このまま一緒に
時刻は深夜1時を回ったところ。
いつもなら寝室は夜の静寂に包まれた安らぎの時か、ほのかな明りに照らされながら甘い吐息と情熱に包まれているのだが、今日は煌々と部屋の明りは点いたまま。静けさや甘さどころか、張り詰めた緊張感がこの部屋を支配している。
軽く羽織って上半身がはだけたパジャマはそのままで寝室のベットに腰を下ろし、俺から隠れるように鼻先まで布団を引き被っている香穂子を、黙って見つめていた。
じっとしている事に耐えられないのか、香穂子は時折きょろきょろと視線を泳がせたり、俺を捕らえてねだるように甘い視線を向けてみたり。そんな彼女に諌める眼差しを贈れば、益々布団を引っかぶってしまう。
互いの緊張と静寂を打ち破ったのは、検温の終了を知らせるピピッツと鳴り響いた体温計の小さな電子音。
体温計を取り出した香穂子が、まず布団の中でこっそり自分の体温をみて、驚きに目を見張るのが分かった。
催促するように彼女の前に手を差し出せは、おずおずと俺の様子を伺いつつ、そっと手に体温計が託される。
差し出された電子体温計に表示されたディスプレイを見て俺も驚くと同時に、やはり・・・と心の中で大きな溜息が溢れてきた。
「蓮・・・怒ってる?」
「怒ってる・・・というか、呆れているんだ。君にというより、一番は俺自身にだが。大丈夫だという、君の言葉を信じた俺にも責任はある。だが、言ってもらわないと分からない事だってあるんだ」
「・・・ごめんなさい・・・・・・」
「38度5分・・・・・・。香穂子、どうしてこんなに熱が上がるまで放って置いたんだ」
君はいつもそうだから。俺のことは敏感に察知するのに、自分の辛い事は無理してでも隠そうとする。
ここで甘い顔をしてはだめだと、気が緩みそうになる心を必死で堪えながら香穂子を真っ直ぐ見据えれば、反論するように被った布団から顔を出して、俺を見返してくる。いつもは強気な彼女だが、俺の気迫に押されているのか、だって・・・だって・・・と口篭りながら。
「病は気からって言うでしょ? 私、体温計の数字を見ると、こんなに熱かあるんだ〜って、それで一気に気力がダウンしちゃうの。蓮に心配かけたくないし、風引いているって自分でも思いたく無かったんだもの」
「俺を気遣ってくれる香穂子の優しさは、とても嬉しい。しかし風邪を甘く見るものじゃない、こじらせたら大変な事になるんだぞ」
「だって、自分が負けたみたいで嫌じゃない」
「勝つとか負けるとか、つまらない意地をはってどうすんだ。早めに対処すれば、寝込むことなくすぐ元気になるものを・・・・。君に何かあったら、俺は一生自分が許せない。少しは自分を大切にしてくれ」
だが、溜息を吐きたかったのはそれだけじゃない。
様子がいつもと違う事は分かっていた、それでも大丈夫と笑顔を作って言い張って。念の為ゆっくり休むんだと、宥めて言い聞かせる俺を押さえ込むように、君の方から積極的に俺を求めてきたのだ。
驚き戸惑いつつも、俺は滅多に無い彼女からの誘惑に負け、彼女に口付けながら柔肌を抱いた。しかし、情熱がもたらすものとは明らかに違う激しい身体の熱さを感じて、初めて重大さに気がついたのだ。
甘い気分は瞬時に吹き飛び、寒気どころか背筋が凍る思いがしたほどに。すぐさま彼女にパジャマを着せて自分も軽く着込むと、家中を駆け回って氷枕や体温計、薬をかき集めて今に至る。
「それに、熱があるときは汗をかくとすっきるするって言うでしょう? だから私・・・」
「香穂子・・・・・・・」
汗をかく方法が、違うと思うんだが。
第一に余計に体力を消耗して、悪化させたらどうするんだ。
このままでは、俺の方が頭痛を覚えてくる。
