心に咲く花




放課後のチャイムが鳴れば、爽やかな青空とそよ風に誘われて、ヴァイオリンケースを持って教室を出た衛藤の足は自然と屋上へ向かう。まだ一学期が終わっていないのに、既に夏本番の蒸し暑さに茹だりながら、開襟シャツの襟元を摘んで、ひらひらと風を送ってみる。これで風がもう少しあったら、ボディーボードに最適なんだけどな。

星奏学院に入学した春から数ヶ月、似合わな・・・いや、着慣れない制服を着こなすべく、試行錯誤が落ち着いた頃に衣替えがやってきた。通り過ぎる普通科の男子生徒は夏でもネクタイを着用なんて、暑くて大変んだよな。廊下の窓ガラスに映った制服姿の自分は、音楽科の夏服である開襟シャツ。絶対に似合わない、あのひらひらしたタイをせずに済んで良かったと・・・そう思ってしまう。


そういえば、 入学式の時から学年色のタイは外していたし、ベストの代わりにインナーを着て、シャツの中にはTシャツを着ていたよな。ってことは、俺がちゃんと着こなした所をみたのは、制服あわせの時に一緒だった梁太郎さんだけか。香穂子にはタイをしたところが見たいと何度も頼まれているけど、あんな似合わない姿見せられないって。あいつ、絶対可笑しそうに笑うはずだろしさ。写真が添付してある生徒手帳を、隙あれば奪おうとするから、俺は死守するのに必死だってのに。

だけど初めはタイを結ばずに済む夏服をあれほど待ち望んでいたのに、今では早く終わればいいと衣替えを待っているなんて。「衛藤くんは、制服が嫌いなの?」と少し前に香穂子が困っていたけれど、違うんだ。シャツの襟に学年色のラインがしっかり縫い刻まれているから、一年生ですって主張しているみたいだろ? 立ち止まったガラス越しに眉を寄せて再び歩き出しながら、いつの間にか制服のタイを外している理由が、自分の中で変化していることに気付いたんだ。


屋上への階段を昇り詰めて重い扉をゆっくり押し開くと、隙間から溢れる太陽の光が白い輝きを放つ。眩しさに目を細めながら外へ出れば、少しずつ戻る視界に広がる空の青。そして強い日差しとは正反対に、ほっと心を癒すそよ風が身体を通り抜けた。森の広場も良いけれど、やっぱり屋上は落ち着くよな。誰もいなくて静かだし、空も近くて風も気持ちが良い。あんたが気に入っている理由が、分かる気がするよ・・・つまり俺も気に入ったってこと。


ここにくれば香穂子に会えると、直接あんたから聞いたわけでも約束した訳でもないのに、そう思うようになったのはいつからだろう。光の中へ踏み出せば、心に真っ直ぐ届く温かいヴァイオリンの音色が、ふわりと優しく俺に笑いかけてきた。香穂子か?と周囲を見わたせば、少し先で楽しそうにヴァイオリンを弾きばがら、奏でる音を空に羽ばたかせている。まるでシャボン玉を空に飛ばす子供みたいに可愛いじゃん。音楽だけじゃなく顔の表情も、豊かに語っているんだもんな。


「よう、香穂子。待たせたな」
「衛藤くん! 来てたんだ。実はね、もうそろそろ来る頃かな〜って思っていたの。だからね、衛藤くんに届きますようにって想いながら弾いていたんだよ」


初めて出会ったときには、一生懸命弾いてる姿は割と可愛いのにって、俺はあんたの事そう言ったんだよな。今は訂正するよ。楽しそうにヴァイオリン弾いている姿、俺が見とれるくらいにすっごい可愛いぜ。余韻が空へ吸い込まれると閉じた瞳を開き、ヴァイオリンを肩から下ろせば、拍手をする衛藤に気付いた香穂子が、ぱっと頬の花を綻ばせ駆け寄った。そんな嬉しい顔するほど、俺に会いたかった? と自身溢れる笑みで返す衛藤も、待ちきれずに足早で歩み寄って。



「悪くない演奏だったぜ。力が入りすぎてた右手も、しなやかにコントロール出来てたよ。まぁ、まだ改善するべき所は他にあるけどな」
「本当!?  音が潰れるのは左手の弱さや貧弱なヴィブラートのせいだって、衛藤くんが教えてくれたから練習したの」
「弓で弦を強く押さえれば音は潰れる・・・弱い左を補おうとして右腕に力が入っていたんだ。右腕から左手に完全に注意を移してただろ? 音楽の自然な流れ、指の正確さ、ヴィブラートの温かさに集中しながらボウイングを使えば、音が宙に羽ばたくんだ。あんたの音、シャボン玉みたいに、いっぱい空へ飛んでたぜ」
「ふふっ、嬉しくて私の心も一緒に空へ飛んでゆきそう。でもまだまだ頑張らなくちゃ。私ね、衛藤くんがヴァイオリンを弾く姿がとっても綺麗だなって思うの。弓を使い方にいつも見とれちゃうんだよ」


