言葉の代わり

俺にとって愛しい君が待つ家に帰るのは、何よりもの楽しみだ。家の鍵は持っているが、お帰りなさいと君に出迎えてもらいたくて、あえて自分では開けずに玄関の呼び鈴を鳴らすことにしている。
こうして扉が開くまでを待つひとときは、一日の中で最も胸が高鳴る瞬間だ。早く君に会いたくて、この腕で抱き締めたくて・・・扉一枚を隔てた距離が、こんなにももどかしく感じてしまう。
自分の家が大好きだと、早く家に帰りたくて仕方が無いなんて、君と一緒になるまでは思いもしなかった。


やがてロックの外れる金属音が中から響き、重たい玄関扉がゆっくりと音を立てて開かれた。少し空いた隙間からぴょこんと小動物のように顔だけ出した香穂子に、まずは緩めた瞳でただいまと語りかける。すると俺の帰宅を出迎えてくれた彼女も眩しい笑顔で返してくれて。俺の心の扉のように開かれ光が差したその奥から、待ち望んでいた彼女が姿を現した。




「蓮、お帰りなさい!」
「ただいま、香穂子」


玄関の扉を閉め終わるのを待ち構えたように駆け寄った彼女が、背伸びをして首にしなやかな手を絡めた。
引寄せられるまま上半身を前に屈めて、背を抱き締めつつ顔を近づければ、笑みを湛えた柔らかい唇が俺の唇にそっと押し当てられる。


それは香穂子からの「おかえりなさい」のキス。


今日一日の出来事や、俺に向けられる嬉しさや喜びなど。
表情や身体全体だけでなく、触れる唇からもたくさんの言葉や熱い想いが伝わって、俺を温かな気持にさせてくれる。だが、もっとこのまま・・・と想ったところで首にかけられた手が緩められ、潤みと熱を含み始めた彼女の唇が離れてしまう。視線を甘く絡め合わせていると、彼女が瞳を閉じて僅かに上を向き、頬と同じようにほんのり赤く染めた唇を差し出して、今度は俺の番だよと「ただいまのキス」を可愛らしくねだるのだ。


抱き締める腕に力を込めて胸に抱き寄せつつ深く閉じ込めると、上から覆い被さるように唇を重ねる。
はじめは軽く啄ばみ、そして柔らかさを味わい吸い付くようにしっとりと・・・。
俺も君に会えなくて寂しかったと一日を終えて再び君を抱き締められる幸せを感謝しつつ、溢れる愛しい想いを乗せながら・・・。


「・・・んっ・・・蓮・・・」


息苦しそうに身を捩り出す彼女を閉じ込めながら、重なった唇の隙間から漏れる甘い吐息ごと奪い尽くしても、名残惜しさだけが残るばかり。これ以上は・・・という自分の臨界点ぎりぎりの所で踏みとどまり、ゆっくり唇を離してゆく。しかしいつもと変わらない光景な筈なのに、なぜか今日に限って香穂子はその身を俺の胸に任せず、腕の中に納まったまま佇んでいて。赤く染まった頬と潤んだ大きな瞳で、じっと俺を探るように見上げていた。


「どうかしたのか?」
「・・・蓮、何かあったの?」
「別に・・・何も無かったが。香穂子はどうして、俺に何かあったと思ったんだ?」
「えっ、それは勘・・・というか、その・・・。上手く言えないけど、蓮が私にくれる、ただいまのキスの感触がいつもと違ったから」
「キス!?」
「いつもは蓮の唇から私の唇に、心の中にある熱さとか想いが一気に流れ込んできて、呑み込まれそうになるの。でも今日は胸がキュンとするんじゃなくて、締め付けられて切なくなったんだよ。悲しいのかな・・・疲れているのかなって感じだったから・・・・・・」


