君の肩にもたれて

空港から急いで走らせたタクシーが、風のように静けさと暗闇に沈む住宅街を通り抜けてゆく。

国外でのコンサートを終えて、二週間ぶりに家へ帰った頃には、既に深夜の0時を回っていた。料金とチップを支払い礼を述べ、ヴァイオリンケースや鞄をピックアップして車から降りれば、頬を引き締める夜の澄んだ冷気が包み、まどろみかけた意識を覚ましてくれる。

すぐにでも香穂子に会いたい逸る気持を抑えきれず、黒いアイアン製の門を開け放ち、足早に前庭を抜けて玄関扉へ辿り着く。勢いのまま呼び鈴を押そうとしたが、慌てて思いとどまった。



---------遅くなってしまうから先に休んでいてくれ。


数時間前にそう電話で香穂子に伝えたから、もう寝ているかも知れない。
電話越しの声は明るい元気さを装っていたが、膨らんだ期待の風船がしゅんと萎むような、彼女の込み上げる寂しさが伝わってきた。俺を気遣い必死に隠そうとしている健気さが伝わるだけに、胸が苦しく締め付けられる。
俺も早く君に会いたい・・・そしてこの腕の中に抱き締めたいから。


出発する日に玄関先で見送る香穂子から、帰った日の夕食をどうするかと言われ「家で食べる・・・君と一緒に」そう伝えると、嬉しそうに笑みを咲かせて俺に飛びつき、キスをしてくれた。

「疲れが吹き飛ぶ、美味しい料理を作って待ってるね、いってらっしゃい」と、それなのに。
予定ではもっと早く帰れる予定だったが、挨拶が長引いたり途中の乗り継ぎ空港でトラブルがあったりと・・・早く帰りたい時に限って上手くいかないものだ。


玄関扉の隙間からひょいと顔を覗かせる、愛らしい笑顔に会えないのは残念だが・・・久しぶりに会えるんだ。
今は彼女の寝顔だけでも、充分すぎるほど幸せだと思わなければ。
笑みを浮かべる無邪気な寝顔を思い出すと心だけでなく、口元や頬が自然に綻んでしまうのを感じる。

自嘲気味の溜息を漏らしつつ伸ばしていた指先をそっと引き戻すと、ポケットから玄関の鍵を取り出した。
大きな音を立てないように注意深くロックを外し、ゆっくり扉を押し開いた。




真っ暗な闇に包まれていると思ったリビングは、静かだけれどいつもと変わらない生活の音が聞こえる程良い空調と、煌々とした明るさに満ち溢れていた。ヴァイオリンケースと鞄を床に置いてテーブルに歩み寄れば、俺と香穂子・・・二人分の夕食がまだ手をつけられていない状態で並んでいる。
いつもより品数も多く、彼女が言っていたように腕を振るった手料理の数々が。


先に休んでいてくれと言ったのに、ひょっとして香穂子は夕食を先に取らず俺を待っていてくれたのか!?


料理を前に佇み驚きに目を見開いていると、静けさの中に漂うのは夕食の香りだけでなく、すぐ側から聞こえる安らかな寝息と大切な人の気配。香穂子だ・・・・そう思って部屋を見渡すと視界に映った赤い髪の影、テーブルから少し離れた窓辺のソファーに彼女はいた。

ソファーの上に膝を折ってペタリと座り込み、背もたれのクッションを抱き締めたまま屈むように丸くなっている。
二つ置かれたクッションのうち、いつも俺が使う方を腕の中へしっかり抱き締めて、温もりを感じ取ろうとするように頬を寄せていた。傍らに読みかけらしい音楽の本が開いたままになっているから、待っている途中で眠くなったのかも知れないな。


無理をするなという言葉も、確かに俺の願いだ。
だがこうして待っていてくれる事がどれだけ嬉しいか、君には分かるだろうか。
前後左右に揺れながら眠りの船を漕いでいる香穂子に、愛しさを感じずにはいられなくて、心に満ち溢れる温かさが見つめる瞳と頬を緩ませてゆく。


声をかけようと思ったが、あまりにも心地良さそうだから起こすのに忍びない。このまま、そっとしておこう。
君の手料理を見たら空腹だったと事を急に思い出したけど、せっかく待っていてくれたんだ。
俺も君と一緒に語り合いながら食べたいから、例え目覚めるのが朝になったとしても待っているよ。

伸ばした手は頬を包み膝を折って屈みこむと、目線の高さに合わせて暫く寝顔を眺め、甘い吐息で囁いた。


-------ただいま・・・香穂子、と。


開いたままの本に金色のブックマークを挟みテーブルへ乗せると、スプリングの振動で起こさないように気を配りながら、うたた寝をしている香穂子の隣へそっと静かに腰を下ろした。ふわふわと揺れ動く頭を捕らえて肩を抱き、背を支えながら少しずつ身体を倒し俺の膝の上に横たえた。

