苦しいぐらいに

「・・・香穂子?」


玄関でチャイムを鳴らし、いくら待っても香穂子が出迎えてくれる気配は無かった。
これから帰ると少し前に電話した時には、確かに彼女は家にいたのだが・・・。

いつもは玄関扉の脇からひょっこり笑顔を覗かせて出迎えてくれるのに、一体どうしたのだろうか。
扉の向こう側には、いつでも君が側にいると分かっているけれど・・・帰宅時の密かな楽しみというか、一番に会えないだけで無性に寂しさが募るのはなぜだろう。

もしかしたら料理だったり掃除だったり、あるいは電話へ出てたり、手が離せない事情があるのかも知れない。そう思って鞄から取り出した鍵で玄関扉のロックを外し、重い扉をゆっくり開けた。



「蓮ー!」
「ただいま香穂子。チャイムを鳴らしても、なかなか扉が開かないから心配したんだ・・・・・」
「わ〜ん、やっと帰ってきた! 待ってたんだから。お願い、助けて!」
「は!?」


廊下の奥から香穂子がパタパタと賑やかな足音を引き連れて、玄関に佇む俺の元へ子犬のように真っ直ぐ駆け寄ってくる。抱きつき飛び込んでくる彼女を受け止めようと、持っていた鞄とヴァイオリンケースを床に置き、腕を広げ用意をして。溢れる笑顔が近づくほどに嬉しさで鼓動も高鳴る・・・筈なのだが、今日の香穂子は泣きそうに瞳を潤ませ必死な眼差しを向けてくる。しかも「助けて」という言葉が一瞬にして身を引き締め、背筋を緊張が走り抜けた。


腕の中に飛び込むなり香穂子は、縋り付くように俺の胸へ顔を埋めてしまった。強く背に縋り付く指先の力に、心まで鷲づかみにされる苦しさが襲いかかる。俺がここにいるからもう安心だと、確かな存在を伝えて深く抱きしめた後に、触れ合う鼓動が落ち着いた様子を見計らって静かに身体を離した。

どうか落ち着いてと言い聞かせながら華奢な肩を掴み、身を屈めて視線を絡ませ、潤んだ瞳を真っ直ぐ覗き込む。滅多に弱音や涙を見せない彼女がここまで苦しそうなのだから、よほどの事があったに違いない。


「どうしよう〜私、このままじゃ苦しくて死んじゃうかも〜」
「しっかりしろ香穂子、一体何があったんだ。大丈夫だから、ゆっくり俺に話してくれないか」
「あのね・・・さっきからずっと止まらないの」
「何が止まらないんだ?」
「えっと、それは・・・・ヒック!・・・ヒッ・・・! あ〜ん、まだ止まらないよ〜」
「!? ・・・ひょっとして、しゃっくり・・・なのか?」


思考も動きも包む時間ごと一瞬止まり、呆然と見つめていると、口元を両手で覆った香穂子が小さく頷いた。
しゃっくりが出る度に肩を跳ねさせながらも、必死に口を噤んで耐えており、みるみるうちに恥ずかしさで真っ赤に顔が染まってゆく。喋ろうと口を開きかければ、ヒッ!と息を詰める可愛らしい音でしゃくり上げて。俺と視線を絡ませたまま、頬の赤みが更に増して火を噴き出しそうだ。


このままでは死んでしまうと、涙を浮かべながら飛び込んで来た時にはどうなる事かと思ったが・・・何だ、しゃっくりだったのか。ホッと安堵感が込み上げて緊張から解き放たれると、身体の力が抜けてゆき、頬や瞳まで緩んでしまうのが自分でも分かる。彼女が苦しいのは本当なのだから笑ってはいけないと、そう思うのに。
真っ赤になる君が口を押さえてしゃくり上げる度に、押さえきれない可笑しさと可愛らしさで、つい笑みが小さく零れてしまうんだ。

いつの間にか堪える事も忘れて笑っていた俺に、香穂子が頬を膨らませて間近に睨み上げてくる。
いけない、怒らせてしまっただろうか?


