こころあい



「待ち合わせの約束よりも、少し早かったか・・・。だけど、きっとあんたはいるはずだよな。今日も熱心に、桜の木へヴァイオリンを聞かせているんだろうし。桜の木へ聞かせるのも良いけど、俺もあんたを独り占めして聞きたいぜ」



海が見渡せる公園の片隅に寄り添い合うのが、二本の大きな桜の木。一緒に練習する約束の前に、香穂子は決まって毎日のようにその木に会いに来て、少しずつ膨らんでくる赤い小さな蕾を見上げては、春待ち顔で桜の木の下に立っていた。見つめる眼差しがや微笑みが、黙っていてもくるくると表情を変えるのは、あんたらしいな。きっと心の中で会話を楽しんでいるに違いない。



しばらくすると愛用のヴァイオリンを取り出して、そよ風に溶け込むボウイングで楽器と一体になりながら、楽しげなヴァイオリンで語りかける・・・。日だまりのスポットライトを浴びるステージで、最初は一人で練習しているのかと思ったけど、大切な誰かに聞かせているんだと気付いたのは、いつだったろう。



その大切な誰かというのは、寄りそう二本の桜の木だろうというのは、素直な香穂子の音色や笑顔を見守っていればすぐに分かった。何をしているんだ?と前に聞いたときには、まさか俺に気付かれていたと思わなかったらしい。真っ赤になって慌てながら「可愛い花が早くたくさん咲くように、花にヴァイオリンを聞かせているの」と照れていたな。他のヤツなら笑うけど、あんたが弾くと、この先が楽しみになってくるんだぜ。


花が水を吸うように、香穂子の音色を聞くこの桜は、どこよりも綺麗に咲き誇るんだろうなと思う。愛しさについ頬が緩んでしまうのは、毎日のようにあんたのヴァイオリンを聞いている俺の心にも、たった一つの優しい花が咲いているからだ。



きっとあんたは今日もここにいる・・・その予感通り、朝一番に届いたおはようのメールには、今日のデートは公園にある桜の木で待ち合わせしようねと、賑やかに躍る絵文字付きで書かれていた。そして、数秒後に追加で届いたハッピーバースデーのデコメール。あんたに会える日は、いつだって嬉しい。だけど今日がいつもより待ち遠しかったのは、自分の誕生日だから・・・いや、俺よりも待ち遠しく感じているあんたの想いが、嬉しかったんだと思う。



自分にとって大切な日だと分かっていても、それまではあまり気にもとめなかったのに。木の芽や蕾が少しずつ膨らむみたく、俺の心の中にも春の芽が膨らんでくるのが分かる。あんたが秘密に企む嬉しさや楽しさが自然と伝わってくるから、約束よりも少し早めの時間に付いしまうくらい、俺は心待ちにしてたんだと・・・改めて気付くと照れ臭さが募る。何気ない一日が特別な日になるのは、あんたがいるからなんだぜ。



「ふふっ、桐也もこんな気持ちだったのかな」
「俺が、何だって?」
「・・・桐也! いつきたの? 約束よりもだいぶ早いよね」
「時間に遅れるよりは、いいだろ。あんたと過ごす時間がその分長くなるんだし」



独り言につい言葉を返せば、ぴくりと肩を震わせて肩越しに振り返り、大きな瞳を驚きで丸くした。悪い・・・驚かせたよなと真摯に謝る俺に、香穂子はふるふると頭を横に振りながら、会えて嬉しいと嬉しそうに満面の笑顔でふり仰いだ。ちょうどヴァイオリンを弾き終わったところだと言って、楽器を小脇に抱えながら、今は満開になった桜のシャワーが心地良いのだと、深呼吸をするようにあびながら瞳を閉じていて・・・。


まぁ、だいぶ前からあんたの音色を聞いていたのは、内緒だけどね。



練習の約束前にいつもの公園にいた香穂子を見つけた衛藤は、ポケットに入れていた手を出し、お待たせと香穂子に笑顔を見せる。丸く見開かれた瞳も笑顔変われば、頬を綻ばせながら子犬のように駆け寄る頭へポスリと手を乗せた。



「あのね、大好きな人の誕生日は自分の誕生日よりも、待ち遠しくて嬉しいよねって思ったの。桐也も私の誕生日を祝ってくれたとき、同じ気持ちだったのかな。私、新しい手帳を買ったらすぐに、今日の日付に赤ペンでしっかり丸印をつけたんだよ」
「香穂子が手帳を買ったのは、確か年末だったよな。気が早すぎだっての、でもあんたの気持ちはすっげぇ嬉しい。おい、ずっと桜の下にいたのか? ほら、髪の毛に花びらがたくさん付いてるぞ」
「え、本当!? そんなに積もってる?」
「あぁ、ピンクの花びらだらけだぜ。今取ってやるから、ちょっとだけじっとしてろよな」



