気になるキャッチフレーズ



桃色、桃の果実、桃の花・・・桃という言葉には、優しく甘い感情を思えるのはなぜだろう。きっと香穂子の色だからかもしれないな。春を運ぶ桃の花は香穂子の微笑みのようだし、照れてはにかむ顔も桃色だから、幸せな気持になるのだろう。ほんのり赤みがかった白色の薄い皮に包まれた桃は、少しでも力を込めると跡が付いてしまうデリケートな果実。皮の内側に溢れる水分と柔らかい果肉は、少しでも強く吸い付くと消えない跡を残す、君の素肌にも似ている。

加えて言うのならば今の俺の心も、君という甘い果実を秘めた桃に違いない。香穂子の手にばかり視線が行き、なぜか脳裏に浮かんだ桃が頭から離れないのは、鼻腔を優しくくすぐるピンク色をした桃の香りのせいだと思う。ヴァイオリンの練習を終え楽器の手入れも済ませた香穂子が、鞄からハンドクリームを取り出し自分の手も手入れを始めたんだ。


可愛らしいものが大好きな香穂子の心を奪ったハンドクリームは、ハートと花模様がプリントされた、ピンク色のパッケージ。透明ピンクなジェル状になっている中身を両手の甲に少量つけると、手の平ですり込みしっかり馴染ませてゆく。指も一本一本包み込み、丁寧に先端まで塗り込み終われば、潤いを閉じ込めた感触を確かめたり、鼻先を寄せて香りを楽しんだり。良い具合に仕上がった満足感を笑顔に変え、嬉しそうに頬を緩めていた。


「ん〜しっとりすべすべだね、桃のお肌になったみたい! ねぇ蓮くん、触ってみて?」
「は!? いや、その・・・」


ご機嫌な気分がそうさせるのか、普段は恥ずかしがるのに、今日はやけに積極的なんだな。触って?と嬉しそうに瞳を煌めかせ、身を乗り出しながら差し出す両手に俺の方が戸惑い、心も頬も桃色に染まってしまう。だが君の許しが出たとはいえ、触るというのはどの辺りまでを言うのだろうか。いや、こうして悩んでいても仕方がないな。お許しが出たのなら遠慮無く、求めるままに君の手を包み込み、しっかりと握り締めさせてもらおう。

逸る想いを理性で押さえるぎりぎりの緊張感を保ちながら、そっと包み込んだ香穂子の手は、冬の乾燥とは無縁にしっとり柔らかく潤いを閉じ込めていた。甘く鼻腔をくすぐる桃の香りが媚薬となり、身体の奥から俺を熱くする・・・。




------食べたくなる、桃の素肌へ-------


彼女が最近お気に入りのこれを見る度に、熱く鼓動が高鳴ってしまうのは、タイトルよりも大きく主張されたキャッチフレーズが、俺の理性を揺さぶってくるからだ。 いや・・・君の事がもっと知りたくて、隠された言葉の奥深い意味まで勝手に解釈してしまう。一体どういう意味なのか・・・俺に食べて欲しいのか、そうならば喜んで君という果実を食べるのに。


些細な事でも指先が痛めば、演奏に影響が出てしまう。演奏に必要な手を大切にするのも、ヴァイオリニストの勤めだから別に珍しくもないし、良いことだと思う。それなのに、クリームを染み込ませようとして、くるくるひらひらと目の前で動く、悪戯な蝶のような君の手から目が離せない。私を捕まえて早く食べてねと、無邪気に誘う声に聞こえてしまうなんて、 君への恋心は沸騰寸前だ。


「香穂子の手は柔らかいな、確かに桃の果実のようだ。このまま食べたくなってしまう」
「蓮くんにそう言ってもらえて嬉しいな。このクリームはね、さらさらのジェルだから塗ってもべたつかないし、すぐ仕事や演奏ができるの。潤い成分をぎゅーっと抱えたぷるぷるジェルが、みるみる馴染んでくれるんだよ」
「表面はさらっとしているのに、握り締めた感触は、しっとり潤うんだな。香りも心地良くて、俺は好きだ」
「ヴァイオリンを弾く大切な手だから、大事にしたいの。それにね、蓮くんと繋ぐ手でしょう? 大好きな人とずっと触れ合っていられる場所だから、いつでも綺麗にしたいし、気持ち良さを感じてもらいたいなって思うの」


確か少し前まではマリンブルーの香りがする、青く透き通ったハンドクリームを使っていたはずなのに、最近は違う種類なんだな。男の俺には良く分からないが、自分にぴったり合う一品に出会えたのだろう。包み込んだ手を引き寄せ、鼻先を近づけると、体温によって高まる甘い桃の香りがふわりと立ち上った。潤う柔らかな果実の手が美味しそうに思えて、愛しくて・・・そっと唇を重ねキスをすれば、驚きに目を見開く香穂子の顔がみるまに赤く染まってゆく。

デリケートな桃の皮は少しでも力を込めると跡が残るけれど、吸い付く度に赤い花が咲く君の素肌も同じだな。
桃色に染まる微笑みと手から感じる温もりが、心に幸せの火を灯す。大好きな人に触れている・・・手を握り締めている事は、なぜこんなにも胸が高鳴るのだろう。君も同じように感じていたら、嬉しい。


「良い香りがするな。香穂子、ハンドクリームを新しく変えたのか? 以前は青く透明なものを使っていただろう?」
「あ! 蓮くん気付いてくれた? このハンドクリームはね、恋する桃色吐息シリーズの新商品なんだけど、可愛くてとてもしっとりするって評判なんだよ。しかも恋のおまじないにも効くんだって。なんかね、恋人同士だと手を繋ぎたくなるらしいの。この間友達に分けてもらったら、すごく利き目があったから私も買っちゃった」
「桃色吐息・・・最近テレビでよく見かけるな。香穂子がお気に入りのシャンプーも、そのシリーズだろう? 君の髪と同じ香りがする」
「実はね、ボディーシャンプーもお揃いで買ったんだよ。ぷるぷるで瑞々しい、桃の肌になりたいなって思うの」


