近距離注意報




日当たりの良い屋上のベンチに香穂子と並んで座り、共に昼食を取りながら過ごす二人だけの時間。赤いギンガムチェックのランチョマットに包んだ小さな弁当箱に、ご馳走様でしたと笑顔で語りかける彼女を見つめる自分も、自然と同じように微笑が浮かんでしまう。苦手なグリンピースも俺ではなく君自身が食べたら、もっと弁当箱が喜んだだろうな。そう言うと弁当箱と同じように赤く頬を染め、蓮くんありがとう・・・と恥しそうに上目遣いで肩を竦めていた。

小さな一粒を君に手ずから食べさせてもらったのだから、俺こそ礼を述べなくてはいけないな。
幸せをありがとう・・・ご馳走様と。


「ねぇ蓮くん。音楽をもっと勉強しようと思って今ね、音楽史の本を借りて読んでいるの。でもちょっと分からないところがあるから、教えて欲しいんだけどいいかな?」
「あぁ、構わない。それなら俺も以前に図書館で借りたことがある。分からないところはどこだろうか」
「良かった、ありがとう! えっとね、ここ・・・このページだよ。真ん中の行の辺りなんだけど・・・」


手に持っていた小さい弁当箱をベンチの上に置くと、代りに楽譜と一緒に持ってきていた一冊の本を俺に差し出した。君も読んでみるといいと、そう言って薦めた音楽史の本だった事に嬉しさを感じて瞳を緩めると、本の後ろに隠れる香穂子にもはにかんだ微笑が浮かぶ。

隙間を埋めるように、いそいそと座る距離を詰めて身体を寄せると、ぴったり並んた二人の脚の上に本を広げる。本を覗き込もうと身を乗り出せば、寄り掛かる肩先に感じる小さな重み。触れ合う脚や制服越しに感じる温もりと柔らかさに、身じろぎたくなる熱いくすぐったさが込み上げてきた。

少しでも身じろげば、互いの膝に半分ずつ乗せた図書館の本が落ちてしまうし、すぐ横にある香穂子の頬へ唇が届いてしまいそうで・・・。どうかこの弾けそうな鼓動が君に伝わらないようにと、総動員した理性で沈めるしかない。



人にはそれぞれ心の平穏を保つ為の、パーソナルスペースというものがあるそうだ。相手がそのスペースに自然に入り込むことで警戒したり、あるいは深く意識をしたりするようになるらしい。一定の距離を越えて香穂子が近付くと急に鼓動が高鳴り出し、彼女の事でいっぱいになってしまう・・・そんなラインが俺にもある。

俺の境界線はちょうど手を伸ばした時に、君へ届く範囲だろうか。目の前にいる好きな相手が存在を直に伝えていれば、平静を装ってはいても、俺の理性に限界があるから適度な距離を保ちたいのに。自由な翼でふわりと舞い降り、いとも簡単にそのラインを超えて俺の懐へやってくるんだ。


仔猫のように擦り寄る二人きりの甘い雰囲気とは違い、素のままの君だから余計に戸惑ってしまう。
君と俺では、相手を意識し始める距離が違うのだろうか? 
それとも俺が意識しすぎなのか、君がこういった感覚を気にしないだけなのか・・・。



ずっと側にいたい想いが葛藤して揺れ動く心を知ってか知らずか、無邪気な君は無防備にスキンシップを試みる。
ふいに目の前に現れ大きな瞳で真っ直ぐ振り仰ぎ、触れ合うほどに近く懐へ寄り添い心の引き金を引いてしまう。
人前ではまだ照れ臭さが勝ってしまい、熱さが込み上げあまり恋人らしい行動を取れずにいるから、もっと触れて欲しいという君の声なのかも知れない。俺だって二人っきりになれば、そのまま腕の中へ閉じ込めてしまいたくなる・・・いや、閉じ込めてしまうけれど。

だが同時に微かな不安も胸に生まれ、立ち込める雨雲のように覆ってゆく。俺だけに・・・なら良いが、他のアンサンブルの仲間やクラスメイトなどにも、同じような行動をしているのではと、考えただけで心臓が握りつぶされてしまいそうだ。


香穂子の人差し指が本の活字を追えば、ぐっと近付く顔としなやかな髪が鼻先を掠め、爽やかな花の香りが鼻腔をくすぐる。ドクンと鼓動が跳ね上がる度に噴出した熱さが身体中を駆け巡り、早駆けするあまり浅く速く乱れる呼吸。身を乗り出す身体を支えようとして、俺の腕や脚を掴むから余計に火を噴出してしまいそうだ。

