可愛い仕返し

食事や映画、コンサート・・・・お互いに楽しい事を用意して、香穂子と出かける約束をしていた休日。

俺から誘う事もあるけれど、今日は香穂子から出かけようと誘い出してくれた。
俺が喜びそうな場所や、一人では滅多に行かないような場所へ連れて行ってくれる君は、とても楽しく素敵な刺激をくれるんだ。今日はどんな一日になるだろうかと、想いを馳せるだけで心が躍り、浮き立ってくる。



待ち合わせの場所へ約束の時間より少し早めに現われた香穂子が、人ごみの中から俺を見つけるなり手を振り、笑顔で駆け寄ってきた。鮮やかに浮き立つ彼女の姿だけしか俺の目には映らなくて。心の引き金をひかれた俺は逸る鼓動に急かされながら、足早に人の波をすり抜け君を目指す。

いつものように真っ直ぐ懐に飛び込んでくるかと思ったが、俺から少し離れた場所で香穂子はピタリと脚を止めてしまった。目の前とはいえ、俺からは手が届くか届かないかという、微妙な距離。
いつも側にいる君は、どこかよそよそしさを感じるくらいに遠い。


それ以上距離を詰める気配が無いので俺から一歩近付くと、何故か彼女も一歩後ずさる。
不思議に思ってまた一歩距離を詰めれば、更に数歩離れる事の繰り返し。香穂子との距離は開きこそすれ、縮まる気配は一向に無かった。


・・・ひょとしてこれは、避けられているのだろうか?


だがどんなに記憶を振り返ってみても、俺自身に思い当たる原因が見当たらない。
何故なんだと・・・激しく掻きむしられる焦りと苦しみに、身の内でもがく事しか出来なかった。

昨日までは何とも無かったのに・・・俺が気付いていないだけなのかも知れないが。


その疑問が決定的な衝撃となって襲い掛かったのは、次の瞬間だった。
触れようと伸ばした俺の手にぴくりと身を震わせ、咄嗟に額を両手で押さえ隠し、怯えた瞳を向けたから。
宙を虚しく掴む手を握り締め、切り裂かれる苦しさに耐えながら眉を潜めた。


「やっ! それ以上・・・こっち来ないで。お願い・・・見ちゃ嫌っ!」
「香穂子、どうして俺を避けるんだ」
「今日の蓮くんは、私の半径1m以内に近付いちゃ駄目なの! 後ね、あまりじっと見つめないで欲しいな」
「俺は君を傷つける何かをしてしまったのだろうか? だとしたら、香穂子に謝らなければならない。でも俺には分からないんだ・・・。すまない、お願いだから教えて欲しい」
「違うよ、蓮くんのせいじゃないから。どっちかというと、えっと・・・私の問題かな?」


真意が知りたくて真っ直ぐに射抜く俺の視線を受け止める香穂子も、負けじと強い光りで返してくる。
なぜ近付いて見つめては駄目なのだろうか。側に君を感じながら近付く事を許されず、一日中触れる事も出来ないなど、俺にとっては拷問と同じ。君こそ、本当に平気なのか?

じりじりと後ずさり、追い詰められているのは君のなのに。
その距離を詰める程、心の中で燃える熱い炎に焼かれ、激しく追い詰められているのは俺の方なんだ。

気付けば香穂子の後ろは壁、そして前には俺。
きょろきょろと周りを見渡し、すっかり逃げ場を失ったと察した彼女は、ね?と首を傾け甘くねだるような笑みを向けてくる。遠巻きに人々の視線を背中感じるが、俺には香穂子しか見えなかった。



「では俺が嫌いになったのか?」
「そんな事ある訳ないじゃない! 蓮くんは世界で一番大好きだよ。今日のデートだって、昨夜から眠れないくらい楽しみにしてたんだから」
「ならば、俺には言えない隠し事があるのだろうな。言いたくないなら無理には聞かないが・・・香穂子は正直だから、嘘や隠し事をしても直ぐに分かるんだ」
「嘘・・・やっぱり分かっちゃったの? 隠し事って言うか、その・・・蓮くんだけにはどうしても見られたくなかったのに。どうしよう私、蓮くんに嫌われちゃうよ・・・・・・」
「香穂子?」


嘘を吐けないから、手の平で覆い隠している額の奥に何かがあるのだろう。
そう思って彼女の額に自分の両手を包むように重ねると、驚いたように瞳が大きく見開かれた。
瞬きも忘れて俺を見上げる瞳が涙で潤み出すと、強く抑えていた額の手も僅かに震えて緩んでゆく。


押さえていた熱いものが一気に溢れるのを感じ、鼓動から全身を駆け巡る激流に飲まれながら。
重ねた手を優しく握り締め、閉ざされた扉を開くようにそっと引き剥がした。


「あっ・・・駄目っ!」


ぎゅっと硬く目をつぶる香穂子の、甘く縋る制止の声があがる。
額のちょうど真ん中に現われた一粒の熟した赤い実に、俺の視線は釘付けになった。


「これは・・・にきびか?」
「だから見ちゃ嫌って言ったのに・・・蓮くんのイジワル。もう〜知らないっ!」


真っ赤に染めた頬を膨らましながら、俺をむっと睨む香穂子が必死に隠していたもの。
それは痛々しいほどに赤く腫れ上がった、少し大きめなにきびの膨らみだった。

前髪で隠れる場所だが、動いたり側に寄れば隠しきれずに見えてしまう。香穂子はこれを俺に見られたくなくて、近寄らせないようにと避けていたのか。


「昨夜チョコレートを食べ過ぎたのがいけなかったみたい。朝起きたら出来てたの・・・よりによってデートの朝に。結構大きくて目立つし、おでこの真ん中なんて赤くて恥ずかしいし。可愛くないから、絶対に蓮くんにだけは見られたくなかったの。大好きな人の前では、いつでも可愛く綺麗でいたいんだよ・・・だから私・・・」
「すまない・・・気ばかり焦って、逆に君を追い詰めてしまった」
「私こそ、何も言わずにごめんね。蓮くんも不安だったよね・・・私も蓮くんに黙って避けられたら悲しいもん。チョコを食べなきゃこんな事にはならなかったのに。注意が足りなかった自分が情けなくて、それが一番悔しい」


