キスまでの距離




洗顔や歯磨きなど朝の身支度をするため、先にベッドから抜け出すのはいつも香穂子の方だ。朝に弱い俺が起き出すまで待っていたら、いつになるか分からないし、彼女の方が身支度に時間もかかるから。ベッドに身体を起こす俺へ背伸びをして、朝日のように元気溢れる笑顔のキスが頬を掠れば、足取り軽く寝室を駆け出す背中。見送る自分の頬が緩み、心も身体も温もりに包まれる・・・心と身体に君がくれた温かさを、今日一日の力に変えよう。


暫く経ってから寝室を出た香穂子の後から追いかけると、洗面所の鏡に向かい睨めっこをする彼女に出会う。頬を膨らませむぅっと顔をしかめたり、そうかと思えばにっこり笑いかけてみたり・・・時には鏡の中にいる自分へ語りかけて。笑顔の準備運動なのか、くるくる変わる表情が楽しくて、後ろに佇んだままつい声を掛けそびれ見つめてしまう。鏡越しに背後に立つ俺に気付かない程夢中になっているが、ふとした拍子に俺に気付いた香穂子が、真っ赤に染まった顔で振り返るのは毎朝の光景だ。


だが今日は百面相でなく、洗面所の鏡に向かい合いながら一生懸命背伸びをしている。一体何をしているのだろうか? 片手で少し高い場所を示し、そこへ向かって届くようにと、もう少し・・・もう少しと呟きながら。高い場所へと手を伸ばそうととしているのではなく、顔を近づけようとしている姿は、自分の背丈を伸ばしているように思えた。

届きそうで届かない場所を求める、彼女のもどかしさが伝わってくる。何か俺に手伝える事はないだろうか?


「ん〜っ! これくらいかな? あともうちょっとかも・・・」


だが・・・その。香穂子が着ているのは、俺が昨夜着ていたパジャマの上着だ。いくら羽織っている俺のパジャマが君には大きいからと言っても、背伸びをしては・・・その、白い足の先が見えてしまいそうなんだ。気をつけてくれと沸騰しそうな心の中で毎朝問いかけるが、どうやらあまり効果は無いらしい。真っ赤になって照れる姿と、押さえきれなくなる自分が目に浮かぶが、やはり気になるから声をかけずにはいられない。


目覚めたときに香穂子の素肌に羽織らせるのは、おはようのキスと同じくらい二人の大切な朝の挨拶と言っても良いだろう。目覚めた朝に君が俺の上着を着るようになったのは、一緒に暮らし始めたいつの頃からだっただろうか。俺が君に羽織らせたり、君が好んで俺のを羽織ってみたり。広く空いた襟元をかき合わせ、綻ぶ眩しい笑顔に自然と頬も緩みでしまう。だが大切な人が自分のシャツを、素肌にそれだけ羽織っている姿は独占欲を掻き立て治まった夜の熱さが込み上げてしまいそうになる。すらりと伸びた白い脚、肩の余った長い袖や、開いた胸元からちらりと覗く赤い花や膨らみに・・・。


先にシャワーを浴びるためにベッドから降りた香穂子は、着替えを用意するクローゼットやドレッサーの間を駆け回っていた。朝から元気なのは良いが、走る度に短いパジャマの裾がひらひらと靡くから、少し・・・いや、かなり目の毒だと気付いているだろうか。


「もっと背が高かったら届くのにな・・・。高く背伸びをするには勢いが大切なのかな? もう一度・・・エイッっと」
「香穂子、何をしているんだ?」
「ひゃぁっ! え、蓮!? って・・・わわっ」
「危ない・・・!」


つま先立ちで背伸びをしていた不安定な身体がぐらりと傾げ、肩越しに振り向きざまよろけてしまう。頭で考えるよりも身体が動き、香穂子へ駆け寄ると攫うように背後から抱きとめていた。良かった、無事だった・・・。安堵の溜息が零れると、確かめるように深く抱き締めながら、柔らかい髪の中へ顔を埋める。鼻孔をくすぐるシャンプーの香りと温もりに心地良さの海を漂っていると、腕の中に収まる香穂子がもぞもぞと小さく身動ぎ始めた。耳や首まで赤く染め、あの・・・その・・・と恥ずかしそうに呟いて。


君は素肌に俺のパジャマの上着だけを着ていて、俺のパジャマの上着は香穂子が着ているから上半身は素肌のまま。パジャマ越しに伝わる体温がほんのり熱を帯び、高まり出す鼓動を伝えてくれる。せっかく治まったというのに、このままではまた、君を手放せなくなってしまうな・・・名残惜しいけれども。緩めた腕からくるりと向き直り、ありがとうと微笑む彼女が無事で良かった・・・そう想いながら頬を包みながら瞳を緩めた。


