困らせてみる
俺の腕の中ですやすやと寝息を立てている、香穂子のあどけない寝顔。気持ち良さそうな微笑みを見つめながらベッドに横たわっていると、心も身体も柔らかさに包まれ、ほっと安らぐ。すぐ隣に愛しい君がいてくれると思うと俺も安心して眠ることが出来るんだ。君の存在と抱き締めた柔らかさから伝わる温もり、そして心地良い眠りに欠かせないのが香りだ。
洗い立ての髪から香るシャンプーの香り、パジャマから香るお揃いの洗剤や、ボディーソープの香りなど・・・。君を抱き締めながらそっと隣で深呼吸すると、心が温かな幸せに満たされる。吐息と汗が染みるシーツの海に漂い、生まれたての姿で布団の貝殻へ一緒にくるまる俺たちは、重なる身体と熱い想いが生み出した二粒の真珠。時間と体温が語る甘くまろやかなラストノートの香りと、心も身体も一つになった余韻に浸ろうか。
腕を枕にする香穂子が起きないように、はだけた布団を肩先まで覆い、夜闇を照らす白い素肌を隠した。大切なものは誰にも見せたくないのだと、輝く月を隠す雲の独占欲に似ているな。汗で額に張り付く前髪を優しく手の平で払うと滑らせながら頬を包み、愛しさに緩む眼差しで君を抱き締めた。返事のように微笑みが浮かぶから一度触れてしまうと止まらず、指先は唇に触れ悪戯なキスをして。互いの髪を絡めながら寄せた頭で、そっと愛撫をする。
穏やかな眠りを守りたい。だが起きてしまうと分かっているのに、それでも君に触れたくなるのは何故だろう。
やがて瞼を震わせた香穂子が腕の中で小さく身動ぎ、薄く瞳を開いてしまった。欠伸をかみ殺した瞳は涙で煌めき、まだ眠りから覚めず、ぼんやりと見つめる眼差しが色香を誘う。すまないと囁き声で詫びる俺に小さく首を横に振り、桃色の微笑みを浮かべながら、寝返りざまにしがみついてきた。
香穂子が身動きする度に、ふわりと立ち上る甘く優しい香り。君の香りが好きだ、時間と共に移り変わる香りをずっと感じていたい・・・。想いのままを真っ直ぐ伝えた翌日から彼女は、一緒に香りを楽しもうねとそう言って、夜眠る前にお気に入りのオーデトワレを身に着けるようになった。シャワーの後でパジャマを着る前に着けた軽めのオーデトワレは、ベッドに潜る頃ちょうど良いタイミングで香り立つ。響く音色の余韻が消えるまで3〜4時間だから、君が俺の腕の中で疲れた身体を休めるときに、ラストノートの香りに包まれる。
香りは記憶を呼び覚ますと言うけれど、ラストノートが二人の香りだと思うのは、一つに溶け合う幸せと共に感じるからかも知れないな。香穂子によると、香水は体温の高いところに着けると香りは丸くなり、下から上へと広がる特徴があるそうだ。だから君を抱き締めると、ふわりと立ち昇る優しい香りに抱き締められるのだろう。
「せっかく眠っていたのにすまない。起こしてしまったな」
「ぐっすり休めたから大丈夫だよ。蓮が抱き締めてくれるから温かくて気持ち良いの。それにね、すごく良い香りがする」
「きっと君が纏う香りが俺にも移ったのだろうな。トップノートの頃は君だけの香りでも、熱を分かち合う時間を過ごすうちに、余韻を楽しむラストノートは二人だけの香りに変わるんだな。香穂子、ひとつ質問しても良いだろうか?」
「ん、なぁに?」
汗で微かに湿り気を帯びる髪に指を絡め、穏やかな鼓動と同じ早さでゆっくり撫で梳くと、心地良さそうに頬を綻ばせ、ころころと肩先に頬をすり寄せてくる。首を持ち上げちょこんと振り仰ぎ、楽しいことを見つけたと語る瞳を輝かせながら胸の上に乗ってきた。
