キスの前にお願い一つ
君を抱き締めたりキスをする合図というのは、言葉にしなくても伝わるらしい。
触れる直前にほんの一瞬生まれる躊躇いと、求めて止まない情熱。
二つがぶつかり合い激しく葛藤するときに、胸の中で火花が散るのを感じるんだ。
パチッと弾ける恋の炎が君にも伝わるのか、それとも沸く熱さが押さえきれずに溢れてしまうからだろうか。
昼休み終了のチャイムが響き、練習室で音色と心を重ねた優しいひとときが終わる。
ほんの数時間後にはまた会えると分かっていても、俺も香穂子も名残惜しさを感じてしまう。
別れ際は、練習室の片隅で小さな挨拶と約束を交わすんだ。また放課後に・・・ここで会おうと、優しい口付けを。
一つに溶け合った音色の心地良さに浸りながら、どこか浮き立つ気持ちでヴァイオリンを片付けて。
君の待つ窓辺にゆっくり歩み寄れば、透明な光りの中浮かんだシルエットが、やがてはっきりと姿を映しだしてくれる。
手を伸ばせばすぐ腕に抱き寄せられる、目の前に香穂子がいる。ほんのり火照り始めたピンク色の頬を、そっと両手で包みながら、美味しいお菓子を食べた時とも違、幸せそうな微笑みを浮かべて。
君の唇はまろやかな口溶けのケーキに似ている。スポンジケーキのように柔らかくて、好きだよ・・・と真っ直ぐ伝わる想いは、白いミルククリームとなって俺の中でふわりと甘く蕩けるから。
抱き寄せようと手を伸ばしつつ一歩進み出るのと、頬を包む手を解いた香穂子も懐へ飛び込もうとするのが同時。
だが彼女が伸ばした指先は、制服のジャケットに触れる直前で僅かに躊躇い止まってしまう。
少し前には無かったのに、ここ最近の彼女は触れる一瞬を迷うことが多い。だが一度触れてしまえば変わらずに、腕の中で甘えてくれるんだ・・・いつも強気で頑張る君が、俺だけにしか見せない姿で仔猫のように。
照れ臭さから生まれる恥じらいもあるが、眉を寄せ何かに怯えながらも、勇気を振り絞る健気さが伝わってくる。
俺には祈る気持ちを届け、見守ることしか出来ないのがもどかしい。
再び伸ばされ、彼女の手がもう少しで触れるその時、聞こえたのはパチッと弾けた悪戯な妖精。
冬の乾燥した空気に起こる静電気の音と、痛みに上げる小さな悲鳴だった。
「きゃっ、痛いっ! うわ〜ん、やっぱりパチパチくんが来たよ・・・」
「香穂子、大丈夫か? 今の静電気は大きかったな、青い火花が見えたぞ」
「指先がちょっぴり痺れるけど、ほんの一瞬だからすぐに治まるよ。蓮くんこそ痛かったよね・・・ごめんね」
「俺は平気だ、それよりも香穂子が大事だ。ヴァイオリンを弾く大切な指なのに・・・痛むか?」
泣きそうに大きな瞳を潤ませながら、引き寄せた手を胸の前で抱き締めるように痛みを堪えている。そっと手を重ねて解きほぐし、痛みを感じた方の手を俺の両手で包み込んだ。もう痛くないから・・・そう言って緩めた瞳で微笑めば、小さな春の芽生えように潤んだ瞳へ透明な輝きが灯る。はにかみながらありがとうと囁く吐息がくすぐるから、癒すつもりで握っていた手に、自然と力が籠もってゆくのは許して欲しい。
しかしなぜ触れようとする度に、いつも静電気が悪戯してくるのだろう。季節だから仕方がないが・・・。
お陰で引き寄せ合う距離は縮まらず、甘さの中にもちょっぴり気まずい沈黙が流れてしまう。
戸惑う君が困った顔をしているのは、瞳に映る俺も同じ顔をしているからだろう。
「蓮くんが大好きだから、もっといっぱい触れたいのに・・・でもパチパチくんの痛みは怖いの。どうしたらいいのかな、これじゃぁ私たちキスも抱き合うことも出来ないよ。警戒していると来ないのに、ふいに気が緩むと来るんだよ。本当に意地悪だよね。そうだ! あのね蓮くん、お願いがあるの」