そう言って彼女は唇を指先で押さえながら、変かな・・・と困ったように眉根を寄せて頬を染めた。

何も伝えていないのに、どうして分かったんだろうか。
的の中心を矢で真っ直ぐ射抜かれたように隠していた秘密を言い当てられて、心臓が飛び跳ねる思いだった。
仕草はこの上なく可愛いのに、浸ることは出来ずにどこか後ろめたささえ感じてしまうのは、まさに彼女の言う通りだからなのだが。俺に関して彼女の勘の鋭さは目を見張るものがあり、いつも驚かされてばかりだ。


だがそんな悩みや不安は、君と過ごす大切な時間まで持ち込みたくなかったし、悪戯に君の不安を掻き立てたくないから極力平静を装い、黙ったまま優しく微笑を向ける。しかし俺が微笑むほどに彼女は悲しそうな顔を見せて、瞳は泣きそうに揺らめくばかり。


「言いたく無いなら、無理には聞かない」
「香穂子・・・」
「でもね、蓮が心で泣いているのが分かるから・・・表面で笑っているのを見ると私まで泣きたくなっちゃう。蓮だって私が辛いの隠していたら悲しいでしょう? 私そんなに弱くないよ、蓮の為に力になりたいもの」


零れそうになる涙を必死に堪えながら、想いを静かにぶつけるように訴えて。
腕の中から背伸びをすると俺の両頬をふわりと包み込み、再び唇が重ねられた。

どこまでも穏やかで、癒すように・・・。
元気を出してと、俺に力を与えながら・・・。

柔らかく包まれる頬と唇から、香穂子の広くて深い温かさと優しさがゆっくりと流れ込んでくるのが分かる。
瞳を閉じて全てを委ねれば、それは唇から全身へと広がり、凍てついた俺の心と身体を春をもたらす雪解けのように溶かしてくれて。頭と心の中を覆っていた厚い雲が少しずつ晴れてゆき、力がみなぎるのを感じた。
彼女はどんなに隠していたり自分でも気付かない深い部分のところでも、道に迷う俺を見つけてくれて、温かく照らし光の彼方へと導いてくれるのだ。





香穂子は唇を離すと視線を逸らすように俯いて、きゅっと俺の胸にしがみ付いてしまう。そんな彼女を見つめて髪を撫でていると、顔を押し付けた胸の中からポツポツとくぐもった声が聞こえてきた。



「蓮のキスは真っ直ぐで正直なんだよ。言葉や瞳と同じように心の中をそのまま届けてくれる。私の心に直接語りかけてくるの。嬉しい時や悲しいとき、甘えておねだりしてくる時も・・・同じようでいてみんな違う。だから私はキスで蓮の事が分かるんだよ」
「唇は正直だな。キスは言葉には出来ない自分の想いを伝えるだけでなく、相手の気持まで分かってしまうんだな。音色と同じくどんなに表面で取り繕っていても、心の本音が出てしまうようだ」
「やっぱり、何かあったんだ・・・・・・」


ハッと打たれたように顔を上げた香穂子の大きな瞳からは、堰き止め切れなかった雫が溢れ、頬に光る線を描いていた。髪を撫でる手を滑らせてそのまま頬を包み込み僅かに上を向かせると、心配しないでくれと笑みを向けて、指先でゆっくりと涙の跡を辿りながら拭ってゆく。瞳を閉じて身を屈め彼女の額に俺の額を重ねると、互いの鼻先をくっつけたまま、触れてしまいそうな唇に吐息で直接語りかけた。



君のくれる言葉は、いつでも照れくさいほど嬉しくて、俺を温かく熱くしてくれる。
そう、まるで君がくれる甘い口付けのように。
気付いているだろうか・・・君のキスも真っ直ぐ俺の心へと向かってくるという事を。



「今度のコンサートの件で、少し揉めて煮詰まってしまったんだ。自分がやりたい事と、俺を売り出そうとする側の思惑がすれ違う・・・プロである以上は避けられないが、現実は難しいな。お互いが必死だから」
「来シーズンから始まるコンサートツアー、今日は打ち合わせだったんだよね」
「プロとはいえ、全てが一人で出来るものではない。単独に見えて、いわばチームワームだ。それはわかってるけれど、より多くの人に音楽を楽しんでもらう為に、俺にも譲れないものがあるから」
「蓮の力になりたいけど、お仕事じゃ私の出番はなさそうだね・・・。役に立たなくて、ごめんね・・・」


