キス

「朝起きたときでしょう? いってらっしゃいに、お帰りなさい。おやすみなさいと、後はえっと・・・えっと・・・・・・」


譜読みをしていると、目の前にいる香穂子がぶつぶつと小さく呟く声が聞こえた。
真っ直ぐゆえに隠し事が苦手な香穂子は、考えている事が表情だったり、時には独り言となって現れる。楽譜をずらして隙間からこっそり覗けば、アルバムの写真を整理していた筈なのだが、テーブルの上に散らばった写真やアルバムたちはそのままで。一人がけのソファーに深く身を埋めて、膝を抱えるように丸くなっていた。

呟きながら指折り数える手をじっと眺めつつ、眉を潜めて難しい顔をしたり、赤くなったり。
そんな君を見ているだけでも飽きなくて、楽しくなってしまう。

お休みなさい、は寝るときの挨拶だろうか。香穂子は言葉を詰まらせ、以降の言葉を告げられずに
固まったまま、見る間に顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。


「香穂子。今日は一体、何の考え事をしているんだ?」
「えっ!?」
「先程から、全部口に出ているぞ」
「や、やだ・・・聞こえてたんだ・・・・・・・」


楽譜を腿の上に置いて腕を組んだ月森が、可笑しさを堪えるように小さく笑いかけた。ハッと我に返った香穂子が、火を噴きそうなくらいに益々顔を赤らめていく。肩をすぼめて、すまなそうに上目遣いで様子を伺う可愛さに、月森は、向ける瞳をさらに深く柔らかいものにした。


「ご、こめんね。譜読みの邪魔しちゃったかな?」
「いや、構わない。丁度休憩をしようと思ってたんだ。香穂子こそ、写真を整理していたんじゃなかったのか?」
「うん、そうなんだけど。写真見てたら、思い出した事があって・・・・」


そう言ってソファーから降りると、向かいに座る俺の隣に移動して、ピッタリと寄り添ってきた。寄りかかるように体重を預ける華奢な肩をそっと抱き、見上げる瞳微笑みで受け止める。


「普段家でしてることって、どんなに気をつけていても、つい外でもやっちゃったりするでしょう?」
「そうだな。身についてしまった習慣や癖を直すのは、なかなか難しいと思う」
「だからね、一日の間で私たち、どれくらいキスしてるのかなって、数えてたの」
「は!?」
「でもね、両手だけじゃ数え切れなかった・・・・」
「・・・・・・・・」



指折り数えて握り拳になってゆく両の手を、香穂子の視線を追うように、一緒になって眺めていく。
考えた事は無かったが、数えればけっこうあるものなんだな。

おはようとか、ただいまなどの挨拶だけではなく、何気ない生活の中でも視線が甘く絡めば、自然と互いの顔が引き寄せ合ってしまう。確かに全て数えれば、両の手だけでは足りないかもしれない。
しかしそのキスと、癖や習慣と何の関わりがあるのだろうか?



「家の中ならともかく外に出かけても、気が緩めば人前なのに、つい忘れてキスしちゃうじゃない」
「外国人は、誰もが大らかでオープンだ。別に珍しい光景でもないだろう? 俺は別に構わないが、ひょっとして香穂子は嫌だったのか?」
「嫌じゃないけど・・・我に返れば恥ずかしいというか・・・。たまに日本に帰ると、外国暮らしの人は違うわねって、いつも冷やかされるんだもん。それに、忘れたとは言わせないよ」
「俺が、何かしたのか?」


やっぱり忘れてる!と頬を膨らまして睨みつつ、テーブルの上に散らばっている写真を指差した。彼女が整理していたのは、結婚式の時の写真。真っ白いウエディングドレスの君と、傍らには俺の姿。懐かしい仲間の姿もいて・・・。けれども、感慨に浸っている場合ではなさそうだ。


「思えば結婚式の時から、そうだった。誓いのキスが長すぎだって、真っ赤になった神父さんに注意されたじゃない! すっごく、恥ずかしかったんだから」
「・・・俺だけじゃない・・・香穂子だって同じじゃないか。俺はあれでも、十分短いつもりだったが」
「・・・・・・短いとか一瞬とか触れるだけとか。絶対に私たちと他の人の時間感覚って、違うよね・・・」


う〜っと唸った香穂子が項垂れつつ、大きく溜息を吐いた。


「だからね。いっそのこと、一日中キスをしないでいよう、っていうのはどうかな? 家にいる時から気をつけていれば、つい場所を忘れて・・・っていうのは、お互い無くなるでしょう?」
「それは困る!」
「蓮?」


間髪入れずに強く反論すれば、キョトンと不思議そうに見上げてくる。
君は本当にそれでもいいのか? 俺は嫌だ、なぜなら・・・・。


「・・・息をするなと言われているのと同じくらいに、辛いから・・・・・・」


照れたように頬を赤く染めて視線を逸らしてしまった月森に、香穂子はふわりと微笑んだ。
蓮? と耳元に小さく呼びかけて振り向いけば、唇に柔らかく温かい、彼女のそれが重なった。


「香穂子・・・?」
「私たちは、私たちだよね。」
「あぁ、そうだな・・・・」




当たり前のようになっているけれども、欠かす事の出来ない大切なもの。
だから、無くすなんて言わないで欲しい。
毎日の生活の中で君がくれる、たくさんの優しさと、愛しい気持ち。
感じたくて、受け止めたくて・・・・・そして俺も贈りたい。
この唇から・・・言葉にできない、ありったけの想いを込めて。
だから一瞬なんて僅かな時間では、とうてい足りることは出来ないんだ。


たくさん君を感じるたびに、俺はやさしく温かい気持ちになれるから。
きっと君も、同じ想いでいてくれる筈だと、分かるんだ・・・触れる唇から伝わってくる。




見上げる大きな瞳に微笑み返すと、互いの顔がどちらとも無く引き寄せあい、再び唇が重なった。