君が長く触れるほどに、俺の中で君の存在が大きくなる・・・甘い誘いに思えてしまうから。
彼女が本を見ている今のうちに、深く呼吸をして落ち着けなければ。


俺は自分でも止められないほど君の事でいっぱいなのに、伝え合う温もりや距離の近さは同じなのに、なぜ平気なのだろうか。いや・・・見えない心のメトロノームは、俺と同じようにアレグロを刻んでいるのかも知れない。熱さのせいなのか、語りかける声が砂糖菓子のように甘い霞を纏っているように遠く聞こえてくる。そう思いながら本のページを追う香穂子の指を優しく握り締めると、ぴくりと身体を震わす振動が伝わり我に返った。


「・・・っ、蓮くん!?」
「・・・あ、いや・・・すまない。少しぼうっとしてしまった、もう一度聞かせてもらえないだろうか?」


我に返り霞んだ脳内は透明に澄んだものの、握った指先を離すことが出来なかった。君のしなやかな手が俺の手の平に吸い付いてしまい、離れないんだ。焦りや動揺を悟られないよう必死な俺を、きょとんと不思議そうに見つめていたが、ふわりと笑みを浮かべ俺を陽だまりで包み込む。すると握られたままの指先ごと、繋いだ手のように楽しげに揺さぶり始めた。

君を求める想いが水槽から溢れ泉に変わった、だが小石を投げ入れ波紋を浮かべた君へ、大きな渦となり飲み込もうとしている。予想外の反応に、俺の方が目を見開き驚くしかない。


「蓮くん疲れているんじゃない? そういえばちょっと目がとろんとしているように思えるの。ひょっとしてお熱があるのかも・・・大変、すぐにお熱を測らなくちゃ!」
「いや、熱ではないと思う。心配させてすまない・・・」
「本当に平気? お昼を食べた後だし、今日の屋上は天気が良いから、ぽかぽかの陽だまりにまどろんじゃったのかな。私もね、お昼休みの後の授業はとっても眠くて我慢するのが大変なの」
「君が隣にいながら、すまないな。気をつけなければ」
「うぅん、無理しないでね。あ、もしも眠いなら昼休み間だけでも私の肩使う? それともお膝の方がいいかな? ちょっと目を瞑るだけでもスッキリすると思うの」
「・・・もう大丈夫だ、目は覚めたから」


俺の額を手で抑えながら心配そうに見つめる香穂子へ、安心してもらえるように微笑を注いだ。こうしている間にも触れている額へどんどん熱が集まっているから、風邪で熱が出たと言われても仕方が無いな。額からそっと剥がした手を両手で挟めば、彼女が持つ温もり以上の熱を感じる・・・半分は自分が生み出したものだ。


眠気に誘われてふわりと意識が浮上したのではなく、君を感じる熱さで蕩けそうになったのだが、心の中に秘めておこう。眉を寄せる君の方が苦しそうで、真っ直ぐ振り仰ぎながら大丈夫?と、俺だけを瞳に映し労わってくれるのが嬉しいから。本当は眠気ではないのだが、なぜか君はすっかりそう信じているから、ここは俺も合わせるべきだろう。
理由はどうあれ、彼女の気遣いが温かくて心が安らぐ。


香穂子の手を挟んだまま互いに見つめ合い、沈黙が包んだ一瞬に優しい風が吹き抜け火照りを覚ましてくれる。
あ!と声を上げた彼女は何かを思いついたのか、するりと手を抜き去ると制服のポケットから小さな箱を取り出した。手の平の中で握れるプラスチック製の小さな箱は、香穂子がいつも携帯しているミントタブレットだった。


「私ミントを持っているの、良かったら眠気覚ましにこれ食べてね。蓮くん、手を出してもらえる?」
「あ、あぁ・・・その、すまないな。では頂いてもいいだろうか」
「けっこう辛いから一粒で充分だと思うの。でもいっぱい出ちゃうから、この一粒だけってけっこう難しいんだよね。ちょっとの間じっとしててね」
「・・・・・・・・・・!」


差し出した俺の手の平を両手できゅっと掴み、離さないとばかりに両手でしっかり握り締めてくる。ふいに手を握り締められただけでも収まりかけた熱さが込み上げそうなのに、隣に並んだ君の胸の前まで引寄せられるから、微かに胸のふくらみが当たっている・・・気がする。気のせいに違いない、そうだそういう事にしておこう。


香穂子はミントタブレットのケースを少しずつ小刻みに振りながら、落とさないよう慎重に一粒をだそうと真剣だ。俺が気を散らせて少しでも動いたら、香穂子が頬を膨らませるのは目に見えているから。しかし随分苦戦しているな、燃え尽きそうな理性が残っているうちに、早く終わって欲しいのだが。




やがてころころと硬い小さな音が聞こえると、ほっと安堵の溜息を零した俺と同時に、香穂子からは悲痛な叫び声が上がった。一体どうしたんだ!? この世の終わりではいかと思えるほど、しゅんと悲しそうに肩を落とす顔を覗き込むと、俺の手の平に転がった白い二粒のミントタブレットを、切なげな溜息を吐きながら指先で転がしている。

恐らく一粒だけ出そうとしたのに、二粒も出てしまったから悲しんでいるのだろう。あんなにも真剣だったのだから、残念な君の気持は良く分かる。だが・・・その、手の平がくすぐったいのだと、気づいてもらえないだろうか?


