君の横顔



水族館で孵化したペンギンの赤ちゃんが期間限定でお披露目されるのだと、香穂子が話していたのは数日前だった。ちっちゃくて可愛かった、ほわほわして縫いぐるみみたいだった、蓮くんは水族館が好きだよねと・・・。一緒に登校しながら興奮気味に、降り注ぐ朝日よりも眩しい笑顔で、身振り手振り感動を伝えてくる。言葉のカプセルが次から次へポンと弾ける度に、俺の心は一歩また一歩と海へ近づくんだ。香穂子が喜びそうだと思いながら俺も同じニュースをテレビで見ていたから、俺の中に君がいて、君の中に俺がいる・・・そんな嬉しさを感じていた。

次の休みに行こうと約束をしたら、イルカにも会おうねと頬を綻ばせ、足取り軽やかに駆け出してゆく。
少し先で立ち止まり、くるりと悪戯に振り向く君は、風の中を泳ぐ俺だけの鮮やかな熱帯魚。
イルカやペンギンよりも喜ぶ君の笑顔が見たいと思ったのは、心に秘めておこうか。




水の中の世界は、日常の騒がしさや慌ただしさとは無縁で、どんな時も変わらずゆったりとした空間が満ち溢れている。水族館のエントランスを潜って最初に出迎えるのは、吹き抜けの天井まで届く円形の大きな水槽。いっぱいに群れをなし、流れるように回遊する魚たちは、きっと人間の世界から来た俺たちに魔法をかけているのかもしれない。水の中にいるのは魚たちだけでなく、君と俺もなのだと・・・そう思えてくるから不思議だ。
青の煌めきや、ゆらりゆらりとマイペースに動く彼らを眺めていると、焦りや急ぐことを忘れてしまう。


ラグーンに咲き乱れる色とりどりの珊瑚を花に例えた香穂子は、目に映る物全てにくるくる表情を変えながら頬を綻ばせている。赤い珊瑚は君の頬のようだなと、横顔を見つめながらそう言うと、見上げた視線が絡まり、瞬く間に頬が赤く染まってゆく・・・どの赤いサンゴにも負けないくらいに。俺の心の中にある珊瑚礁も鮮やかな色となって映るのは、君と一緒に過ごす休日が、楽しいとそう思うからなのかも知れないな。


香穂子の仕草や表情から、一瞬も目が離せない・・・。
海の穏やかさに包まれながら生き物たちを眺める、水族館は好きな場所の一つだが、いつしかすっかり目的は変わっていた。ここではどんな表情を見せてくれるのだろうか、何を感じてくれるのだろうかと、気づけば君の横顔ばかりを見つめている。


お腹を上にして水面に浮かぶラッコに目を輝かせ、軽く握った両拳でコンコンと胸を叩き、貝を割る仕草を真似する仕草が可愛らしい。そこまでは良かったのだが、この魚が正面を向いて挨拶をするまではと、長い間ぴったり水槽へ張り付いたり。灰色の産毛に包まれた赤ちゃんペンギンに喜び、親ペンギンの後にくっつくあの子がこちら側に来るまで待つのだと。あちらこちらでじっと動かない君の隣で、時には多くの辛抱強さも必要だった・・・と思う。

待つのが嫌なのではない。穏やかさをもたらしてくれる筈の海が・・・君が、何故か心をざわめかせるんだ。
望んでいた笑顔が目の前にあるのに、何かが足りないと感じていた。


こちらを向いて欲しい・・・。


香穂子が魚たちに注ぐ好奇心のように、俺も君だけを見つめながら心の中で呼びかける。

君が魚たちに夢中になっているからなんだと気がついたのは、こちらを向いて欲しいと願う言葉がすっと生まれたからだ。いつもは真っ直ぐ向けられる笑顔が、ずっと水の中にいる生き物たちに注がれ、彼女の視線と興味を独り占めしている。水族館は好きな場所なのに、こんな感覚は初めてだ。はしゃぐ君の傍らで黙り込み、初めて感じるもどかしさに眉を潜めていると、心配そうに見上げて気遣う優しさが心に染み渡る。


