君からのキス



香穂子と一緒に昼食を取ったその後は、練習室でヴァイオリンを奏でる・・・俺たちが過ごすいつもの昼休みだ。だが一分一秒は常に同じ時を刻んでいる筈なのに、君と過ごす時間はとても早く過ぎ去るのはなぜだろう? 
もうすぐ昼休みが終わる時間だから、ヴァイオリンを片付けなくてはいけないな。ついさっきこの練習室に来たと思っていたのに、右腕の時計を確認すればだいぶ時間が経っている。


早くヴァイオリンが弾きたいのだと、待ちきれない笑顔を溢れさせ、香穂子は嬉しそうに楽器の用意をしていたな。
俺も早く奏でたい・・・君と共に。一つに重なり合う音色に想いを馳せれば、満ち溢れる温かさに頬が綻び、心は弦を弾くピチカートのように弾んでいた。胸を膨らませる楽しさが大きいほどに、互いに別々の校舎へ帰らなくてはいけない休み時間の終わりは、身を引き裂かれる寂しさを味わうんだ。

放課後まであと数時間か・・・長いな。
ヴァイオリンをケースに片付け終わり、蓋を締めた手が離れないのは、まだ君と一緒にいたい気持の表れだろう。
押さえ切れない溜息を零すと、いつの間にか隣にいた香穂子が、身を屈めて覗き込んでくる。鼻先が触れ合う近さでじっと見つめる大きな瞳に鼓動が飛び跳ね、思わず一歩後ずさると、開いた隙間から懐に飛び込んできた。


「あ〜っ! また溜息吐いてる。蓮くん知ってた? 溜息を吐くとね、幸せが逃げちゃうんだよ」
「・・・香穂子?」
「溜息に乗って蓮くんの幸せが逃げたら大変! 吐いた分だけ、新しい空気を吸って取り戻さなくちゃ。さぁ息を吸って〜吐いて、ほら蓮くんも目を丸くしていないで、私と一緒に深呼吸するの!」
「いや・・・その、俺は大丈夫だから」


両手の拳を握り締めながら力説する香穂子は、自ら率先して腕を広げ、息を吸って吐いてと深呼吸を繰り返している。状況が飲み込めなくて、何が大丈夫なのか自分でも良く分からないが、君まで自分の事の様に深呼吸する必要はないと思うんだ・・・。溜息を吐くと幸せが逃げると信じている香穂子は、俺が逃がしてしまった欠片を取り戻そうと、必死に頑張ってくれているんだな。そう思うと大切に想われている嬉しさが込み上げ、魅入ってしまう。

吐息に込めた想いを言葉にしたら、とても一言では語りつくせない。
それでも本当は、きちんと伝えなくてはいけないのだと、君が教えてくれた。


ただ見守っている俺に気づいた香穂子は、一緒にやるのと頬を膨らませながら俺を睨んでくるが、愛しさを更に増すだけだ。ありがとう・・・そう緩んだ瞳で微笑むと、握り締めていた拳を一つに組み合わせ、見る間に顔を赤く染めていった。


「はぁって息を吐くと、心に溜まったもやもやが外へ出るからすっきりするよね。でも吐き出したモヤモヤ気分をまた自分で吸っちゃうんだよ。それって良くないって思うの。溜息に色をつけたら、今にも雨が降りそうな灰色の厚い雲の色をしていそう。だからね、胸にいっぱい新しい風を吸い込めば、幸せがきっと青空にしてくれるはずだよ」
「すまない、溜息を吐くのが癖になっているのだと思う。気をつけなければいけないな」
「蓮くんは何でも心の中に溜め込んで、一人で頑張ろうとするでしょう? もしも辛い事があったら、私も力になりたいの・・・。喜びや楽しさだけじゃなく、悲しみや辛さも分かち合えば、少し軽くなるかも知れないよ? 溜息の吐息を言葉に代えて、私に教えて欲しいな・・・」


心配そうに瞳を曇らせながら、真っ直ぐな光りで俺を見つめる香穂子の頬を優しく包む。蓮くん?と不思議そうに目を丸くする瞳へ引寄せられるように、そっと触れるだけのキスを重ねた。見る間に頬を赤く染め、恥しそうに口篭ってしまう君をこのまま腕の中に抱きしめてしまいたいが、本当に手放せなくなりそうだ。今は、触れることが出来た柔らかな唇だけで我慢をしようか。