さっきのお返しだよ?と、愛らしく小首を傾げ無邪気に微笑む・・・という事は。眠っていた間に俺が触れてたと、気付いていたらしい。照れ臭さに顔へ熱が集まれば、赤くなったと楽しげに笑みを零し、頬や唇の果実を美味しそうに啄んでいる。くすぐったさに身をよじる俺を、逃げては駄目だと封じながら、頬や唇にキスの雨を降らせる香穂子は、すっかり眠りが冷めた悪戯な子猫だ。
「香水はいつもどこに着けているんだ?」
「えっと、それは秘密! 蓮には内緒なの」
「俺たち夫婦には、隠し事は無しだと約束しただろう? 二人の香りだから一緒に楽しもうねと、香穂子だって言っていたじゃないか」
「うっ・・・その、えっと。基本的には脈打つところに着けるんだよ。それ以上のヒントは秘密、蓮だからこそ言えない事はあるの。だって言ったら、くんくん嗅いで確かめそうなんだもん。くすぐったいし、恥ずかしいから秘密なの」
真っ赤に染めた頬を膨らませながら、じっと見つめる俺に負けじと睨ら見据える瞳が甘い潤みを湛えている。桃色に染まる頬で腕の中にいる君は、睨んでいても拗ねていても、何をしても可愛らしいんだな。恥ずかしいから駄目と、可愛らしく拗ねられたら、余計に興味が沸いて知りたくなるのが人情というものだろう?
好きな相手のことならもっと知りたい・・・近付き一つになりたい気持は止められない。
シュルリと布が擦れる音がすると、胸の上に乗っていた香穂子が起き上がり、シーツの上にぺたりと座り込む。夜闇に一瞬浮かんだ白い素肌は視線を奪われる俺に気付き、慌てて拾い上げた毛布に隠されてしまった。つられて俺も起き上がれば、薄く纏う汗が夜の空気に冷やされ、晒された素肌に寒さが襲う。温もりが欲しい・・・香穂子が握り締めている毛布とは、反対の端を掴んで手繰り寄せると、互いの距離が一つの毛布を求め近づき合う。
香穂子だって、寒さを堪えているはずなんだ。まだ何も着ていないのだから、このまま起きていては風邪を引かせてしまう。一度決めると彼女は折れないし、かといって一度沸いた疑問を諦めては、俺が眠れなくなってしまいそうだ。
「・・・では、俺が答えを探しても良いだろうか。香穂子は嘘が付けないから、すぐに答えを見つけられそうだが」
「秘密だって言ったのに、どうして香水を着ける場所が知りたいの? 私を困らせて楽しんでいるんでしょう。いつもは優しいのに、ベッドの中で情熱的になると意地悪なんだもん」
「すまない、困らせるつもりはなかった。ただ、香穂子の事がもっと知りたかった。君が楽しい悪戯を仕掛ける時に感じる胸の高鳴りが俺の中にあるから、秘密の先に幸せが待っているに違いない・・・そう思ったんだ」
「・・・じゃぁ当ててみてね、香穂子さんから蓮にクイズです。シャワーの前に私が香水を着けた場所はどこでしょう? もうラストの香りだし汗に蕩けちゃったから、難易度は高めだよ。蓮が見つけられたら蓮の勝ち、蓮が見つけられなかったら私の勝ち。買った方はキスがいっぱい出来るの、どう?良い考えでしょう?」
「それは負けられないな」
ね?と愛らしく小首を傾げると、いつの間にか機嫌を直した香穂子は、シーツの上をいそいそと膝立ちで歩み寄り、抱き締められる懐の中でぺたりと座り込んだ。毛布で胸を隠したまま僅かに上を向き、首を伸ばしているのは、キスをねだる仕草にも似ていて、治まりかけた炎が身体の奥で小さく灯るのを感じた。どこに香りの源があるか、直接鼻を寄せて確かめても良いと・・・そういう事なのだろう。