甘い誘惑には勝てなかったのだとそう言って強く唇を噛み締めると、俺から視線を反らし俯いてしまった。
俺の為を想ってくれる香穂子の気持を察せ無かっただけでなく、自分の不安を押し付けるあまりに、少なからず心を傷つけてしまったのだ。謎は解決したものの、ホッとしたような・・・そうでないような複雑な想いが心に霧となって残っているのは、この罪悪感なのだと思った。

俺一人が苦しかったのではない。
香穂子だって、俺に会うまでずっと不安を抱えて苦しんでいたというのに・・・・・・。

強く寄せていた眉根を瞳ごと柔らかく緩めると、伸ばした指先でそっと額に触れた。


「・・・痛いか?」
「ちょっと熱くて、腫れぼったい感じがするかな。平気だよ、直ぐ治るから」


今まで俺はそうとう不安そうな顔をしていたのか、笑って?ね?と君に宥められてしまった。
潤む瞳がきらりと光り輝き、雨上がりの青空のような笑みを浮かべた香穂子。強い君の眩しさと湧き上がる照れ臭さに瞳を細めながら、そうだな・・・と小さく呟き、掴んだ手に力を込めると、安堵と謝罪の微笑を返す。


身を屈めて額に唇を寄せると、どうか早く治るようにと想いを込めて、赤い実のようなにきびの跡に口付けた。
君を悩ます額の実を俺が食べてしまおう。君の痛みを、心の底から唇で吸い取ってしまうから。
一瞬小さく飛び跳ねる身体が逃げないようにと抱き締めながら、離れ際に小さく出した舌でペロリと舐める。


「・・・・・・っれ、蓮くん! も、もう〜こんなところで。みんな見てるのに〜」
「俺はどんな香穂子でも、君の全てが好きだし愛しいと思う。この額の赤い実も含めて、君が可愛い」
「どうしよう・・・凄く熱い、さっきよりも疼いてるよ。おでこのにきびが大きくなったら、蓮くんのせいだからねっ」
「すまない、その・・・つい。やはり傷口に、直接唇で触れてはいけなかっただろうか?」


抱き締めていた身体をぱっと離すと、額を両手で覆い隠した香穂子は恥ずかしそうに俯いてしまう。
もしも悪化させたら・・・と俺は身を屈めて様子を伺い、必死で声をかけ慌てながら、ただおろおろと見守るしか出来なくて。押さえた手をゆるゆると下ろした彼女は、ほんのり染めた頬でじっと俺を見つめながら、甘い吐息でポツリと呟いた。


「おでこのにきびは“想いにきび”って言うんだよ。蓮くん、知ってた?」
「いや、初めて聞いたが」
「さっきおでこにキスしてくれたから、大好きだよって想いが溢れてきちゃったの。まだ熱く疼いてる・・・想いの分だけどんどん膨らんでいっちゃうんだよ。こうなったら、責任とって貰うからね」
「責任? ・・・あっ、こら香穂子!」


見ちゃ駄目って言ったのに、見たからお仕置きだよと。悪戯っぽい笑みで見上げて俺の腕に飛びつき、思いっきり背伸びをしてくる。されるがままに引寄せられていると、しなやかな腕が首に絡み、戸惑う間もなくちびるが近付いてきた。熱く柔らかいものが頬ではなく唇の下辺りに触れ、チュッと音を立てて強く吸い付く。


「ふふっ、これで蓮くんも私と一緒。蓮くんには、私の想いが顎に咲いちゃった! おでこに対して顎は“想われにきび”って言っうんだけど、受け止めた想いが赤い実になるんだよ」
「・・・・なっ! 香穂子!」
「私はおでこだから前髪で隠せるけど、蓮くんの顎はどうかな〜?」


腕にしがみ付いたまま上目遣いで見上げる香穂子は、逃げていたさっきまでとは大違い。
赤い花の咲いた顎を覆い隠す手を、じゃれるように剥がそうとする君にじりじりと追い詰められ。
そんなにじっと見ないでくれと頼みながら、今度は俺が後ずさる番なんだ。
いつもは人目を気にするのに、もっと咲いちゃえとくすくすと笑いながら、甘えて擦り寄り唇を寄せてくる。

形勢逆転とばかりに俺を困らせる・・・遊べるきっかけが掴めて楽しいのだろう。


どうすればお互いに隠せるか、見えないか。
ならば・・・・・・。


「隠せる方法が一つだけある。君の額にある想いの実も、俺の顎に君が咲かせた花も・・・両方一度に。こうすれば誰からも見られない」
「え、本当!? ・・・・んっ」


教えてと瞳を輝かせて身を乗り出した香穂子の腰を素早く攫い、唇に覆い被さり口付ける。
互いに正面から隠しあえば、俺の赤い跡だけでなく君のにきびも、誰からも見られないだろう?

君は仕返しのつもりだったけど、それはお互い様だから。
想い想われ唇から溢れる愛しさを、額の甘い実と顎の赤い花に託して熱く疼かせよう。