熱の為か顔が紅潮して、見上げるようにとろんと潤んだ瞳を向けてくるものだから・・・・・・。風邪を引いているのに、可愛さや色っぽさが増して見えるというのは一体どういう事なのだろうと、戸惑いさえ覚えてしまう。
前髪を掻き揚げつつ額を押さえて、深呼吸代わりに再び深く溜息を吐いた。
胸がはだけたままのパジャマのボタンを閉じながら、ベットから立ち上がった。ケースに閉まった体温計をベッドサイドのテーブルに置きつつ、クローゼットから毛布を1枚取り出す。再びベッドへ戻ると、香穂子の上にそっと毛布を重ねていく・・・。きっと身体の表面は熱くても、熱で芯から寒さを訴えるだろうから。
毛布を香穂子の肩先まで引き上げると、熱で火照る額に触れながら優しく語りかけた。
「今夜はゆっくり眠るんだ。俺も君の側にいるから」
「嫌っ、私は平気。蓮と一緒に起きてる!」
「香穂子・・・気持は嬉しいが、いくら俺でも具合の悪い君を抱く事は出来ない。香穂子が何よりも大事だから。そう思ってくれるなら、無理せず薬を飲んでゆっくり休んで、早く元気になってくれ」
「だって・・・心細くて、寂しかったんだもん。日本にいた頃から風邪なんて滅多に引かなかったけど、しかもドイツに来てから初めてだったし・・・だから余計にショックで。こんなに心細いんだって思わなくて・・・だから私・・・」
側にいて欲しかったと。
独りじゃないんだという証の温もりが欲しかったのだと。
肩先までかけられた布団の先を強く掴みながら、必死に俺に訴えかけてくる。
時折声を詰まらせ、溢れかけた涙がこぼれないようにと、潤んだ瞳を大きく見開きながら。
彼女の言葉と想いを受け止めて、俺は冷たい水を頭から浴びせられた衝撃を感じた。
体調を崩すと、いつもは気にならない些細なものでも孤独や寂しさを強く感じるものだ。彼女の気持は、良く分かる。子供の頃から両親の不在が多かった俺も、何度となく同じ想いを味わってきたし、単身ドイツへ留学してからも、独りは慣れているはずだったのに国や環境が違うだけでこんなにも違うものかと、孤独に潰されそうになった事もある。
香穂子は小さい頃から常に家族が側に居る、温かい中で過ごしてきたのだ。大学を卒業してすぐに俺の所へ来たから、親元を離れるのがこれが初めてという事になる。しかもいきなり、遠く海を隔てだ外国だ。彼女の心細さは、どれ程の大きなものなのだろうと思うと、胸に苦しさを覚えて眉根を寄せた。
香穂子にとっての家族は、今は俺だけ・・・たった一人なのだと。
それは俺にとっても同じ事。
大切な、二人だけの家族ではないか。
こんな時だからこそ支え合わなくて、どうするのだ。
頬を瞳を緩ませて微笑を向けると、汗で張り付いた額の前髪をそっと払いのける。
「すまなかったな、香穂子の気持を考えずにきつい事を言ってしまって。例え日本や親元にいたとしても、病気の時の心細さは辛いものだ。それが遠く離れた異国なら、尚更だな。俺にも何度が覚えがある・・・」
「蓮・・・ごめんね」
「どうして謝るんだ。気にしなくていいから。それより、何か食べたいものは無いか? 夕食、殆ど口をつけてなかっただろう? そういえば朝も食べてなかったんじゃないか?」
「・・・食欲無い〜」
「困ったな。何かお腹に入れないと、薬も飲めないんだが・・・」
どうしたものかと腕を組んで思案していると、パッと目を輝かせた香穂子が寝返りを打って俺を向いた。ベットに腰を下ろす俺に擦り寄るように、少しずづ身体をずらしてにじり寄ってくる。
「ん〜とね、じゃぁプリンが食べたい。フルーツのいっぱい入ったゼリーとか、桃の缶詰とか!」
「冷たいものばかりだな、さっぱりしたものがいいのか?」