「も〜っ笑わないでっ、凄く恥ずかしいんだからね。早く治したいのに止まらないんだもん・・・・ッヒック!」
「すまない。もっと命に関わる重大な事が君にあったのかと、さっきは目の前が暗くなって心臓が潰れる思いだった。だからしゃっくりだと分かって、ホッとしているんだ」
「しゃっくりを甘く見ちゃ駄目なの・・・ヒッ! 知ってる? しゃっくりを100回したら死んじゃうって言われているんだよっ・・・ヒック! 私もう25回もしゃっくりしちゃったんだからって・・・ヒッ!」


口元を押さえながら、ほらもう26回目だと悲しそうな顔を向ける香穂子の止まらないしゃっくりは、こうしているうちにも数が増えていくばかり。しかし焦り乱れる中でよく数えたな、と感心してしまう。


「それは迷信だろう。医学的に根拠はないし、人体にはあまり影響はないと言われている。もっとたくさんしゃっくりをした人のギネス記録が、先日の新聞に載っていたぞ」
「え!? そうなの?」
「香穂子の苦しさは分かる、俺にも経験があるから。横隔膜の痙攣だから確かに苦しいが・・・気にし過ぎない方がいい。忘れているうちに、気づけば治まっているものだ」
「蓮ってば、人ごとだと思ってるでしょう? すっごく苦しくて落ち着かなくて、何にも出来ないんだよ。このまま夜になっても治まらなかったら、蓮にギューッと抱きついたまま、耳元で一晩中しゃっくりしちゃうからね!」
「それは困るな・・・君をゆっくり抱けなくなってしまう」


一気に喋った反動なのか、ヒック・・・ヒックと連続でしゃくり上げた香穂子は、苦しそうに胸を押さえている。
しゃくり上げては手が止まってしまうからヴァイオリンを弾くにも集中できないし、きっと料理や掃除などの家事も手に付かなかったのだろう。少しでも呼吸が楽になるようにと抱きしめた背中を撫でれば、やるせなさを込めた柔らかい拳が、羽のようにポスポスと胸を掠めてくる。


本人の意志とは無関係に発生するだけでなく、自分の意志ではどうにも出来ないのが煩わしいところだ。
苦しさを取り除いてやりたい。何とかしてやりたいものだが・・・どうしたら良いのだろうか?
とにかく思いついた方法を、まずは一つ一つ試してみよう。





力尽き困り果てた香穂子の手を引いて、俺たちが向かったのはキッチンだった。廊下を歩きながら何故しゃっくりが出たのかと問えば、俺の帰宅に合わせてお茶を出そうとしていたからなのだという。用意したクッキーを一口味見したのがちょうど帰宅の電話をした時で、慌てて飲み込んだら乾いた喉に詰まらせたのだと。
少し後ろを着いてくる香穂子を肩越しに振り返れば、繋いだ手にキュッと込め恥ずかしそうに見上げて呟いた。


「蓮が帰ってくるまで待てなかったから、いけません!ってバチが当たったんだよ、きっと・・・ごめんなさい」
「いや、香穂子のせいじゃない。タイミング悪く電話をしてしまった俺のせいだ、すまなかったな。水は飲んだのか? 深呼吸をするという方法もあるようだが」
「うん・・・水も飲んだし深呼吸もしたし、息をゴクンと飲み込んでみたけど駄目だったの・・・ヒック! 息を止めてみたんだけど、すぐにしゃっくりが出ちゃうから・・・ヒック! 上手くいかなくて」



香穂子が愛用しているマグカップへ温めたお湯を注ぎ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで割って人肌程度に冷ましてゆく。猫舌な香穂子が熱くないようにと一口飲んで確認してから、隣で小さくしゃくり上げながら見守る彼女へとマグカップを手渡した。一人で出来るものは全部試したけど駄目だったと、困ったように首を傾けるけれども、俺も目の前で確かめたいからもう一度試してもらいたいんだ。


カップを両手に包みながら、ありがとうと微笑むと透明な白湯を口に含み、息を止めながらゆっくりと数回に分けて飲み下してゆく。注がれた一杯分を飲み終えたところで深く深呼吸をした・・・が、一度治まりかけたと思ったしゃっくりが再び出ててしまい、二人で顔を見合わせながら溜息と一緒に肩を落とすしかなかった。

しゃくり上げる度に苦しいよと胸を押さえ、瞳に涙をにじませる姿が痛々しくて・・・抱きしめて癒せるものなら、すぐにでも強くこの腕に閉じ込めるのにと思えてならない。


「後残りは驚かす方法くらいかな。こればかりは・・・ヒック! 一人じゃ無理だから蓮に協力して欲しいの」
「君を驚かせるというのは難しいが、息を止める手伝いなら俺にも出来る。要はしゃっくりを忘れるくらいに、注意を他に反らせばいいのだろう?」
「そうだけど・・・でもどうやって?」


きょとんと小首を傾げる香穂子の手から、冷ましたお湯の入っていた空のマグカップを受け取り、一度背を向けてキッチンの上に置いた。静かな空間にコトンと響き渡る音は、まるで始まりを知らせる合図。

穏やか水面がざわりと騒ぎ始める前触れのような・・・瞳を閉じて一つ呼吸を整えると振り向きざま背を攫い、頭を抱え込みながら深く腕に閉じ込めた。
驚いて目を見開き何かを言おうとするよりも早く、開いた口へ上から覆い被さるように唇を重ね塞いでしまう。