キスがもらえるのではなく、正解を当てたご褒美は好きなだけキスをして良い権利。恥ずかしがり屋の香穂子にしては、珍しく積極的な提案に思えるのだが、それだけ俺に当てさせない自信があるのだろう。それとも俺が見つけると予想して、キスをねだっているのかも知れない。もし正解しなくても香穂子からキスがたっぷりもらえるし、当てたら好きなだけ抱き締めながら甘い唇を味わうことが出来る。
考えるほどに熱さが増し、意識が桃色に霞む・・・もうどちらでも構わない。
始まりの合図のように伸ばした腕で腰を攫い、もう片手は毛布を固く抱き締めていたを手に重ね、温もりで氷を溶かす。緩んだ隙に毛布を引き離し、目の前に晒された白い素肌が両手で隠されるよりも早く、腕の中へ閉じ込めた。首元へ鼻先を寄せれば、爽やかな果物のように甘く優しい、まろやかな香りがふわりと俺を包み込む。このままもう一度酔いしれてしまいたいが、彼女の鼓動と熱が伝える、香りの在りかを見つけなければ。
肩・・・ではないな。もっと別の場所から上へと沸き上がってくる気がする。上半身に着けると強く香ってしまうのだと、以前教えてくれたから、下の位置かもしれないな。探した目印として白い肌に吸い付けば、耳に熱く掠める甘い吐息と共に一際赤い花が咲いた。素肌に唇を這わせながら香りを辿り、肘の内側や掴んだ手首に鼻先を寄せたが違うらしい。
何かを訴えるようにじっと俺を見つめる香穂子へ微笑みを注ぎ、唇にキスを交わしながらシーツの上に横たえた。脈打つ場所というのだから鼓動を刻む場所、つまりは静脈が浮き出ているところなのだろう。素肌を隅々まで辿り、弱くなりかけた香りの源を探し当てるのは確かに困難だ。一度熱を放った理性が焼き切れるのは予想以上に早く、香り探しよりも、早く素肌に溺れたいと願ってしまうのだから。
身体の重みをかけないように覆い被さり、肌をあちらこちらへと彷徨う唇は、やがて鼓動を刻む胸の谷間に辿り着く。
ここでもない・・・か、後は足首や膝の裏だろうか。零れそうな溜息をキスに変えて強く吸い付けば、肩先を掴む香穂子の指先に力が籠もった。身体を起こし、唇を塞ぐキスの合間に身体を脚の間に割り込ませると、枕をきゅっと掴みながらふるふると頭を振り身動ぎ出して。細く引き締まった足首を掴み、抱え上げようとした手を止めるように、甘い制止の声が上がった。
「やっ・・・ちょっと待って!」
「ん? どうした、香穂子」
「私が香水を着けた場所、まだ答えが分からない? もう降参する?」
「降参したいのは、香穂子の方じゃないのか?」
「・・・っ! もしかして答えを知ってるのに、私を焦らして楽しんでるでしょう。もう〜蓮のイジワルっ!」
「困らせているのは君だって同じだろう? 答えが分からないのは本当だ。見つけるには君の素肌へ、隅々まで鼻先を寄せて確かめるしか方法が無い。すぐにも抱き締めたい想いを耐えるのは俺だって辛い。まだ半分しか辿っていないから、もう少し我慢して欲しいんだが」
「えっ、そんな・・・駄目っ、駄目だよ。身体の表面も中も、熱くて私もう限界なの〜」
香りの源を求め素肌を彷徨ううちに、身じろぐ香穂子の呼吸が浅く速くなり、触れ合う肌から感じる鼓動忙しなくアレグロを刻む。白い雪野原にはいくつも赤い花が咲き乱れ、ふるふると首を振る髪がシーツにも花を咲かせた。泣きそうな瞳で切なげに訴える眼差しに捕らえられ、すぐにでも望みを叶えてしまいたい・・・熱さを増した吐息に蕩かされてしまいそうだ。
