風の海を泳ごう

夏休みを利用して家族旅行に行っていた香穂子が、数日ぶりに俺の家を訪れた。

日頃の暑さを忘れて過ごす高原での避暑が楽しかったと、身振り手振りで熱心に思い出話に花を咲かせている君。微笑ましく見つめながら耳を傾ければ、語る光景が目の前に浮かぶようで、俺も一緒に旅をした・・・そんな気持になってくる。

夜になると星が綺麗だったと目を輝かせた香穂子は、ふと切なそうに微笑んで。
俺に会えなくて寂しかった・・何をしてるのかなと星を見ながら考えたのだと、頬を僅かに染めてはにかんだ。

たった数日とはいえ、香穂子に会えない時間がとても長かった事を思い出し、俺も寂しかったと・・・。
熱い吐息で囁きながら、テーブルの上で甘えるように伸ばされた彼女の手を、そっと包んで握り締めた。
今度は蓮くんと一緒に行きたいなと無邪気に笑う君に、そうだなと穏やかに返事をしつつ、内心は困り果てて焦りを覚えていたのは内緒だけれども・・・。



「私ね、蓮くんにお土産買ってきたんだよ。今日はそれを届けに来たの」


そう言って絡めていた手を静かに離すと、テーブルの下に置いた鞄の中から一つの包みを取り出し、どうぞと俺に差し出した。両手の平にすっぽり収まるサイズの紙包みを受け取ると、中の重さは軽く、壊れないようにと特殊なシートで包装されているのが分かる。ガラスや陶器の類・・・壊れ物だろうか?


「俺にくれるのか?」
「うん! 散歩した森の中にログハウスのガラス工房があって、小さい動物とかグラスとかいろんなお土産があったんだよ。どれも可愛くて素敵で・・・でもね、これ見た時に一目惚れしたの。蓮くんがパッと浮かんだんだよ」
「ありがとう、気を使わせてすまないな。包みを開けてもいいだろうか?」


瞳を緩めて微笑めば、香穂子も満面の笑顔で力いっぱい頷いた。

香穂子が俺の為に選んでくれたもの・・・。
中には何が入っているのだろうかと胸を脹らませながら、丁寧に包みを解いていく。向かいに座る彼女も俺の反応が気になるのか、息を詰めてテーブルに身を乗り出しながら一緒に見守っているようだ。ちらりと視線を上げて伺えば、中身が現われるに連れて手に汗握る君の表情が面白くて、つい顔が綻んでしまう。


透明なエアパッキンのシートが現われ、大切そうに包まれていたのは・・・。


「これは風鈴・・・か?」
「そうなの、ガラスで出来た風鈴だよ。蓮くんの家は全室防音だし、空調も整ってるでしょう? ヴァイオリンを弾いていない時にほんの少しの間でいいの。暑くてもあえて窓を開けて、風を通すのもいいと思うな」
「風鈴をもらうのも、部屋へ吊るすのも初めてだ。香穂子、ありがとう・・・大切にする」
「せっかく日本には四季があるんだもん、夏は夏らしく感じなくちゃ!」


包んでいたぷちぷちのシートは後で私に潰させてねと、しっかり俺に予約する事も忘れずに。
ね?と首を傾ける愛らしい仕草に笑みを誘われ、緩ませた頬と瞳で見つめながら言葉の代わりに返事をした。

俺の両手の平にすっぽり包まれる小ぶりな大きさで、円球に程近い透明なガラスドーム。下半分に施された青い海に、一匹の青い魚が泳いでいるものだ。シンプルだけど愛らしく涼しげで、透明なガラスの中にも海の泡をイメージした気泡が混じっており、細工が施されている。


香穂子からもらう物が特別なのは、君のやさしい心の欠片だからだと思うから。
俺を喜ばせようと一生懸命に選んでくれたプレゼントは、見ているだけで温かくなって、元気になってくるんだ。


ガラスドームの先端に付いている吊るし紐を、目線の高さに持ち上げて眺めると光りを浴びて輝いて見える。
テーブルへ這うように身を乗り出した香穂子が上目遣いで俺を振り仰ぎ、音色がとっても涼しいんだよと。
そう言って青い短冊を摘んで軽く揺らせば、チリーンと透き通る涼しげな音色が響き渡った。


「いい音色だな。瞳を閉じて耳を澄ませば身体の表面だけでなく、心の中から暑さが和らいでゆくようだ」
「エアコンよりも、時には気持がいいんだよ」


俺が手に持つ風鈴を、ふわりと微笑む君が風となって楽しげに響かせる。
揺れる反動でガラスドームがくるくると回転し、まるで青い魚が本当に宙を泳いでいるように見えた。
ガラスの海を漂い泳ぐ一匹の魚・・・。だがじっと見つめているうちに、ふと思い当たって俺は眉を顰めた。


「蓮くん、どうしたの?」
「この風鈴には、魚が一匹だけなんだな」
「・・・そうみたいだね。蓮くん、もしかして気に入らなかった?」
「いや、違うんだ。風に揺られて泳いでいるのに、一匹だけでは寂しそうに見えたんだ」
「う〜ん・・・言われてみると確かに寂しそう。誰かを待っているのかな」


青い魚に、一人っきりで君を待っていた自分を重ね合わせたからだろうか。
風鈴の音色が涼しげなのは、この魚が歌う声なのだろうかと思ったから。

何とかしてあげたいねと、難しそうに眉を寄せて考え込む香穂子が額を寄せてきて。ガラス越しに君と見つめ合い眺めながら、チリーンと涼しげに歌う魚の声に耳を澄していた。魚の声は俺の声・・・君は気づいてくれるだろうか? やがて彼女が何か閃いたらしく、瞳にパッと花を咲かせ手を叩いた。