「どんなお願いなんだ?」
「パチパチくんが悪さをしないように、キスするっていうのはどうかな?」
「は・・・!?」
「えっとね、身体と洋服がくっつくから静電気が起きるんだって思うの。だから抱き合わずに首だけちょこんと伸ばし合って、唇をくつけるの。どう、良い考えでしょう?」
「・・・・・・・・・・」
手を後ろ手に組み、ん〜っと言いながら閉じた瞳で唇を差し出してくる。そのまま腕の中へ攫ってしまいたい程愛らしいが、俺に同じ事は無理だ・・・。君に触れられないだけでなく、軽く触れるだけでは理性が持ちそうにないから。
何とか出来ないかと、彼女なりに一生懸命考えてくれたのだから、俺も応えなくてはいけないな。僅かに身を屈め、小さく微笑みを浮かべた唇をふわりと重ねた。やはり一度だけでは足りなくて、うっすら瞳を開きかけた所を、もう一度啄んでしまったけれど。とびきり甘い物を食べたときのように緩む頬は、俺の心を癒し弾ませてくれるんだ。
「良い案だと思うが、香穂子の願いを聞き届ける訳にはいかない。君を抱き締めずにキスするのは無理だ、触れたい・・・この腕に閉じ込めたいと、そう思うから。我慢をする程に溜め込んた想いは、より熱い火花となるだろう」
「じゃぁどうしたらいいの? その・・・ね、甘い雰囲気のたびにパチって痛い静電気を感じるのは困るよね。痛いよって私が泣きそうになったら蓮くんに心配かけちゃうし、蓮くんだって痛いかもしれないのに。触れずに我慢するのは、私だって辛いの」
「敏感な指先だけで触れようとするから、痛みを感じるのではないか? 広い面で触れれば、抵抗は少ないと思うんだ。時には恐れない心や勢いも必要だろう・・・あくまでも理論上だが」
「勢い? 広い面? それでパチパチくんが防げるの?」
きょとんと不思議そうに小首を傾げる香穂子の肩から、しなやかな髪がさらりと零れ落ちた。そんなささやかな仕草さえ視線を奪われ、鼓動が跳ねてしまうんだ。心へ吹き抜けた甘い風に誘われ・・・いや、風となった俺が君を攫い、あっという間に腕の中へ閉じ込めた。
どうだろうか、今度は静電気も悪さをしなかっただろう? 懐からちょこんと振り仰ぐ君が、今度は平気だったよと笑顔を綻ばせながら、背中へしがみついてくる。蓮くんの香りがするねと、心地良さそうに擦り寄りながら胸一杯に香りを吸い込んでいた。
君も一足早い春を運ぶ、甘く優しい香りを俺に運んでいるのだと、気付いているだろうか。
「俺からもお願いがあるんだ」
「なぁに?」
「キスの前には、君を抱き締めたい・・・唇だけでなく、抱き締める腕の強さや身体の全てで、想いを伝えたいから。キスの前に触れるなとは、もう言わないでくれ」
「うん、ごめんね・・・もう言わない。静電気がちょっぴりパチッと痛くても我慢するよ。だって後からこんな温かくて素敵な場所が待っているんだもの。私と蓮くんの恋の火花で、パチパチくんをやっつけようね」
「では、また放課後に・・・」
そうだな、痛みを恐れていては幸せは掴めない・・・何事も。二人で乗り越えなくてはいけないな。
いってらしゃいと家から送り出す新婚夫婦のようだねと、窓から差し込む陽射しを背負った照れる君が言うから、余計に意識してしまう。目を細めるのは光りが眩しいから、そして君が愛しすぎるから。
ふわりと浮かんだ笑顔につられて瞳と頬を緩め、急かすような予鈴を聞きながら、どちらともなく唇を重ね合う。
柔らかい唇から聞こえた弾ける音は、心の中で恋の火が生まれた証。
温もりがだんだん熱さに変わるのは、伝えたい・・・求めたい、君への想いが深まるから。