「では、答えを教えてくれるか?」
「うん、あのね・・・昼間は肩とか膝の裏が多いの。肩は程良くまろやかに香るし、自分の香りを知るのにちょうど良い距離なんだよ。膝の裏は香りが強くならないし、動いたときにふんわり上品に香るから初心者にもお勧めなんだって」
「夜も肩や膝の裏に着けているのか? だから抱き締めたとき、首元へ顔を埋めると良い香りがするんだな」
「えっと・・・夜は、違うの。その・・・夜はね、腰に着けているの。答えは腰だよ」
「腰?」
口を開きかけては閉じてを繰り返し、両手をきゅっと握り合わせながら、ごにょごにょと口籠もる香穂子の隣へ横たわり、はだけた毛布を引き寄せ互いの身体を包み込んだ。辛抱強く待っていると、やがて語られた答えに、彼女は顔から白い湯気を昇らせ茹で蛸になってしまった。恥ずかしさも限界だとばかりにしがみつき、肩先に顔を埋めてしまった背中を優しく抱き締めながら、穏やかさを導くように背中をさする。すると触れ合う鼓動が緩やかさを取り戻し、染まった頬と潤む瞳のまま、上目遣いにちょこんと振り仰いだ。
胸の奥に潜む鼓動が大きく飛び跳ね、何かの予感を示すように君へ捕らわれる。
「腰に着けると、ふんわりと優しい残り香を生み出してくれるんだって。香水は汗に弱いから肩と脚だとすぐに消えそうで・・・腰だと強く香らない上に包み込んでくれるから、良いかなって考えたの。初めて香りを試すときの時には、ここに着けるって本に書いてあったの。それにね、他の香りと混ぜて香りを楽しみたいときには、腰をベースに香りを着けるんだって。だから私・・・」
「答えは分かったが、なぜ腰だと言うことを恥ずかしがっていたんだ?」
「だって蓮と私が一つになる身体の中心だし・・・そのね。私の香りと蓮の香りを溶け合わせたいから、なんて恥ずかしくて言えなかったんだもん。夜に楽しむ香りは、二人の体温と時間で生まれるたった一つの香りなんだもの。愛の結晶なんだよ」
一度達した身体は感度を増し、ささやか刺激にでも消えかけた炎を高まらせる。香穂子が内緒に込めた言葉と想いは、熱い炎となった俺の身体を駆け巡り、心と理性をも熱く焦がすんだ。だが香穂子から答えを聞き出したと言うことは、香りの源を探す勝負は俺の勝ち。ならば最初の約束通り、君にキスをたくさんしてもいいのだろう?
留学中に君を想い贈った香水を、夢と願いを叶えた香りなのだと大切に、香穂子は今も長く愛用してくれている。ふわりと香りに包まれたときの嬉しさと喜びは、贈った後に久しぶりに再開した空港で君を抱き締めた時の感動と変わることなく、今もこの胸に輝いている。君とこうして寄り添い合い共に過ごすひとときの中で、香りを分かち合いながら、自分なりに調べたべた事を俺にも教えてくれたな。
香りの記憶は想いと絆の深さで脳裏に刻まれ、色褪せることがない。
こうして日々重ねる毎日が積み重なり、幸せをもたらす香りの記憶へと変わるのだろう。
素肌に身に纏った香水が爽やかで透き通るトップノートから、甘く可愛らしいミドルノートへ、そしてまろやかに蕩けるラストノートの香りになるまで約三〜四時間。香りをもっと長く楽しむには、消えかけたラストノートの頃にもう一度重ね着けるのが良いのだと、以前君が教えてくれたな。ならば俺たちも、もう一度香りを重ねないか?
甘く熱く濃密なキスから始まる、二人の体温と吐息で生み出す愛の香りを。