「いい事思いついた! ねぇ蓮くん、赤い油性マジックあったら貸してもらえる?」
「あぁ、もちろんある。今用意するから、少し待っていてくれ」


持っていた風鈴を静かにテーブルへ置くと、机へ向かい引き出しから赤の油性マジックを取り出した。これでいいだろうかと香穂子へ渡し、ありがとうと受け取った彼女に何をするのだと聞けば、出来てからのお楽しみだと悪戯っぽく瞳を輝かせた。きっと香穂子にはこの魚の声が・・・俺の心の声が聞こえたのかも知れない。

興味深く見守る中、ペンの蓋を開けるとガラスの風鈴を大事そうに抱え、ドームの表面へ絵を描き始める。
向かいに座っていたが気になって隣へ移動し、楽しげに笑みを浮かべながらペンを動かす手元を覗き込んだ。


「ふふっ、でーきた!」


見て?と香穂子が隣にいる俺を肩越しに振り仰ぎ、両手の平に乗せて描いたものを披露した。
赤のマジックで描いたものは、青と対になるような同じ大きさをした、一匹の赤い魚。海を泳ぐ青い魚と、ちょうど向かい合うように。併走させるでもなく後ろに泳がせるでもなく、語り合うように・・・キスをするように口をぴったり触れ合わせているのが、いかにも香穂子らしいと思えた。


「もう一匹魚が増えたな。これなら青い魚も、寂しくは無いだろう」
「青い魚は蓮くんで、向かい合った赤い魚は私だよ。二匹くっついて、キスしてるの!」


自慢げに・・・誇らしげに胸を張った香穂子が再びペンを走らせて、向かい合った魚の上に一つの小さなハートマークを描いた。輪郭を描き、中身を丁寧に塗りつぶしてゆく。

これを俺の部屋に飾れと・・・君はいうのだろうか。
微笑ましいと同時に、心の中を見透かされたようで鼓動が急激に高鳴り、熱い照れ臭さが込み上げてくる。



「じゃぁ、さっそく吊るそうか」
「ねぇねぇ、どこへ吊るすの?」
「風鈴といったら窓辺だろうな。だが吊るす場所を作っていないから、とりあえずはカーテンレールへハンガー用のS字フックをつけようと思うんだ」
「それなら窓辺に吊るせるね、良かった〜。私ってば、吊るす場所の事ちっとも考えてなかったの。あ、窓を開けて良い?」


書きあがった風鈴を持って立ち上がると、わくわくを抑え切れない様子で興奮気味にはしゃぎ出し、俺の後を飛び跳ねるように付いてくる。俺が部屋のエアコンを切ると、香穂子が窓を大きく開け放ってくれた。クローゼットから取り出したS字フックをカーテンレールにつけて風鈴を吊るすと、ガラスの向こうへ見える青空に魚が泳いでいるようだ。


熱気を含んだ風がさっと通り抜けると透き通るガラスの音が響き渡り、熱さがたちどころに涼しさへと変わる。
たった小さな一つの音なのに、音の持つ力というのは凄いのだなと、改めて思わずにはいられない。
五感の全てで音を感じる事は大切なのだと、この風鈴から君が教えてくれた。


夏の青空を背負い風に揺られてくるくる回る風鈴の中で、二匹の魚が寄り添って宙を泳いでいる。
隣に寄り添う香穂子は風にはためく短冊へ手を伸ばし、じゃれ付くように指先で突付いていて。
忙しなくチリチリと鳴る音色に苦笑しつつ、香穂子の手をそっと掴んで握り締めると、俺の胸元へ引寄せた。

わざと沢山鳴らしては駄目だろう? 風の吹くまま・・・自由な心のままに任せなければ。
だから心地良いと思うのだから・・・俺と君とのように。


僅かに目を見開いて俺を振り仰いだ彼女は、やがてふわりと瞳を緩め頬をほんのり赤く染め上げて。
肩先に擦り寄り、甘えるように身体を預けてくる。肩を寄せ合い温もりを感じながら、眺める視線は一つに注がれてゆく。


「青いお魚も一匹よりも二匹一緒の方が嬉しそう、楽しそうに泳いでるね。いいな〜幸せそうだね」
「この風鈴の音色は赤と青・・・二匹の魚が歌う声かも知れないな。傍にいてくれて嬉しいと・・・君が好きだと。そんな囁きが聞こえてきそうだな」


ガラスの音色が生み出すからなのか、それとも君がくれた物だからなのか。
香穂子が歌うヴァイオリンや呼びかける声のように、俺の心を震わせ胸の奥まで届くんだ。
とても安心する・・・気持が柔らかく穏やかになる。そして熱くなってくる・・・。


風に乗って聞こえる透き通った音色は、描かれた二匹の魚が想いを伝え合う愛の歌。
そう・・・泳ぎながら口付けを交わす魚は、俺と君だから。
涼しさを運ぶのではなく、熱さと甘さを俺の心へと運んでくれるんだ。


「香穂子・・・」
「蓮くん・・・・」


ならば俺たちも、二匹の魚が奏でる風鈴と共に愛の歌を心で響かせよう。


肩越しに視線が甘く絡み、ふっと口元を緩めると、隣に寄り添う君の肩を抱いて腕の中へ閉じ込めた。
風が吹きぬけチリーンと一際大きく響いた音色が、互いの心を揺らしたのを合図に、俺たちの唇を引寄せ合い一つに重なる。

すると、空をはためく風鈴と二重奏のように心の中へ響いたもう一つの音色・・・。
一つ鳴るごとに鼓動が高鳴り熱くなる・・・君を求めたくなる・・・そんな甘い音色が。