可愛いね、と言いたい
オレンジ色に染まる夕陽を眺めながらの帰り道、空を仰ぐ香穂子は明日もお天気だねと頬を綻ばしている。制服の白いプリーツスカートと肩に掛かる髪を揺らしながら振り向き、ね?と相槌を求めて首を傾けた。紅茶の夕陽に溶けるように、ポンと心に飛び込んだ君は優しいミルクとなって俺の心へ溶けこむんだ。ふわりと浮かぶ羽のような微笑みに、心に沸いた甘い想いが言葉に変わる。
「かっ・・・・・・・」
「どうしたの、月森くん?」
「・・・・・・・か、香穂子・・・」
「ふふっ、変な月森くん。さっきから私の名前ばかりを呼んでいるよね。しかも必ず最初で詰まっちゃうの。ねぇねぇほっぺ赤いよ?」
「それは・・・きっと、夕陽が赤いからだろう」
きょとんと不思議そうに俺を振り仰いだ香穂子は、言いかけた言葉の続きを辛抱強く待ってくれていた。見つめられるほどに鼓動が高鳴り、手の平に汗が滲む。目眩を起こしそうな顔の熱さを堪えながら、やっとの思い出口にしたのは香穂子の名前だった。夕陽が真っ赤っかだねと見つめる瞳に耐えきれず、ふいと視線を反らせば、くすくす漏れ聞こえる甘い吐息たちに目眩がしそうだ。
「月森くん」
「・・・なんだ?」
「ふふっ、私も呼んだだけっ!」
「・・・・・・・・」
「でも嬉しいな。名前を呼ぶと私の中にいる月森くんが大きくなるから、もっと大好きになれるの。月森くんが香穂子って呼んでくれるとね、自分が大切に思えてくるの・・・ありがとう」
ほんのり赤く染まった頬と見つめる大きな瞳が綻べば、それだけで優しい穏やかさに包まれる俺がいる。
どんな時にもひたむきで、真っ直ぐに向かう君の音色と想いの先にいるのが俺である事の幸せ。隙間を埋めるように並ぶ距離をいそいそと詰め、大好きな想いを精一杯現してくれる君が可愛らしい。
・・・違う、違うんだ。名前は何度でも呼びたいが、本当は別な言葉を言いたかったのに。
正門前で待ち合わせてからもう何度、名前を呼び合うやりとりを繰り返しているのだろう。
君に、伝えたい言葉がある。それは短いたった一言なのに、どうしてこんなにも難しいのだろうか。
きっと笑顔を見せてくれるから、想う心のままに告げられたらいいと想うのに、あと一歩を躊躇ってしまう。
やっと言えるようになった「好きだよ」という言葉と同じくらい、この胸にいつも沸き上がる君への言葉を・・・。
-----可愛い。
そう、伝えたかったのはこの言葉だった。大切で愛しいと感じるときに生まれる、きらきら光る宝物。
心の中でならいくらでも唱える事が出来るのに、想うままを口にするにはどうしたらよいのだろう?
いざ言うとなると、きっかけがつかめずに難しい。いきなり可愛いと君に伝えたら、驚くだろうか?