海の世界へ足を踏み入れてから、君の横顔しか見ていない。それは単なる俺の独占欲でしかないのに。
違うんだ、すまない・・・君のせいじゃないんだ。


苦笑をする俺の隣では、香穂子がしゃがみこんで水槽の底に潜む生き物をじっと見つめている。だが何かを見つけたらしく興奮気味に俺の名前を呼ぶと、裾を勢い良く引っ張ってくる。つられて膝を折り、身を屈めて同じ目線に揃えるだけで、俺の目に映る物が・・・世界が違って見えた。


「・・・・・・・・!」


視界が揺らぎ、突然ひらけた目の前の世界。溢れる青い水と透明な気泡、小さな生き物たちと君の呼吸。
同じ物を見ていても、お互いに見る景色や感じる思いが違っていたんだな。
これが君が見る景色であり感じた想い・・・世界が広がるというのは、こうした感覚なのかと思う。

自然と瞳や頬が緩む俺の顔が、水の鏡に映って見える。ね?と小首を傾け、嬉しそうに頬を綻ばせる笑顔も隣に並んで。ガラスから視線を反らし互いに見つめ合えば、確かな微笑みが海の色のように深さを増していった。





「香穂子、聞こえるか?」
「うん、イルカの音楽が聞こえるよ。楽しくて、私の心もポーンと高く飛び跳ねたくなちゃうの。ねぇ、蓮くんもやってみようよ」
「俺も・・・!?」


白イルカの水槽の前で立ち止まり、目を閉じ両手を耳に当てているのは、彼らの歌を聴いているのだろう。
嬉しそうに期待を込めて振り仰ぐ、無邪気で純真な眼差しに戸惑いつつも周囲を見渡し、邪魔にならないことを確認して瞳を閉じた。海のように広い水槽を軽快に泳ぐイルカたちの姿が、閉じた瞼の裏に浮かび上がる。青い光と波の音、優しい音色が聞こえてくるようだ。


「ねっねっ、蓮くんにも聞こえた?」
「あぁ、聞こえた。俺たちが音楽で心を通わせ合えるように、彼らともヴァイオリンで会話が出来たらいいな」
「イルカさんたちと、私たちで合奏が出来たら素敵だね。ふふっ、蓮くんが元気になって良かった。途中でむすっと黙り込んじゃったから心配だったの。具合悪いのかな、私何か怒らせちゃったかなって」
「その・・・すまなかった、もう平気だから。香穂子にも笑顔が戻って良かったと、俺も安心していたんだ」
「せっかくデジカメ用意してくれたのに、無駄になっちゃったね・・・蓮くんごめんね。ペンギンの赤ちゃんを抱っこして写真が撮りたいって、言ってたのは私なのに。もっと早起きすれば良かった。ほわほわしてちっちゃくて、遠くから見ても可愛かったから余計に残念だよ」
「一緒に写真が撮れるのは一日10組なのだから仕方ないな、辿り着くまで随分時間を使ったし。だが無駄ではないと俺は思う。香穂子と一緒に過ごして楽しかったし、こうして海の中にいる君の写真が撮れるから、俺は嬉しい」


しょんぼり肩を落として水槽のガラスに張り付く香穂子に呼びかけると、デジカメを構えた俺に気づき、突然のシャッターにはにかみつつ微笑みを浮かべた。泳いでいた白イルカが香穂子へ近づき、ガラス越しに頬へキスをしているように見える・・・このチャンスを逃す訳にはいかない。フラッシュをたかなければ、館内の撮影は自由にしても良いのがこの水族館の魅力でもある。特に天井や左右の壁をも覆う水のトンネルの中では、どこを見ても興味津々なイルカが寄ってくるのだ。

構えたファインダーの中は別世界、コバルトブルーに満たされた海の底。シャッターを押し、自然と浮かぶ笑みのまま歩み寄り、取ったばかりの画像を見せると、彼女の沈んでいた表情にも鮮やかな花が咲いた。