「温かいものならおかゆがいいな、卵の入ったやつ。あとね、煮込んだおうどんも食べたいな〜」
「本当に食欲が無いのか?」
「ん〜良く分かんない・・・・・・・」
次々にポンポンと出てきた食べ物と、彼女の嬉しそうな顔。
驚き呆れ、目を丸くしてそう言えば、はにかみながら困ったように眉根を寄せて縋るように見上げてくる。
きっと自分でも分かっていないのかもしれないな。
しかし嬉しそうというより、遠くを見つめる瞳にどこか懐かしさも含まれているような気がして、ふと思いついた。
「香穂子が風邪を引いた時に、その食事をご家族に用意してもらってたのか?」
「え!? う・・・うん。お母さんが作ってくれたの。お父さんもね、会社帰りにプリンとかゼリーとか買ってきてくれたんだよ」
「プリンや缶詰はともかく、米やうどん類がこのドイツですぐ手に入るかどうか。香穂子の実家から送ってもらったのがまだあるかもしれないから、探してみよう」
「ありがとう、今日の蓮は凄く優しいね。嬉しくて、心がジーンとしてくる。また蓮の事が大好きになっちゃたよ」
「俺には香穂子が、いつもより甘えん坊に見える。でも可愛らしい君を独占できるから、たまにはいいものだな。思う存分、俺に甘えてくれ」
とりあえず、薬を飲まなければいけないな。
そう呟いて熱さましの薬の用意していると、小さく俺を呼ぶ声が聞こえた。ベッドに腰掛けたまま肩越しに振り返えって見下ろすと、引き被った布団から腕を出し、俺のパジャマの裾をしっかり掴んでいる。
「どうしたんだ?」
「えっとね・・・風邪のお薬もちゃんと飲むけど、その前に心のお薬も欲しいな」
「心の・・・薬?」
香穂子の意図を探ろうと、瞳の中までじっと見つめた。
見詰め合うこと数秒の後、分かった・・・そう穏やかに囁けば、彼女もほっとした笑顔を見せる。
熱さましの薬箱をベットサイドのテーブル置き、代わりに額の冷却シートを一枚用意すると、彼女へ届くように半ばベッドに乗り上げて屈みこんだ。
きょとんと俺を見上げる顔の横に両手をつき、真上から覆い被さると、想いと愛しさの全てを込めて瞳と頬笑みに乗せて・・・熱く疼く額の中心に唇を寄せる。
触れるだけのキスだけれども、時間を忘れてゆっくりと。
視線を絡ませたまま静かにそっと顔を離しざまに、左右両脇にも啄ばむだけのキスを贈る。
「香穂子が、元気になるおまじない」
「・・・余計に熱が上がっちゃうよ・・・・・・・」
口付けた額に冷却シートを貼り付けて、剥がれないようにとしっかり上から額を押さえると、恥ずかしさで頬を染めながらも、口元に笑みを浮かべて気持良さそうに瞳を細めて身を委ねている。
そんな彼女に、俺も自然と顔が綻んでいくのを感じた。
額から手を離して寝具を捲り、再びベットの中に潜り込むと、香穂子を懐に深く抱き寄せる。
「蓮! そばにいて欲しいなって思ったけど。こんなにぴったりだと風邪うつっちゃうよ!」
「君の風邪ならうつっても構わない。それに、毛布を1枚かけるより君を抱き締めていた方が、温かいだろう?」
ずっと側にいるから・・・このままずっと一緒に。
だから安心してくれ、ゆっくり眠るといい。
君は独りじゃない、俺がいるのだから。
耳元に吐息と一緒に優しく囁けば、うん・・・と小さく頷いて。
彼女の瞳がゆっくりと静かに閉じられていった。
熱さましの薬を飲ます前に眠ってしまったようだが、落ち着いたようだし、まぁ大丈夫だろう。
用意した氷枕の上にそっと彼女の頭を横たえると、傍らで肘を突いて半身を起こしながら寄り添う。
髪を撫で、穏やかな寝顔を見つめながら、心の中に囁きかける。
朝まで俺が、君を見守っているよ・・・。