「香穂子、何があったんだ?」
「一粒だけを出そうとしたのに二粒も出ちゃったよ・・・頑張ったのに。これはね、ゴルフで小さな穴に最後のボールを入れるのと同じ緊張感があると思うの。この子を小さな穴から、箱のお家へまた戻さなくちゃ。蓮くん二粒もいらないよね、じゃぁせっかくだから私が食べようかな」
「香穂子?」


俺の手を握り締めたまま、手の平に乗った白いミントタブレットの一粒を摘み、愛らしく熟れた唇へと運んでゆく。指先を食べているのか、ミントの粒を食べているのか分からないくらい小さいけれど、心地良い爽快感が吹きぬけた事を緩む頬が教えてくれた。摘んだ親指と人差し指を唇に含む姿が、すぐ目の前で甘える仕草に思えて、言葉にならないほど愛らしい。

香穂子が携帯しているミントタブレットは、恐らく午後の眠気覚ましに使用しているのだろう。俺も彼女から貰って何度か食べたことがかなり強めの味だったのを覚えている。あの一粒を食べたら蕩けそうな火照りは、ミントの爽快感で覚めるだろうか・・・もっと熱くなってしまうだろうか。眠さではなかったのだと、正直に話しておけば良かったと心の中で後悔する自分がいる。


先程唇に含んだ指先で、手の平に残ったもう一粒を摘むと、身を乗り出しながら俺の口元へと運んできた。
嬉しくもあり少し困った予想通りに、俺が食べるのは君が摘んでいるあの小さな粒らしい。
あ〜んして?と言いながら迫る指ごと・・・いや、鼻先が掠めるほど近付くにある君の唇ごと、このままでは食べてしまうだろう。耐えて強く握り締める方の手の平と背筋に、薄っすらと滲む汗を感じる。


「蓮くん、はいあ〜んして?」


楽しそうな香穂子の指先が、俺の唇に触れるまであと僅か。
咄嗟に周囲を見渡せば、屋上にいるのは俺たち二人だけ。ならば良いだろうか・・・すまない、もう限界だ。


「香穂子・・・」
「ん? どうしたの・・・って、きゃっ!」


差し伸べられた手を掴み、自分の口元へと引寄せた。白い小さなミントタブレットは指先に挟まれ、微かな色しかその存在を確認できなくて。摘む指先ごとしっとり舌で包み、大切に愛撫をするように唇へと含んでゆく。動きが固まった指の隙間から、舌先でミントのタブレットをすくい出せば、引き締まる辛さの中に優しい甘さがシュガーのように広がってゆく。きっと君の指先の味なのだろう、目が覚めるどころか更に蕩けてしまうな。

真っ赤に火を噴き、ゆでだこに染まった顔で口に含まれた指先と俺の瞳を、くるくる交互に見つめ瞳を潤ませる。名残惜しさを感じながら含んだ指先をゆっくり離すと、恥しさに固まる香穂子の背をそっと包み、腕の中へ抱き寄せた。


「れ、蓮くん・・・あの・・・えっと・・・」
「香穂子、少しの間でいいから、じっとしていてくれないか? すぐ傍で深く意識しながらずっと耐えていたんだ、このまま君を感じさせて欲しい」
「うん・・・でもね、恥しくてじっとしているのが凄く難しいよ・・・どうしよう。それにね、蓮くんがこんなに近かったんだって、今やっと気づいたの」


赤く染まった顔を隠すように俯くと、俺の制服のジャケットを掴み、胸元へポスンと埋めてしまう。 一定の距離を越えて近付くと急に鼓動が高鳴り出し、深く意識をし始める境界線・・・パーソナルスペース。俺の境界線はちょうど手を伸ばした時に、君を抱き締められる範囲だが、香穂子のパーソナルスペースは腕の中に抱き締められた近さだったのか。人懐こい香穂子だから、近くにいても警戒しなかったのだろうか? いや違う。


自分から相手の中へ入り込むときには、感じにくいのかもしれない。その証に、さっきまで熱さで壊れてしまいそうだった俺の鼓動は、すっかり穏やかに収まっている。君への愛しさは、溢れるほど心の泉へ湛えたままで。


ピンク色に頬を染めた君の鼓動を感じる、幸せなひと時。今度は俺が君の境界線を越える番。
彼女の中に俺がいる・・・意識してくれている喜びに、一人では無い事を気付かせてくれた。こうして互いを満たし合いながら、いつしか二人という境界線は溶け合ってゆくのだろう。