力なくポツリと呟いた香穂子は、微かに肩を震わせて身動ぎすると額を離し、項垂れるように小さく俯いた。
どうして君が謝る必要があるのだろう・・・。役に立たないどころか、俺は君に支えられているというのに・・・。
そう思って彼女の頭を包むように抱き寄せ、俺の全てで一回り小さい華奢な身体を深く閉じ込める。


「家に帰れば明かりの点いた温かい部屋と食事が待っていて、こうして愛しい君が笑顔で迎えてくれる。当たり前のような光景かも知れないが、俺にとっては癒しの場であり、何よりもの幸せなんだ。辛い事や悲しい事があっても、俺は香穂子がいるから頑張れる・・・君の為にと」
「蓮・・・・」
「家に帰ると君がくれる春風のようなキスが心の寒さを吹き飛ばしてくれて、俺を嬉しく楽しい気分に変えてくれるんだ。それに俺もキスでわかる・・・君に何があったのか。香穂子は、良い事があったみたいだな」


腕を緩めて彼女を解放すると始めは驚いたように目を丸くしたものの、少し赤みの残った目元ではにかんだように微笑を向けた。ふふっと小さく笑い、手を後ろ手に組んで楽しそうに見上げてくる。


「あ、やっぱり蓮にも分かっちゃった? 良い事っていうより、楽しい事かな。あのね、今日のお夕飯は蓮の大好きな食べ物を揃えてみたんだよ。腕によりをかけたから、ちょっと豪華なの!」
「奥から美味しそうな香りが漂ってくると思っていたんだ、それは楽しみだな。香穂子の手料理は、俺の幸せと元気の元だから」
「蓮にそう言ってもらえると、凄く嬉しい! いっぱい食べて、元気つけようね」
「香穂子・・・ありがとう・・・」


君からもらった元気と勇気、希望、優しさ、温かさを俺の力に変えて・・・今度は君に注ぎ込もう。言葉にしきれない感謝と愛しい想いの全てを、唇に乗せて語ろう・・・熱い吐息と触れ合うこの唇が、きっと伝えてくれるから。


一度は腕から解放したものの、振り仰ぐ太陽のように眩しい笑顔と瞳の輝きに吸い寄せられて、再び強く懐に掻き抱き唇を重ねた。つい先程帰宅したばかりの時に俺のキスを受け止めていた君は、どこか苦しげに眉を潜めて唇もどこか拒むように硬く緊張していたけれど。腕の中の君は俺と同じように、閉じた瞳を心地良さそうに細めて唇を緩ませている。


それが表すのは彼女の心と・・・俺の心の変化なのだと思った。





「香穂子のお陰で元気が出たようだ。こうして悩んでいても仕方が無い、何とかなりそうな気がしてきた」
「良かった・・・少し元気になったみたい。今度はちゃんと伝わったよ、今私の心がキュンとしたの。それにね、蓮のキスはいつも私を温かく・・・時には熱くしてくれるから、私も想いの限りで応えたいって思うの」


ほんのり頬を染めてはにかみながらそう言うと、香穂子は照れたようにふと視線を逸らし、腕の中からするりと抜け出した。お腹空いたでしょう?早く着替えてご飯にしようねと、俺の手を掴み満開の笑顔で見上げて、嬉しそうに足取り軽く家の中へと誘う。導かれるままに引かれる手を強く握り返しながら、俺も心の底から湧き上がった笑みを香穂子に返した。


瞳を交わして微笑み合えば、ほんのり残った熱が離れた唇に甘く疼く。
今はもう切なさも名残惜しさもなく、あるのは温かく満たされた二人分の大きな幸せ。




君とのキスは口に出す言葉よりも、多くの言葉や想いを伝えてくれる。
温かさとなり、力となるそれは、愛を確認しあうだけでなく、お互いを知る為にとても大切な事なんだ。
俺が君にもらっているように、たくさんの気持を伝えていきたい、これからもずっと・・・。