ輝く指輪をするの・・・」
「・・・願う相手が、いるのだろうか・・・いや、何でもない」
「え?」


蕩ける瞳で遠く眺める空の彼方に、願いが叶った未来の君がいるのだろう。その隣に俺はいるのだろうか。叶えたいと願う相手が俺であって欲しいと、込み上げた強い独占欲が眼差しに宿り、振り仰いだ君を心の奥から捕らえる。吐息に溶け込む小さな囁きだったけれど、香穂子にはしっかり届いていたらしい。潤み始めた大きな瞳に夕日の煌めきが光を放つと、絡み合う眼差しから、言葉にならない熱い想いが流れ込んできた。

ベンチに寄り添い並んで座る俺の手に、そっと重ねられた香穂子の手。
包まれた温もりが握りしめる強い力は、言葉よりも確かに伝わる気持ちと誓い。


「蓮くん・・・蓮くんがいいの。駄目・・・かな?」
「香穂子・・・」


ひたむきな眼差しから、一瞬たりとも視線を逸らすことが出来ない。緊張で微かに震えているのが、重ねられた手の平から伝わってくる。勇気を奮って伝えてくれた想いに、俺も応えなければ・・・駄目なわけが無いだろう?

香穂子に包まれた右手はそのままに、膝の上で堅い拳になった左手を握りしめ、温もりで溶かしながら俺の口元へと運んでゆく。どうするのかと見守る瞳に微笑みかけると、左手の薬指に唇を寄せてキスを届けた。ダイヤの輝きが彩るであろう薬指の甲に、強く吸い付き赤い痕を刻みながら。



指先から一本一本互いの手を繋ぎ絡めただけでは足りずに、引き寄せ合うまま重なる唇。
呼吸する間さえも惜しみながらキスを交わす、視界の端に映った空は、重なる俺たちの心模様を映していた。
心に溶けた夕日が赤い炎を灯し出すと、赤い空は次第に深い夜の青へと包まれてゆく・・・。
君が俺の空を染めたように、今度は君という空が俺色に染まるんだ。



テレビや映画の中で紡がれる物語よりも、現実の方が時にドラマチックだと思わないか? 今を一生懸命生きている俺たちの大きな物語も、二人で力を合わせ、どんな物語にも負けないハッピーエンドにしてみせよう。

水平線に沈んだ赤い夕日が君の薬指に灯った、小さな小さなプローポーズ。