ここに本物の俺がいるから、もうクッションは必要ないだろう?
指を一本一本丁寧にはがしつつ、ぎゅっと抱き締めたクッションを剥がし取れば、代わりの温もりを求めるようにころりと寝返りをうつ。上着の裾を掴むようにきゅっと腰にしがみ付き、甘えるように擦り寄って。


「う・・・ん・・・・」
「香穂子、起きたか?」
「・・・すぅ〜・・・・・・・」


小さく欠伸をかみ殺したが、むにゃむにゃと何やら呟くと、再び眠りの海を漂ってしまう。
眺めている俺の方が幸せになる笑みを浮かべ、どんな夢をみているのだろう・・・それとも俺だと分かるのか。
小さな重みを受け止める枕代わりの脚から感じる温かさとくすぐったさが、心へも広がり想いを震わせてゆく。
君が夢の中でも「お帰りなさい」と言ってくれているようで、嬉しくなってしまうんだ。


だがこのままでは風邪を引いてしまう。何か毛布の代わりになるものはと探したものの、身動きが取れないことに改めて気付いた。ならば・・・毛布の代りになら無いかもしれないが、せめてこれだけはと。身体を動かさないように来ていたスーツのジャケットを脱ぐと、膝の上に横たわる香穂子の背を覆うように掛けた。

襟元のネクタイを寛げると、丸くなった子猫の毛並みを整えるように優しく、赤く柔らかな髪に指先を絡めてゆっくり撫で梳いてゆく。香穂子に髪を撫でてもらうと気持ち良いから、きっと君も同じなのだと思うから。
重なり合う俺と君の、穏やかな呼吸と同じ速さで・・・。じんわり広がる君の温かさを、俺からも伝えるようにと。





空へ軽く舞い上がるように、ふわりと意識が浮上した。
眠る香穂子を膝に横たえていたら温かくなり・・・体の力がすっと抜けて俺までまどろんで・・・。
ほんの一瞬瞬きをしたはずだったのに、どうやら眠ってしまったらしい。

今は何時だろうか・・・それに香穂子は・・・。


まだぼんやりと霞がかた意識の中で、まとまらない考えをあれこれ浮かべつつ、額にかかった前髪を掻き揚げようと腕を伸ばす。しかし違和感に気が付き、思考も動きも額に手を当てたままピタリと止まった。

傾く自分の頭が柔らかい何かに支えられていた事。そして寝ている香穂子に掛けていたはずのジャケットが、毛布のように前から覆い被せて何故か自分にかかっていたからだった。それだけではなく、膝に乗せていた小さな重みが今は無い。いや・・・膝には無いのだが、代りに肩先から脚まで感じる柔らかい温もりが、俺を包み込んでくれていた。

頬と瞳を緩めて預けていた頭を起こし、そのまま隣を振り仰ぐと、おはよう?と耳にすっと溶け込む優しい声と微笑む視線で問う香穂子がいた。俺の隣に寄り添い座り、寒く無いように同じジャケットの中へ一緒に包まって。まどろみながら感じていた心地良さ、見守るつもりが逆に眠ってしまった俺を支えてくれていた肩は、君だったんだな。


もぞもぞと彼女が身じろぐと耳元に甘い吐息が吹き込まれ、頬に柔らかな口付けが降って来る。
ずっと待っていた、香穂子からのお帰りなさいのキスだ。


「蓮、おかえりなさい。お仕事お疲れ様、玄関でお迎えしようと思ってたのに、寝ちゃっててごめんね」
「ただいま、香穂子。俺こそ早く帰ると言ったのに遅くなってすまなかった・・・無理しなくていいから。いつのまにか、起きていたんだな」
「さっき目が覚めたの。そしたら私ってばいつのまにか蓮のお膝で寝ているし、蓮も寝ているしでビックリしちゃった。暫く膝の上で眺めてたんだけどね、カクンカクンって頭が揺れるたびに唇が降って来そうで楽しかったよ。でもね、二人の額がコツンってぶつかりそうだったし、この方がゆっくり休んでもらえるかなって思ったの」


自分も同じだった事には気付かずに、香穂子は俺を見上げてくすくすと楽しそうに笑う。その振動が触れ合った肌から伝わり、くすぐったさに照れ臭くなってしまう。そんなに可笑しかっただろうかと、熱くなる頬を感じながら言えば小さく首を横に振り、可笑しいんじゃなくて可愛かったよと。俺にとってはどちらもあまり変わらない答えをさらりと言ってのけ、無邪気に笑みを綻ばせた彼女がに肩先へ甘えるように擦り寄ってきた。