それは青い海の中で香穂子の頬にそっとキスをする、優しいイルカの写真。


「うわ〜可愛いね、イルカさんが私にチュウしてる。蓮くん凄〜い、私が水の中にいるみたいだよ。ねっねっ、デジカメ私に貸して? 今度は蓮くんもやってみようよ!」
「・・・・いや、俺は・・・・・・」


恥ずかしいから、そう言う間もなくカメラを奪われ嬉しそうに駆け出してしまう。カメラを構えイルカが俺の元へ来るのを、今かまだかと待ち構えながらわくわくしている君に熱さが募り、ふいと視線を反らしてしまった。香穂子の写真を撮るのは好きだが、撮られるのはどうも照れ臭くて落ち着かないのは何故だろう。そう思いながら水槽に向かい合った時に、目の前に大きく映ったのはイルカが正面を向いた顔。驚きに目を見開いた瞬間に、喜びの声を上げた香穂子が嬉しそうに駆け戻ってきた。


「見てみて〜取れたよ、イルカさんとキッスな蓮くん。ベストショットなの!」
「・・・・・・っ」
「そうだ、今度は二人一緒にイルカさんにチュウをしてもらおうよ」
「えっ・・・その、香穂子!」


静かな館内で興奮の声を潜めつつ、肩先に甘えるように寄りかかりながら差し出されたデジカメには、確かにイルカとキスをする俺の写真があった。香穂子は頬だったが、うっかり正面を見てしまった俺は、唇と唇に。もとは自分が思いついたとはいえ顔から火が出そうだが、君が喜んでくれたならそれで良いかと思えてしまう。だが今度は二人一緒にキスをしてもらうねと、ガラスに向かい合いながら、ぴったり俺に頬をくっつけてきた。


「イルカさん〜こっちへ来てね。蓮くんと二人分だから、いっぱい来てくれると嬉しいな」


こっちへ来てと楽しげにイルカへ呼びかける、香穂子触れる頬の柔らかさや、かかる吐息が甘くてくすぐったい。
自分たちを撮るために、ディスプレイを確認しながら手を伸ばす君も辛い体勢なのだと、そう思えば迫り来るイルカの群れの前で動くことも出来ずにいる。彼女の甘い香りに誘われるのは、どうやらイルカも同じらしい。


イルカではなく、俺は君と二人でキスがしたい・・・。
普段は好きなイルカに対して、こんな時ばかりライバル心を燃やしてしまうのは、やはり君の方が大好きだから。
頬を押しつけ、撮るよと声を潜めたのを合図に顎を捕らえ、覆い被さるように素早く唇へキスを重ねた。


「・・・・・・んっ」


柔らかい甘さに蕩けた直後に鳴った、デジカメの微かなシャッター音。ゆっくり唇を離すと、呆然と立ちすくむ香穂子に微笑みかけながら、手の中に収まるカメラを抜き取った。緩めた微笑みのままそっと肩を抱き寄せ、確認した画像を目の前に差し出せば、どんな珊瑚よりも真っ赤に染まってゆく。

二人の手の中に映っていたのは、ガラス越しのイルカたちに見守られながら、青い海の中でキスを交わす君と俺。
いや、君に口付けようとするガラス越しのイルカたちに、俺のものだと先手を打ったように見えるだろうか。


水の中は心地良くて温かい・・・繋ぐ手の温もりや鼓動を感じながら、俺は君という穏やかな海に包まれるんだ。
だから俺たちも二匹の魚となって、ゆったりと海の世界を戯れよう。
歌うイルカのように・・・そして珊瑚礁の影で啄み合う、色鮮やかな魚たちのように。






151515のキリ番を踏んで下さった友香さんに頂いたリクエストは、水族館デートでした。頂いてからUPまで随分とお時間を頂いてしまい、すみませんでした(汗)。水族館っていつもカップルで賑わっている感じがします、デートスポットですよねv 短いもので恐縮ですが、捧げさせて頂きます。素敵なリクエストをありがとうございました!