屋上の扉を開けたときと同じ眩しさが広がったのは、香穂子が着ている夏服のセーラー服。そして嬉しそうに真っ直ぐふり仰ぐ、きらきら輝く大きな瞳。言葉に出来ない疼きは、甘い恋の痛みへと変わる・・・。まばゆい夏の太陽が照りつけるように、あんたという夏の太陽が俺を熱く焼き焦がすんだ。


「風が気持ちいいけど、さすがに暑いな。練習室には行かないのか?」
「練習室は、すぐ予約でいっぱいになっちゃうんだもん。音楽科の人が使うだろうし、私は屋上とか森の広場で充分だよ。それに衛藤くんが予約してくれているときには、一緒に使わせてもらっているから大丈夫だよ」
「何、遠慮してんだよ。音楽やるのに、普通科も音楽科も無いんだろ? まさか、また何か言われたのか?」
「違う・・・違うよ。えっと、上手く言えないけど、衛藤くんは海が見渡せる、みなと桟橋でヴァイオリン弾くのが好きでしょ? それと同じかな、私のステージは空の下なの。それに・・・ね、練習室だ、とドアのガラスから廊下に筒抜けなんだもん。屋上は静かだし誰も来ないから、えっと・・・衛藤くんと二人きりになれるし・・・大好きなの」


ヴァイオリンを抱き締めたまま桃色に頬を染めて、へへっと照れ臭そうに微笑む可愛らしさに目眩がしたのは、照りつける暑さのせい・・・じゃないよな。気付いたらあんたの肩を掴んで、腕の中に抱き寄せていたのは仕方ないだろ? だけどあと少しで唇が重なる直前でぴたりと動きを止めて、甘い吐息を絡め合いながら、鼻先だけがキスした状態でじっと待つ。
瞳を閉じていた香穂子がゆっくりと開き、今かまだかと落ち尽きなく肩を揺らし始め、甘くねだる眼差しを向けてくる。


「衛藤くん、あの・・・しない、の?」
「何を?」
「やっ、も〜恥ずかしいから言わせないで。衛藤くんのイジワル、焦らしちゃ嫌っ」
「意地悪なのは、香穂子だろ。どれだけ俺を焦らすんだよ」
「へっ!? 衛藤くんを、私が焦らしているの? どうして?」
「上目遣いに拗ねる瞳や、ぷぅと真っ赤に頬を膨らませる仕草だって、充分に俺を煽っているんだぜ。・・・なんて、それも本当だけど。俺のこと、いつになったら、学院でも名前で呼んでくれるんだよ? 名前呼び分けるの、変だろ」
「あっ・・・!」


キスして?と甘く拗ねていた瞳が驚きに見開かれ、見る間に真っ赤な茹で蛸に染まってゆく。あんた、本当にくるくる表情が変わって飽きないな。記憶の引き出しを探り当てたのか、俯く口元に手を添えながら、そっか・・・そうだよねと呟く表情も、次第に真摯なものに変わっていった。耐えるように唇をきゅっと弾き結び、ふるふると首をふる髪が宙を舞う。


「帰り道とか休日には、ちゃんと俺のこと桐也って呼んでくれるのに、正門潜った途端に衛藤くんだもんな。夏服に衣替えした途端、学院内に居るときだけ、人前で急によそよそしくなったのも、ひょっとして同じ理由だろ。もしかして、シャツの襟に付いてる、学年色のラインのせい? 一年ですって主張してるから?」
「だって、衛藤くんを困らせちゃうもの・・・」
「コンミスも勤めた普通科の香穂子は、有名人なだけに周囲の注目や、やっかみも多いよな。クラスの話題や自然と耳に入るうわさ話に、俺とあんたが付き合ってる話題があるのも知ってる。本当、みんな暇だよな」
「私だけが言われるのは慣れているの・・・。でも、衛藤くんまで噂になったり、私のせいで悪く言われるのは嫌だった。私だって、時と場所を気にせず桐也って呼びたい。桐也は人気があるから、ずっと不安だった・・・私、焼き餅焼きさんだよ」
「俺たち、恋人同士だろ。あんただけが困っているのを、俺が知らずにいて嬉しいと思う?」