「いきなり声をかけたらびっくりするじゃない〜。しかも振り向いたらパジャマの上着を着ていない、上半身素肌の蓮が、すぐ目の前にいるんだもの。熱くて心臓がはりさけちゃいそうだよ・・・」
「すまない、驚かせるつもりは無かったんだ。俺のパジャマの上着は、君が今着ているだろう?」
「あ・・・そうだったよね、ごめんね。ねぇ、今のずっと後ろから見てたの?」
「背伸びをしていたから、どうしたのだろうかと思って声をかけようとしたんだが、タイミングが掴めなかった。結局は君が気付く方が今日も早かったな。高くて届かない所なら、俺の手をかそうか」


フェイスタオルをきゅっと握り締め懐から振り仰ぎ、見ちゃ駄目なの!と俺を睨んでくる。鏡に映る自分の顔が緩んでいるのが分かるから、今来たばかりだと告げても見抜かれてしまったのだろう。見たのかと問われたときに鼓動が大きく跳ねたのは、背伸びをして見えそうだった、パジャマの裾の中身かと勘違いをしたのは秘密だ。女の子が鏡を見つめているときには、自分に魔法をかけているから見ては駄目なのだと・・・。拳を握りしめて乙女心を力説していた、彼女の言葉が脳裏へ過ぎる。


例えば鏡に向かってルージュを塗ったり、だんだんと綺麗になっていく君を傍で見つめるのも楽しい。だが見ては駄目だと、いつも背中を押されるように部屋を追い出されてしまう。見ては駄目だと言われたら気になるのだが、鶴の恩返しと同じなのだろうか? せっかく一緒に暮らし始めたというのに、香穂子がいなくなっては・・・困る。眉を寄せて真剣に悩む俺に小さく微笑み、大好きな人の前ではいつでも可愛くいたいのだと。上目遣いで照れ臭そうに頬を染められたら、もう俺は君に敵わない。


「やだな〜もう、秘密の特訓を見られていたなんて恥ずかしいよ・・・。確かに高い場所にあるんだけど・・・ね」
「秘密の特訓?」
「え、あ・・・何でもないの。蓮には内緒!」
「秘密の特訓とは、さっきの背伸びなのか? 何の練習をしていたのか、俺に教えてくれないだろうか。俺に出来ることがあったら、君の力になりたいんだ」
「蓮に内緒だから、秘密だったのに。教えたら楽しみが無くなっちゃうよ、蓮も私も」


慌てて口籠もると勢いよく顔を左右に振り、前で手をブンブンとばたつかせる。君は嘘のつけないから、語か増しているのだと直ぐに分かるんだ。だが俺には内緒というのはどういう事だろう。特訓というからには何かの練習なのだろう。じっと見つめれば、そわそわと落ち着きなく肩を揺らし始め、絡む視線を逸らそうとする。前に組んだ両手を弄りながら、時折上目遣いでちらりと俺を伺うように見上げるのは、恥ずかしさを堪えるときと一緒だ。


「すまない・・・言いたくないのなら、無理には聞かないから」
「あっ、違うの・・・私こそごめんなさい! そうだよね、夫婦で隠し事は良くないって二人で決めたもんね。あの・・・ね、キスまでの距離を測っていたの」
「キスまでの距離?」
「私たちって頭一個分の身長差があるでしょう? いつもは私が蓮を見上げているけれど、ベッドに寝転がっていれば背伸びをせずに唇が届くから、ついたくさん触れたくなっちゃうの。同じ目線って素敵だねって思ったから、蓮の身長はこれくらいかな〜っていう所へ、すぐにキスが届けられるように背伸びをして練習していたの」
「香穂子・・・」
「夜になれば二人の距離がぐっと近くなるけど、昼間はちょっぴり遠くなるの。ふいうちのキスをチュッってくれる蓮みたいに、私も届けたかったら。高い棚にある物みたいに取ってもらうわけにはいかないんだよ、だって嬉しかった気持ちを蓮にも届けたかったんだもの。こればかりは私が頑張らなくちゃ駄目なの」


恥ずかしさを堪えながらも、ひたむきに真っ直ぐ俺を見つめる、大きな瞳に吸い込まれそうになる。いや・・・もう心は捕らわれているのかも知れない、瞳に映る自分姿はその証なのだから。


透明な朝日が差し込むベッドの中で、君と俺は朝を告げる小鳥になる。互いを抱き締めあいながら、微笑みの優しい吐息と、緩んだ瞳で交わすおはようの挨拶。鼻先で悪戯に俺の頬や首筋をつつき回る、無邪気な君を腕の中へ閉じ込めれば、身動き出来ずにどうしようかと困った様子で小首を傾げた。離して?と愛らしくねだるけれども、次の悪戯を考えているのが楽しげな瞳から分かるから、抱き締める腕を緩める訳にはいかない。