頬を真っ赤に染めながら上目遣いで見つめる君が、内緒話をするようにちょこんと背伸びをしながら身を寄せてくる。蓮くんは桃が好きかな?と、敏感な耳朶に共に吹き込まれた吐息と言葉は、鼓動を弾けさせるには充分で。誰のために桃になりたいと願っているのかが分かってしまったから、溢れる熱さが身体中を駆け巡り、やがて顔へと集中してゆく。 

そうか・・・桃になりたかったのは、俺のためだったんだな。確か友人から少し分けてもらったのだと、香穂子が先日初めて桃の香りのハンドクリームを試したときに、しっとり潤った手をずっと握り締めて離さなかったのは俺だったな。きっとボディーシャンプーの素肌を直接肌と肌で確かめたら、閉じ込めた腕の中から離すことなど、出来ないかも知れないな。蜜を余す事無く吸い尽くし、隅々まで唇を寄せて食べてしまうだろうから。


「桃・・・か、俺は好きだ。時に君という桃が一番甘いから、いつでも食べたいと思うんだ。いや、もう食べているのかもしれないな、すまない。君の手に口づけたときに、キスした唇の跡が少し残ってしまったらしい」
「あ・・・本当だ。ね? このハンドクリームを使うと手を繋ぎたくなるでしょう? ふふっ、だって今こうして蓮くんが私の手を握り締めてくれているもの。それにね、ハンドクリームを塗った後に手袋をすると、しっとり効果が倍増するんだよ。蓮くんが包んでくれているから、手と心に恋するしっとり潤いがぎゅっと閉じ込められるのが分かるの。ありがとう、蓮くん」
「冬は乾燥するから俺も君のように、もっと手を労らなくてはいけないな。ヴァイオリンを弾くだけでなく、君と手を繋いだり抱きしめたり、もっと深いところまで触れ合うために」
「蓮くん・・・・・」


じっと見つめる視線に気付いた香穂子がそわそわと身動ぎだし、握り締めた手からするりと抜け出してしまった。だが時には電波が上手く届かないときもあるらしい。蓮くんもつけてみる?と、愛らしく小首を傾げながら桃のハンドクリームを差し出されたけれど、桃の香りは男の俺には照れ臭いから遠慮しておこうか。真っ直ぐ向けられる眼差しや触れる温もり、もっと俺を潤わしてくれるものが俺の目の前にいる・・・この手の中にいるから。 


「桃になった蓮くんを私も食べたかったのにな、残念。だって蓮くんってば、いつも美味しそうに私を食べるんだもの。キスするというよりも、チュッと吸い付いて食べる感じだからドキドキするんだよ。じゃぁ私が前に使っていた、マリンブルーの青いハンドクリームはどうかな? 爽やかな香りだから男の人でも平気だと思うの」
「それならありがたい。以前君に少しもらったときに、とても良かったからどこで手に入るのかを聞こうと思っていたんだ」
「私のは使いかけだから、今度新しい物を蓮くんにプレゼントしてあげるね。あ!蓮くんの指先がささくれているよ。ヴァイオリンに影響が出たら大変! お手入れは早めが肝心なの。今は桃の香りだけど許してね、手を出してもらえる?」
「こうか?」
「うん、動かないでじっとしていてね」
「・・・・・っ!」


真っ直ぐ俺を映した大きな瞳が微笑むと、持っていたハンドクリームがほんの少量、俺の手の甲に両方乗せられた。ありがとうと礼を述べて、自分で塗り込むべく引き戻そうとしたが、そこで終わらず手を握り締められてしまう。目を見開く俺の鼓動が熱く弾けてしまったのは、にっこりと笑みを浮かべる香穂子の指先が丁寧に俺の手を撫でながら、隅々までクリームをすり込み始めたからだ。熱い顔をふいと逸らすのが精一杯で、触れる指先の感覚が鼓動をを高鳴らせ、切れそうな理性の綱を焼き切ろうとしていた。


「香穂子、その・・・自分でやるから」
「いいからいいから私に任せて、蓮くんの手は私にとっても大切な宝物なんだもの。それにね、蓮くんがこのハンドクリームを着けたら、手を繋ぎたくなったり食べたい気持になるのかを、一度試してみたかったんだもの。ふふっ、ほら見て? しっとりすべすべな桃みたく、とっても美味しそうになったよ。中身はきっと、甘い恋の果汁が一杯詰まっているよね」


くすぐったい悪戯な指先が、ひらひらと舞飛ぶ蝶のように動き回り、指先までしっかり包み込んで・・・その。普通は自分で塗るものだと思うのだが? 喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは、手の平に感じた柔らかな熱さが鼓動も呼吸も、一瞬時を止めたから。俺の手に頬を寄せながら、美味しそうだねとキスをする君は、なぜこんなにも可愛いのだろう。


桃になりたいと願うのは、パッケージの可愛らしさや、手を潤わせたい気持だけでなく、俺が食べて良いのだと・・・そう信じても良いのだろうか・・・うぬぼれても、いいだろうか。だが答えを求めるのを待てずに、君を抱きしめてしまったのは許して欲しい。欲しいのは、ハンドクリームよりも桃になった君の素肌。

パステルピンクのシフォンワンピースという薄皮を丁寧に剥ぎ去り、内側にある桃の素肌へ触れたいのだと、恋しさが募ってしまうんだ。しっとり潤うその柔らかさを、俺にも確かめさせてくれないか?