ジャケットが覆い被さっているから、もぞもぞと中で身動ぎする様子しか見えない。だがそんな些細な仕草の数々が心を弾ませ愛しさを募らせるから、俺も君に気付かれないように手を重ね、そっと肩を抱き寄せた。
ジャケットの下で触れ合う温もりと、互いの瞳に浮かぶ幸せそうな笑みに、互いの心は更に寄り添って。
ずり落ちそうになる肩先を引き上げると、身体を寄せる香穂子を抱き締めるように包み込む。


「香穂子のお陰でとても温かく、心地が良かった・・・ありがとう。先に休んでいると思ったのに、ずっと待っていてくれたんだな。上手く言えないが・・・その、やっと君のところへ返って来たんだと、嬉しかった」
「お腹減ったから先に食べようかと思ったけど、我慢したの。だって一人ぼっちで食べる食事は寂しいし美味しくないから・・・。今日は蓮が帰って来る日だから、どんなに遅くなっても一緒に食べるんだって思ってたの。話したい事いっぱいあるんだもん、ぎゅっと抱き締めて欲しかったし・・・先に寝てなんていられないよ」


俺をじっと見つめる大きな瞳を捕らえながら・・・いや、俺の方が吸い寄せられて互いの顔が近付いてゆく。
緩めた唇のまま香穂子の唇に重ねて触れるだけのキスを贈ると、離れるのを拒み引き止めるかのように強く縋り付き、彼女から求め返してくれた。抑えていた熱が関を切って君へと流れ込み、弾けた鼓動が高鳴る。
久しぶりのキスはこうして互いに求め合い、舌や呼吸をも絡め取りながら深さを増していった。




名残惜しげに唇が離れると、香穂子は潤んだ蕩ける視線で見つめながら、浅く早く呼吸を繰り返す。
最後にもう一度だけ唇を挟むように啄ばむと、ほんのり赤く染めた頬を隠すように小さく俯き、恥ずかしそうに俺の肩先へと顔を埋めてしまう。照れる君が可愛くて・・・でも恥ずかしがらずに顔を見せて欲しくて。
背中から回した腕で抱き寄せるように頭を包み、今度は俺が肩へ預けてくる心地良い重みを受け止め、緩めた頬のまま鼻先を髪に埋めた。


「俺が寝ていた間、ずっと香穂子の肩を借りていたな。すまない・・・重くは無かったか?」
「だいじょうぶ、とっても温かくていい匂いで、気持ち良かったよ。もっとずっとこうしていてもいいなって、思うくらいに。蓮が肩を預けてくれるのは、頼ってくれる証だから嬉しいの。私が蓮に支えてもらっているように、心も身体も音楽も・・・私も蓮の全てを支えたいから」
「俺が寄りかかれるのは、香穂子だけだ。ありのままの俺でいられるもの、君の前だから」
「ねぇ、お腹減ったでしょう? 遅くなったけどご飯にする?」
「いや・・・その。すまないが、もう少し後でもいいだろうか?」
「私は別に良いけど、どうしたの」


寄りかかっていた頭を起こして振り仰ぎ、きょとんと不思議そうに見つめる瞳に優しく微笑みかける。
心から溢れる真摯な願いを、輝く瞳の奥へ届けるように。


「もう一度、君の肩を貸してくれないか? まだ暫くはこのままでいたいんだ、君の温もりと存在を感じていたい」
「・・・・うん、いいよ。ふふっ、じゃぁいっそこのまま、朝までこうしてくっついてる?」
「それもいいが・・・。君を抱き締めるのには少々不便だから、今少しの間だけで充分だ」


穏やかな安らぎの後には、情熱の海が待っている・・・。
柔らかさを感じ続ければ、身を投げ出したくて奥底では熱く疼き出す筈だから。


もう・・・っ!と真っ赤に顔を染めた香穂子が返事の代わりに俺の脚をきゅっと掴む、その指先に込められた力が心をも捕らえ掴みった。はにかみつつソファーへ座り直し、隙間を無くすほど身体を寄せると、膝に落ちていたジャケットを互いに引き上げ、寒く無いように一つに包まり合う。
優しさが生み出す互いに触れ合った温もりを、ジャケットで覆い包み、逃がさないようにと。


吐息が触れ合う距離で視線が絡めば、どちらともなく甘い微笑みに代わり。
頭を預けやすいように小首を反対側へ傾けながら、どうぞ・・・と肩を差し出してくれた。
香穂子へ少しずつ重みを預けてもたれかかりながら、小さな肩へそっと頭を乗せると、彼女も髪を絡めるように俺の頭へコツンと寄せてくる。肩に預けるのは身体だけでなく、その心まで・・・俺は君へ、君は俺へと。



俺の事を気遣ってくれるその一つ一つが、大切にされていると感じさせてくれるんだ。
そして君に愛されている実感するたびに、俺は優しい幸せな気持になれる。
愛する人に愛されるのは、何ものにも変えられない大きな喜び。


俺にとってこの世で一番の安らぎは、こうして寄りかかれる香穂子の肩・・・君自身。
羽根のように包み込む、温もりと優しさだから。