一度呼びかけてしまえば、溢れるままに名前が想いを伝えてくれる。簡単なのに、どうしてこんなに難しいんだろう。

星奏学院に入学してから俺も気付いた事があるんだぜ。香穂子には、音楽科・普通科問わずファンがたくさんいるってこと。あんたが一生懸命演奏している姿は可愛いし、音楽を聞くと優しい気持ちになれるからな。ライバルの多さに、俺がどれだけいつも焦ってると思ってるの? こうみえても、けっこう必死なんだぜ。だけど、あんたの気持ちが大事だから・・・。


「私、気付いちゃったの。桐也が制服のタイをしないのは、私と一緒にいるときに自分の学年を悟らせないようにっていう、密かな配慮だって。桐也は有名人だから、タイを外しても一目で分かるのにね。でも、気持ちが凄く嬉しかった。だからせめて衛藤くん、のままなら良いのかなって、私なりに考えていたんだよ・・・。でも心配させちゃったね、ごめんなさい」
「知ってたのか、いや・・・その。似合わないって言うのも、あるんだけど。なぁ香穂子、年上とか年下とかってそんなに気になることなのか? 好きになったら、関係ないだろ。俺は自分の気持ちに、嘘つきなくない。香穂子のこと、好きだから」
「私も、好き・・・桐也のこと大好きなの。私の大好きな人ですって、胸張ってみんなに言えるように、私もヴァイオリン頑張るよ。一緒に過ごせる一年間を、大切にしたい・・・負けたくないの」


大きな瞳に涙を溜めながらも、零すまいと必至に見開き耐える健気さに、愛しさが募る。真っ直ぐな強い意志でふり仰ぐ眼差しに緩めた眼差しを注ぎ、そっと伸ばした指先で目尻から溢れそうな滴を拭った。それでも絶え間なく溢れ続ける泉に、衛藤は慌ててポケットからハンカチを取り出し、少し照れたようにぎこちなく香穂子の目の前に差し出す。

きょとんと不思議そうに、ハンカチを眺める香穂子に小さく溜息をつき、ほら・・・と押しつけるようにもう一度差し出して。でもそれが涙を吸い取るよりも早く、抱き締めた唇が目尻に吸い付き、溢れる涙を優しく愛撫しながら吸い取ってゆく。やがてくすぐったいよと身をよじりながら、小さく笑いを零す微笑みに、衛藤の顔にも同じ温かな笑みが生まれた。良かった、やっぱりあんたは、笑っている方が可愛いぜ。


「ほらっハンカチ、涙とはいえ湿気はヴァイオリンの天敵だぞ」
「ありがとう、桐也。優しいね」
「あと一カ所訂正、一年間じゃなくてこれからもずっと・・・だろ。卒業したら終わりって訳じゃないじゃん」
「うん、そうだよね。ふふっ、今日は桐也がすごく頼もしく見えるの。また一つ桐也の“好き”が増えちゃった」
「幸せっていうのはふらりと気まぐれにやってくるものじゃなくて、一人一人が育てる命なんだよな。目に見えないけれど、確かに俺たちの傍にいるって、あんたと過ごすようになってから思うようになった。ほら、暁彦さんや香穂子が見えるっていう、ファータとかいうヤツみたいにさ。なんだよ、変な顔して。俺がこんな真面目に考えるのは変か?」
「・・・桐也」
「なんだよ、香穂子」
「うぅん、呼んだだけ!」


あんたが教えてくれたんだぜ。愛しいって想いは、花と同じなんだってこと。植物は光と水が無いと枯れてしまう。愛も同じだよな、手をかけなくちゃ心の花はしおれてしまう・・・そうだろ? 

ようやく学院の中でも名前を呼んでくれた香穂子を、もう一度抱き締め、背伸びをした耳元へ内緒話をするように。名前を呼ぶまでキスをしないと、お預けになっていたキスを唇に重ねれば、蕩ける甘さが恋の花を心に咲かせてくれる。俺の心にある花はあんたが咲かせ、育ててくれたから、今度が俺が咲かせるよ。

幸せという命を大きく育てるのは難しいけど、諦めない真っ直ぐな心と優しさ・・・愛を伝える言葉や思いやり、音楽を注げば大きく育つ。名前を呼びかける時に、心へ生まれる優しい温かさを、そのままヴァイオリンに乗せてあんたへ届けたい。
名前を呼びかけた時の笑顔と気持ち、それと俺を想いながらヴァイオリンを弾いた気持ちを思いだしてみてよ。どう、一緒だったろ?