「・・・・んっ、れ・・・ん!」


交わされるのは触れ合うだけの軽いキスではなく、呼吸を奪い貪るような深いキス。
押しつけたり吸い付いたり、感触を確かめながら何度も唇に触れ・・・熱く熟れて一つに解け合った頃に舌で咥内をかき乱す。尖らせた舌先で歯の裏をなぞれば、甘い吐息を零しながら、しなやかな背を弓なりに仰け反らせた。奥へと逃げる小さな舌を追いかけて絡め取り、吐息ごと奪うキスを深く重ねてゆく。

呼吸を求めて腕の中の身体が身動いでも、更に深く抱きしめて、ただひたすら唇を鬱ぎ続けた。



一度走り出したら、もう止められなくて。初めはただ香穂子のしゃっくりを止める為だけに思いついたキスだったのに、気付けは君という柔らかさを求めるあまりに夢中になっている自分がいる。
身体の内側を駆けめぐる想いの炎が、閉じた瞳の裏に見えるようで・・・熱い。
君の為といいながら、実は俺が一番満たされているのではないだろうか?



「・・・・んっ、ん〜っ!」



食い込むほど強くしがみついていた指先からするりと力が抜け、腕が背を撫でるようにゆっくり滑り落ちた。
このままでは本当に呼吸が出来ずに、香穂子の息が切れてしまう・・・。
そう思ったぎりぎりのところで押しとどめ、なけなしの理性をかき集めると、ようやく唇を離して解放した。


唇は離したけれどもまだ足りないと思う自分に、心の中では苦笑しながらも抱きしめる手だけは離さない。
抱きしめて支えていなければ、一人で立っていられずに今にもしゃがみ込んでしまいそうなのだから。

浅く早い呼吸を繰り返し、酸素を取り込もうと胸を妖しく上下させながら俺を見つめている君。
夜に見る姿にも似て艶めかしく、跳ねて早駆けする鼓動から熱さが噴き出し、吸い寄せられそうになる。
いや・・・焦点の定まらないぼんやりとした視線で、ただ映していると言った方が良いのだろうか。


意識を戻した香穂子に大丈夫か?と瞳を緩めて優しく頬を包めば、腕の中でほんのり頬を赤く染め、甘えたように首だけ巡らし見上げてきた。ゆっくり髪を撫でる感触に心地良さそうに身を任せているが、どこか拗ねている様子を見るとあまり大丈夫ではないようだな。すまない、ついやりすぎてしまったようだ。
だが抱きしめて伝わる温もりと同じように、心の中も温かく満たされていて、拗ねた顔も甘えた君も全てが愛しいと思えてしまう。


「まだ明るいのに、いきなりあんな深いキスしてくるなんて反則! 私・・・もう駄目、力入らなくて立てないよ」
「立てないのなら俺が抱きかかえて運ぶから、心配は要らない。それよりも、しゃっくりは治まったか?」
「え? しゃっくり・・・あ!? そう言えば治まったかも。蓮のくれたキスのお陰かな・・・って、ヒック!」
「・・・・・・・・まだ、治まってなかったのか・・・」


やっと止まったと嬉しそうな笑顔を見せたのも束の間、再聞こえ出したのは、裏返ったようにしゃくり上げる音。
口元を緩める俺に対して君は、口元を手で押さえてしゃっくりを堪えながら、困ったようにすがる眼差しで見上げてくる。出てないよ?と、小首を傾げつつ瞳で訴えるけれども、そんな可愛らしい仕草を見せられた余計に君が欲しくなじゃないか。


「じゃぁもう一度・・・だな。香穂子のしゃっくりが治まるまで、続けるから」
「えっ、そんな〜! 放っておけば治まるんでしょう・・・ヒッ!? 私このままで良いから・・・ヒック! ね?お願い、これ以上はもう駄目なのって・・・んっ・・・」



言葉の先を遮り再び重ねた唇は、先程の熱さの余韻が残っており、触れただけで蕩けそうになってしまう。


一生懸命誤魔化すように笑顔を作りながら、覆い被さる俺の身体を押し止め反らそうとするけれど。
そう簡単には君を離したりはしない。すぐに腕と唇を解いては、しゃっくりを止めるべく呼吸を塞いでいる意味が無いだろう? キスをしていた間は確かに意識が逸れているのか、あれほど苦しがっていたしゃっくりはぴたりと治まっていたのだから。




ならば、このままずっとキスを重ねていよう・・・甘く熱く蕩けるキスを。
俺以外の事を、考えなくても済むように。