「心配かけてすまないな。君と過ごせる昼休みがもう少し長ければいいのにと、そう思っていたんだ。午後の授業は普通科と音楽科で校舎が分かれてしまう。放課後になったら、また君に合えると分かっているが・・・この僅かな間でも離れるのが辛い。音楽の事を考えていた筈なのに、気づけば香穂子の事ばかりを考えてしまうんだ」
「そ・・・そうなんだ。蓮くんの溜息は灰色じゃなくて、桃色だったのかな・・・。蓮くんの中に私がいて、ずっと想ってくれていたのがすごく嬉しいの。私もね、一緒に授業受けられた楽しいだろうなとか。蓮くんなら英語の授業で綺麗な発音しそうだなとか・・・気づくと全部蓮くんに結びついちゃう。でもね、会える約束があるから頑張れるの」
「前向きだな、香穂子は。でも癖は直さないといけないな。香穂子に心配をかけたり、不快な想いをさせる訳にはいかないから」
「蓮くんらしいといえば、らしいんだけど・・・そうだ!」


いい事思いついたのとそう言って手を叩き、ふわりと笑みを浮かべた香穂子は、後ろ手に組みながら一歩また一歩と俺に近付いてくる。追い詰められた背後は窓際、目の前には悪戯な光りを瞳に宿す楽しげな君。一体彼女は何をしようと思いついたのだろう・・・全く想像がつかない。だがこれから起こる予感を伝えるように、胸の中へ熱さが込み上げ、鼓動がアレグロの忙しないリズムを刻む。


「か、香穂子・・・どうしたんだ?」
「溜息を吐いたら幸せが逃げちゃうって言ったでしょう? だからね、もしも蓮くんの口から逃げそうになったら、私がその子たちを捕まえようと思うの」
「目に見えないのに、どうやって捕まえるんだ?」
「蓮くんが溜息を吐いたら、私が唇を塞いで吸い取ってあげるね。どう?とってもいい考えでしょう?」
「・・・・・・・・っ!」


にっこり笑みを浮かべる君は、大きな瞳でじっと俺を見つめながら溜息が零れるのを、今かまだかと背伸びをしつつ待ち構えている。俺の溜息を君が塞ぐ・・・つまりはキスをするという事だろう。
吐息が触れ合う近さでじっとしているだけでも、駆け巡る熱さに焼かれ、いつまで堪えられるか分からない。君が塞ぐ前に我慢が出来ず、きっと俺が口付けてしまうだろう・・・そんな気がする。





時を止めていた長いようで短い沈黙が、シュガーの甘さを漂わせた頃に風が動いた。
どれくらいの時間、俺たちは見つめ合っていたのだろうか。溜息を吐いては駄目だと俺に言った香穂子が肩を落とし、はぁっと大きな溜息を吐いてしまう。そうかと思えば両腕を腰に当てて拗ねてしまった・・・君は本当にくるくると良く変わるから、見ていて飽きないな。


「も〜っ、つまんない! 待っている時に限って、蓮くん溜息吐かないんだもん。これじゃぁキスができないよ」
「香穂子・・・俺に溜息を辞めさせたいのか、どっちなんだ? 子供みたいな駄々を捏ねないでくれ。その・・・君からのキスは、いつでも嬉しいのだが・・・」


赤い風船のように頬を膨らませ、唇まで尖らす拗ねた香穂子だけでなく俺自身にも、もどかしさが込み上げ思わず溜息を零してしまった。しまった・・・直すように心がけようと、君に誓ったばかりなのに。
慌てて口を手で押さえるものの既に遅く、悪戯にかかったと言わんばかりの、嬉しそうな笑みを浮かべた。
彼女が俺の手を掴み、覆っていた口からそっと除けてゆく・・・心の扉を開くように。


「ふふっ、蓮くん引っかかった〜。溜息吐いたから、じゃぁさっそく、私がその吐息を吸い取ってあげるね」
「まさか、わざと狙っていたのだろうか? 俺の溜息を引き出し、吸い取ってキスをする為に」
「溜息で幸せが逃げていかないように、しっかり蓋をしなくっちゃ。幸せは、二人一緒に掴むものでしょう? はぁってした直後にキスで塞げれば一番良いと思うんだけど、背伸びをしなくちゃいけないから難しいの。不意打ちのキスをすぐに届けてくれる蓮くんが、こんな時には羨ましいな」


掴んだ俺の両腕を支えに、爪先立ちの背伸びを精一杯する香穂子の顔がぐっと近付く。やがて唇に触れたのは、甘く温かな君のキス・・・赤く潤みを湛えた、俺だけの甘い果実。

驚きや戸惑いよりも、滅多に無い恥しがり屋な君からのキスに、心はふわりと浮かび上がり舞い踊る。
確かに良くないものだから癖は直さなくては・・・そう思ったけれど、君が俺の唇を塞ぎキスをしてくれるなら、もう少しこのままでいても良いだろうか?

俺が溜息を辞めれば、溜息で幸せが逃げると思っている君が、進んでキスをしてくれなくなるのも寂しい。
どちらを取るかと問われれば、難しい問題だな・・・。



そうだ、君もさっき大きな溜息を一つ零していただろう?
溜息で幸せが逃げないように、今度は俺が君の吐息と唇を塞ごう。
もう溜息を吐かないと思うくらい長いキスが、桃色の吐息に変えるまで。