いや・・・難しいのではなく、照れ臭いんだと思う。君が眩しく愛しいと想う程に、踏み出しきれないあと一歩がもどかしく、焼き焦がされてしまいそうだ。
「ねぇ月森くん。月森くんは、いちご好き?」
「別に嫌いではないが・・・いちごがどうかしたのか?」
「良かった、私もいちごが大好き。たくさんある果物の中で、いちごとは相性が凄く良いみたい。食べた後にお肌がツルツルになる気がするし、胸がキュンとする甘酸っぱさは、キスした時みたいに幸せになれるから。あのね、赤い幸せ色に染まる季節がやって来たんだよ」
「は? 幸せ色?」
肌に良いのはビタミンCが多いからだろうと言ったら、違うよ恋の力なのと真面目な顔で反論されてしまった。不思議な会話はいつもの事だと分かっていても、眉を寄せずにはいられない。答えを教えてくれと視線で訴えると、ごそごそと鞄から何かを探し出したのは一枚のチラシ。ストロベリーフェアと大きく書かれたそれには、大粒の苺やデザートが溢れていた。見ているだけでも幸せだと甘い溜息を吐く香穂子は、可愛いね美味しそうだねと。苺のように頬を染めながら興奮している。
「今ね、ストロベリーフェアをやっているんだよ。5のつく苺の日には、大粒のいちごが食べ放題なんだって。甘い物が苦手な月森くんでも平気だと思うの、一緒に行こうよ」
「駅前のケーキ店のものだな。この前の休日に、香穂子とお茶をした店か」
「今度の大きな苺は“あまおう”っていう種類みたいだね。月森くん知ってた? あまおうの名前は、甘い・丸い・大きい・うまいの頭文字を取ったんだよ。美味しくて良いところがギュッと詰まっているなんて素敵だよね」
「次の休日がちょうど15日だな、一緒に行こうか」
「やった〜! いちご大好き、月森くんも大好き。早く溢れる苺に囲まれたいな〜」
君は大きな苺に釘付けになり、俺はいちごよりも可愛いそんな君を見つめながら、互いに同じ事を思うんだ。
可愛い、美味しそうだ、食べてしまいたいと。チラシを丁寧に折り畳み鞄へ戻すと、何かを思いついたのかポンと手の平を叩いた。
「私たちにも、いちごみたいに美味しさが詰まっているかな? ねぇ月森くん。私の名前・・・かほこの三文字だったら、それぞれを頭文字に何を思い浮かべる?」
「言葉遊びか、そうだな・・・・・・」
か・ほ・この三文字から浮かぶ言葉は何だろう? まずは「か」の文字だな。
いつも走っているから活発・・・どうもしっくりこないな、他にもっと似合う言葉があるはずなのに。
ささやかな遊びに思えても、これはとても大切なことだ。
パズルのピースを当てはめるように、君に似合う花を選ぶように・・・思いを馳せながら大切に探そう。
ゆっくりとしたペースで隣を歩く香穂子は、ワクワクと興味深そうに身を乗り出してくる。眉を寄せて真剣に考える俺に、まるでキスをねだる時のように少し背伸びをして、ぐっと近づく君の笑顔。そんなに近くでじっと見つめられては照れ臭い、大きな瞳に吸い込まれてしまいそうだ。無邪気さに微笑めば、小さく舌を出しながら肩を竦めて見せた。
可愛い・・・今すぐに抱き締めてしまいたい程に。
ふわりと浮かんだ想いの欠片は、熱さを増す頬と高鳴る鼓動に変わって行く。落ち着くんだと言い聞かせながら深呼吸をして、伸ばしかけた手を引き戻した。そうだ、今なら伝えられるだろうか。
「かっ・・・・・・」
「か?」
「その・・・香穂子の“か”は、可愛いの“か”・・・だ。君が可愛いと、そう思うから」
「月森くん・・・」
恥ずかしさに耐えきれず、逸らしてしまいたい視線を堪えながら告げると、瞬く間に香穂子の顔が真っ赤に染まってゆく。胸の前で両手をぎゅっと握り合わせ、火を噴き出しそうな顔のまま見つめてくる。ただそれだけで、瞳の奥に灯る熱い炎が残された理性の綱を焼き切ってしまいそうだ。
「香穂子の“ほ”は、ほっとするの“ほ”。香穂子のヴァイオリンを聞いたり、こうして一緒にいると、優しい空気に包まれ穏やかな気持ちになるんだ。俺が君の色に染まっていくのが分かる」