手の平で払いのけた花びらたちが、きらきらの光を受け止めながら、ひらりはらりと舞い降りてゆく。その様子に瞳を輝かせるあんたの、可愛い顔につられて緩む口元のまま、優しく背を引き寄せながら懐に閉じ込めて、一枚一枚を丁寧に摘み取ってゆく。僅かでも身動げば吐息が絡まる近さで、触れそうで触れないもどかしさが互いに熱さを募らせるんだ。



摘み取った花びらは、胸元で両手の平をお椀型に合わせて待つ香穂子のところへ。知ってる?髪の毛で桜の花びらを受け止めると幸せな恋が実るんだよと、花びらの泉を見つめるあんたは嬉しそうだ。私たちたくさん幸せになれるよね、そう無邪気にふり仰いだ笑顔が、息も出来ないほど抱き締めたいと胸を甘く締め付けるから・・・。








「それよりも、演奏の邪魔だったか? 桜の木にヴァイオリン聞かせてたんだろ?」
「うぅん、ちょうど演奏が終わったところなの。桜も満開になったから、ありがとうってお礼を言ってたんだよ。桐也の誕生日には満開の桜でお祝いしたかったから・・・お誕生日おめでとう、桐也」
「サンキュ、香穂子。もしかして今日、俺にそれ言うためにここへ呼び出したのか? 可愛いヤツ。ずっと前から今日の為にそわそわしてたこと、知ってるんだぜ。あんた隠し事下手だからな。ていうか香穂子、顔にも花びら付いてるぞ」
「やだ、恥ずかしい・・・どこどこ? ねぇ桐也、取って?」



しなやかな髪を撫で梳く指先を柔らかな頬に滑らせ、しっとり吸い付く感触で包み込む。淡い花びらの花芯が燃える赤をしているように、俺の心も熱を帯びている・・・火を付けるのは、いつだってあんたなんだぜ。







ここに付いてるぜ、吐息で囁きながら触れた場所は赤く柔らかな唇。目を細めたくなるのは光を背負うあんたの眩しさと、胸が疼く愛しさと。吸い寄せられるまま身を屈め、顔が深く陰り吐息が絡む近さで、お互いの鼻先が掠め合う。全ての時間ががスローモーションに見える中、僅かに首を傾け鼻先をずらし、角度を変えた衛藤の唇がしっとりと香穂子へと重なった。


まるで、ひらりはらりと舞い散る花びらが、唇へ止まるように。


付き合い始めてから一年が経ち、二度目に迎える春。少し前までは手を握るのでさえ真っ赤に照れていたのに、いつの間に大人なキスをさりげなくするようになったのだろう。たった数日会えないだけでも、ぐっと大人っぽさが増して見える。奏でるヴァイオリンの音色も心も身体も全てが、俺を引き寄せて止まない。



パチクリと瞬きをそた数秒後に、真っ赤な火を噴き出した香穂子に釣られて、衛藤の頬も赤みが増してくる。大胆なことをしても後で照れる素直さは、出会ったときと変わらない・・・そんなささやかさが嬉しくて温かくて。可愛いなと頬を緩めればぷぅと頬を膨らませる香穂子が、何笑ってるの?と拗ねてしまうけれど。香穂子が、好きだ・・・と真面目に返す俺に、反則だよと泣きそうになりながら、しがみついてしまう。


おい、反則ってなんだよ。俺は真っ正面から気持ちを伝えたのに。今度は俺が唇を尖らすと、懐からちょこんと顔を上げたあんたが甘い吐息で囁くんだ。桐也がすごくカッコイイってことだよ、私も大好きなのってね。さっきの言葉をそのままあんたに返すよ、香穂子だって可愛すぎて反則だぜ。



「でも私が何を桐也にプレゼントするかは気付いてないよね」
「この桜の木に関係してるのかと思ったけど、さすがに分からなかったぜ。降参。大きくて抱えきれない物だってメールにはあったけど、どこにあるんだ?」
「ふふっ、ここにあるの。桐也と私の目の前にね。音楽関係は桐也の方が詳しいし、お料理は私・・・あまり得意じゃないし。桐也にどんな誕生日プレゼントを贈るか、ものすごく悩んだの。でね、桐也に私の気持ちを込めた花束を贈ろうって思ったの」



一瞬緩んだ腕から抜け出した香穂子は、シフォンのスカートを舞い広げながら、くるりと軽やかにターンをする。そよ風に舞う花びらの中で、一際可愛い花びらはあんただろうな。楽しげにくすくす零す笑い声も、春風に溶け込み優しい音楽を奏でていた。俺達の目の前るあんたのプレゼント・・・やっぱりこの、大きな二本の桜の木、なのか?