朝だから起きなければと思うのに、なかなかベッドから抜け出せないのは温もりが手放せない・・・もっと微睡んでいたい。それだけでなく、香穂子がくれるキスが嬉しくて、もっと受けとめていたいのだと思う。
君と俺は頭一つ分くらいの身長差があるけれど、白いシーツに包まれた小さな空間では、同じ目線の高さで見つめ合う事ができる。桜色に染めた頬ではにかむ君がまた一つキスをくれるから、愛しくて想いが溢れてしまいそうだ。


昼間は頭一つ分離れてしまうが、夜になればぐっと近づくキスの距離。俺は身を屈めば直ぐに届くけれども、見上げる君からは少し遠くなってしまう・・・簡単な事なのに今まで気付かなかったな。

この場所では、香穂子からたくさんキスをくれるから嬉しい。幸せだから俺も、同じ贈りものが返したい。
鼻先が触れ合う近さで、確かにそう告げた。日だまりの中で咲く、花のような笑みを綻ばせた君は、俺の言葉を真摯に受け止め、大きく膨らませ返そうとしてくれたんだ・・・俺のために。君の想いに詰まった優しさが、じんわりと広がり温めてくれるのを感じる。


「私ね、蓮を見上げるのが大好き。じっと見つめていると、私の視線に気付いてちょっぴり頬を赤く染めて、照れ臭そうに微笑みを注いでくれるの。まるで青空から降り注ぐ日だまりのように温かく、闇夜を照らす月明かりのように私を照らし包んでくれる。微笑みの日だまりに包まれて、心も身体もポカポカになるんだよ・・・今もそうなの」
「俺も、君の大きな瞳で見詰められるのは、とても心地良いんだ」
「もうちょっと身長が高かったらなぁ・・・。寝転がっている時みたくいつでも近かったら、好きなときに好きな場所へチュッと出来るのに。ヴァイオリンも恋も対等でいたいもの」
「香穂子の背が高くなったら・・・少し困る。今のままで良いと俺は想う。俺の楽しみが無くなってしまうから」
「どうして?」


きょとんと不思議そうに小首を傾ける香穂子へ緩めた眼差しを注ぎ、再び腕の中へ閉じ込めた。腕の中からちょこんと振り仰ぐ額へキスを降らせると、頬を染めた君はもう気付いただろうか。俺の全てで君を抱き包みたいし、こうして髪や首元に顔を埋めていたいんだ。それに普段はなかなか唇が届かないから、シーツの中で近づいたときに嬉しさが募るのだと思うから。


「背伸びをして俺にキスを届けてくれる、君が好きだから。俺のためにと頑張る姿が、想いを募らせ心の底から熱くしてくれるんだ。届かないのなら俺も力になると、そう言っただろう? どちらか一方だけのものではない・・・互いに歩み寄るから、一つに重なるのが幸せで心地良いのだと俺は想う」
「蓮、ありがとう。たくさん背伸びをして、気持ちを込めた私からのキスを贈るね。小さい香穂子さんと、中くらいの香穂さん、蓮はどっちのキスが良い?」
「・・・大きな香穂子がいい」
「もう、蓮は欲張りさんなんだから・・・」


さぁ今度は何をしてくれるのだろうか。期待を込めた眼差しで見守ると、見つめ返す瞳が煌めき俺の両腕を掴んでくる。掴んだ腕を支えにしながら、つま先立ちで背伸びをする柔らかい唇を受けとめようと、俺は僅かに身を屈め君を待つ。互いに歩み寄る心のように近づき合えば、そっと重なった唇に花びらが舞うそよ風が吹き抜けた。

秘密特訓の成果が出たよと無邪気に笑みを浮かべる君が、こつんと額を触れ合わせてきて。甘えて擦り寄る仔猫のように柔らかい髪を絡めれば、微笑みを浮かべる唇が零す甘い吐息が、俺の心を揺さぶるヴィブラートになる。




香穂子、君が計ったキスまでの距離はどれくらいだっただろうか?
分かち合った二つのパジャマが一つになるとき、心もまた一つに溶け合う。
だから、俺達にはほんの僅かの背伸びもいらない・・・そうだろう?

キスまでの距離・・・見た目の遠さや近さではなく、それは互いの心の距離。






18万打のキリ番申告が無かったので、1違いの180001を踏んだと申告下さった夏樹さんのリクエストをお受けしました。頂いたリクエストは「月日で同じ服を分け合う」「香穂子が背伸びをして月森にキスをする」というものでした。幸せそうで甘い二人でという事だったので、新婚月日でお届けしてみました〜。脳内でくるくる動くんですが、筆力が熱い妄想追にいつかなくて・・・こんなものですみません(汗)。楽しく書かせて頂きました、感謝を込めて捧げさせて頂きます。リクエストをありがとうございましたv