「じゃぁえっと、“こ”は? 香穂子の“こ”!」
「“こ”は・・・ここにいて欲しいの“こ。”俺だけの側に、抱き締める腕の中に・・・君を離さない。香穂子の名前の中には君が可愛いと、好きだという俺の想いがたくさん詰まっているんだ」
言えた、言えたじゃないか・・・ずっと胸にあった想いの言葉たちを。生み出すまでは難しかったのに、一歩を踏み出せば心のままに風が俺を運んでくれる。だが見えない音を立てて弾けた湯気に堪えきれず、俯いた香穂子が急に走り出してしまった。
「香穂子、待ってくれ!」
小さな公園へと駆けだしてゆく君を、考えるよりも早く追いかけていた。待ってくれ、どこへ行くんだ? なぜ逃げ出してしまうんだ・・・俺は傷つけてしまったのか? 焦りと不安に襲われながら、うさぎのようにすばしっこい君を追いかける。俺が追いかけてきた事に気付いているのか、誰もいない公園の真ん中でぴたりと立ち止まる背中に優しく呼びかけた。肩越しにゆっくり振り向いたと思ったら、真っ直ぐ飛び込みしがみつく。
ぎゅっと背にしがみつきながら俺の胸に顔を埋めているのは、真っ赤に染まった顔を見せたくないのだと・・・火照る耳や首筋が教えてくれるから。そっと抱きしめ直し、花の香りがするしなやかな髪へ指を絡め撫で梳けば、次第に身体の強ばりが柔らかに解けてゆくのを感じだ。すまなそうに潤んだ瞳に微笑みを注げば、零れる吐息も頬も食べてしまいたい甘く大きないちごに変わった。
「月森くん、びっくりさせてごめんね。私の中に、月森くんがたくさん詰まっているのが凄く嬉しくて、ふわふわして・・・ちょっぴり恥ずかしくて。熱いものが溢れてきたからじっとしていられなかったの。どうしよう、心臓がドキドキして壊れちゃいそうだよ」
「そうだったのか・・・安心した。香穂子の鼓動が、抱き締める身体を通して伝わってくる・・・君の中に俺がいる証なんだな、俺も嬉しい。ちなみに俺の名前も考えたんだ、俺の名前にも、君がたくさん詰まっている」
「どんなもの?」
「蓮の“れ”は恋愛の“れ”。俺一人だった小さな世界の扉を開き、恋する心の楽しさを君は教えてくれた。そして“ん”は・・・」
「・・・・・・・んっ、ん〜っ!」
深く抱き締め、甘く絡む視線に恋の火を灯しながら。ゆっくり顔を近づけ覆い被さり、唇を重ねた。
甘く柔らかい唇が溶け合い、軽く触れるだけでは足りずに求めてしまう。うっすら開いた隙間から舌を差し入れ、奥へ逃げる君を捕らえ深く深くキスを重ねよう。すがる手が強く背にしがみつき、呼吸を求めキスの合間にあえぐ吐息。名残惜しげに唇を離すと、蕩ける眼差しが熱い炎となって身体を駆け巡り、心焼き焦がす。駄目だ、これ以上は君を手放せなくなってしまう・・・家に送り届けずに連れて帰ってしまいたい。
オレンジ色に染まる誰もいない公園で、一つに重なるシルエット。
「君と重ねるキス、これが“ん”の答えだ」
「・・・んって、確かに零れちゃうけど、それは名前とか言葉じゃなくて。もう〜月森くん、反則だよ!」
「可愛い香穂子が、大好きだ」
人の想いというのは、例えば好きな色・・・俺なら青色について考えたときに似ていると思う。海の青、空の青・・・色から生まれる様々なイメージを重ねるほど強く存在を認識するように。君の事を想い考えれば考えるほど、俺の中で存在が大きくなり君の色に染まってゆく。
毎日が新しい発見の連続だからこそ、ひとときも目を離すことができなくて。真っ直ぐな瞳の輝きが生む笑顔や、俺だけに見せる拗ねた仕草や泣き顔も、どれもみんな愛しいから。いつでも君を追い、惹き付けられ捕らわれるんだ。
ぷぅっと真っ赤に膨れ拗ねる・・・そんな君も可愛いから、緩めたままの唇で何度も啄み囁こう。
可愛い・・・そう言いたくて何度も言いかけ君の名を呼んだが、きっとこれからは迷うことなく伝えれそうだ。
だから何度でも伝えよう、心に沸く素直な想いのままに。