並んで寄り添う桜の木を、交互に見上げて何かを瞳で語りかけると、音楽家の顔で振り返り恭しくお辞儀をする。ヴァイオリンを構えて奏でるのはハッピーバースデーのメロディーと、二人でデュエットをする大切な曲・・・優しき愛。



「だから毎日俺との練習前にここに来て、桜にヴァイオリン聞かせてたのか。満開の桜の木が二本・・・確かにデカイ花束だな。他の桜はまだ咲ききっていないのに、ここだけ満開だぜ。香穂子のヴァイオリンのお陰だな」
「蕾が芽吹いた頃から、毎日ヴァイオリン弾いていたの。今年は開花が遅くなったから間に合うかどうかドキドキしてたけど、満開が今日に間に合って良かった。ね?綺麗でしょ  あ!もちろんこの木は公園のものだからお持ち帰りはできないから、お花を眺めるだけだけどね」
「この場所にある桜が好きだって言ったの、覚えてくれてたんだな・・・サンキュ、香穂子」



恋する楽しさも幸せだけじゃなくて、時には切ない苦しさ・・・。
一緒に過ごす時間が増えれば穏やか気持ちになれるのかと思っていたけど、恋する心は熱さを増すばかりだ。深みを増す想いと信じる気持ちが絆になって、でも互いに競い合う良きヴァイオリンのライバルという間柄は、相変わらず。


恋人でありライバル、ときには味方。競い合い、協力し合ってお互いを高めてゆく、大切な存在。
仲良く肩を寄せ合うように植えられている二本の桜の木を見上げながら、俺達みたいだと頬を綻ばせていたのはあんただったな。俺もそう思う・・・この木が好きだと言ったら、満開の桜の下で桐也の誕生日をお祝いしたいよねと、目を輝かせていたんだ。



「大きな枝振りや葉は人に見せて、互いに競い合い花を咲かせる・・・けれど大切な根は人には見せない。窺い知ることの出来ないところで、根が地面の中で成長を続けているように、花を咲かすために見えない努力を大切にする。練習の時に桐也が言ってたよね。この桜たちは、桐也みたいだな・・・うぅんお互いに頑張る私たちみたいだなって思ったの」
「一つの花だけでも綺麗だけど、二つ並べばもっと華やかになるのは、花だけじゃなくて音楽も俺達も同じだな。春風に吹かれながら、花のの下に立つと、肩や心を寄せ合いたくなる」
「春が終わったら、緑になって、冬を耐えたら一回り大きな花を咲かせるんだよ。根っこの中ではね、次にどんな花を咲かせるかこの子たちが競争していると思うの。どんどん大きくなるんだよ」
「俺達も、こいつらに負けてられないな」



ね?と満面の花笑みでふり仰いだ香穂子が、衛藤の隣へそっと肩を寄添わせた。この子たちはとっても仲が良いよね、ほら見て、花びらで歌っているよ・・・と。手の平で受け止めた、ひらりはらり舞い散る花びらへ、慈しみ溢れる眼差しを注ぐと、唇を寄せてキスをして。隣に並ぶ衛藤の手を握りながら、春の欠片を託した。



手の平で花びらを受け止めながら、そのまましっかりと柔らかさを握り返し、手を繋ぐ。
春風は心和む風、人同士も心も音色も自然と寄り添うことが出来るのは、努力の冬を耐えたから。



「花を眺めるなら、あんたの手作り弁当で花見がしたかったんだけど」
「お料理は・・・その、美味しいって喜んでもらえるように、もうちょっと頑張るね! 桐也が良くても私が納得できなくて・・・お祝いの小さなカップケーキを作るのが、精一杯だったの。大きくて丸いケーキは、失敗しちゃって・・・ごめんね」
「あんた、本当に可愛いよな。なぁ香穂子、一つだけ我が儘言って良い? 年に一度の誕生日だから、いいだろう?」
「桐也のお願い? いいよ、何でも言ってね。今日は特別な日なの。夜まで桐也とずっと一緒にいるって決めたんだもの」



照れ臭そうに視線で示す先には、ヴァイオリンケースの傍らに置いてあった、深い赤色した紙袋。


手の中に抱えきれない大きな花束も嬉しいけど、腕の中に抱き締められる花も、欲しいんだけどな。
触れれば柔らかくて温かい、俺だけの春に咲く大切な花・・・そう、あんたのことだよ。って、俺だって恥ずかしいから、言わせるなよな。


えっ?と小さな驚きで見上げた眼差しと甘く熱く絡まれば、繋ぐ手にきゅっと力を込めて俯いてしまう。
それでも満開の桜も恥じらう程に赤く染まりながら、コクンと確かに頷く。あんたはいつだって俺が欲しいと願っている物をくれるんだ。



風が春を運んでくるから、俺もあんたに伝えるよ。
俺の胸に宿るこの想いと音色を乗せて・・・花の香りが大切なあんたへ届きますように。