冗談なの? 本気なの?



普通科校舎にある購買へ寄った帰りに香穂子の教室を訪ねたら、ついさっきまでいたのだと、クラスメイトが話してくれた。何かを急に思い出したらしく、俺に会いに行くのだといそいそ駈け出して行ったらしい。君に会いたい、君はどこにいるだろうか・・・。そう想いながら捜し求めている時には、なぜか同じように俺を探してくれている香穂子に出会うことが多い。会いたい気持ちが互いを引き寄せ合うのは嬉しいな、そう思わないか?

出かけたばかりなら、まだ近くにいるだろう。だがファータを追って学院中を駆け回っていた君も、無邪気な音楽の妖精だから、捕まえたと思っても悪戯にひらりとかわしてしまうんだ。こっちに来て、私を捕まえてと心に呼びかけながら遊ぶように。


だがこうして君を探すのは嫌いではない、むしろ嬉しいと思う。どんな笑顔をしているのか、会ったら何と声をかけようか・・・と想いを馳せるひと時も楽しくて心が弾む。自然と足が向いた森の広場を歩きながら、心の目で見ればほら。目の前に君が通った跡を知らせる、金色の軌跡が残っているだろう? ヴァイオリンの弦みたいな金色の光が、君の元へと導いてくれるんだ。





「蓮くん〜!」


背後から駆け寄ってくる軽やかな足音が、心のドアをノックする。ドアを開ければ待ち切れない気持ちが先に俺の元へ届いていて、おいでと心の手で抱きしめればふわりと温かさが包み込む。じっくり熟した果実のように、会いたい気持ちも真っ赤に実った、ちょうどそんな頃。肩越しに振り向けば俺へ大きく手を振り、髪を肩に跳ね躍らせる香穂子が、風に乗って駆け寄るのが見えた。君を探し求めながら、心の中に思い描いていた通りの眩しい笑顔で。


「蓮くん、ねぇねぇ蓮くん?」
「ん・・・どうした、香穂子」


浅く早い呼吸が背中をくすぐり、背後に立った香穂子の柔らかい掌が、ぽんぽんと肩を叩き俺の名前を呼ぶ。息が切れるまで俺を求め走ってきてくれたのだと、熱さを募らせながら振り向いた・・・が、背後にいる彼女を視線で捕える間もなく途中で行く手を阻まれてしまった。頬に埋まる君の指先・・・つまり、伸ばした指先がつっかえ棒となって俺の頬を押さえていたのだと気付けば、楽しげな笑い声が耳朶をくすぐる。

まさかこんな子供騙しに引っ掛かるとは・・・。瞳を閉じて溜息を深く吐くと、前に回り込んだ香穂子が顔を覗き込み、ごめんねと悪戯な笑顔で小さな赤い舌を覗かせた。


「ふふっ、蓮くん引っかかった〜。また私の勝ちっ!」
「・・・香穂子・・・・・・」
「悪戯だなんて言わないでね? 私は本気なの」
「まさか、子供のような悪戯を仕掛けるために、俺を探していたのか?」
「ち、違うよ・・・私の本気はもっと違うところにあるの。蓮くんに会いたかったのは本当だよ」


いつの間に勝負になったのかは全く覚えがないが、香穂子が楽しいなら良いかと思えてしまうのは、惚れた弱みなのだろう。痛かった? ごめんね?と心配そうに瞳を潤ませながら背伸びをして、指でつついた頬を撫でさすってくれる手が心地良いから・・・。仕方ないなと頬も気持ちも柔らかくほどけてしまうのは、君が纏う優しい空気の力なのだろう。
撫でさすっていた手を離すと、先ほど振り向きざまに俺の頬をつついた人差し指を立て、嬉しそうに俺の前へ掲げてくる。


「今日はこっち、でも昨日は反対の人差し指だったよね。蓮くんは、明日どっちだと思う?」
「・・・・どちらも遠慮したい」
「そう? とっても楽しいのになぁ」


ね?と小首を傾けながら人差し指を立てる仕草は可愛らしいが、呼びかけられるたびに頬をつつかれては、心の休まる時がない。君に呼びかけられたら、求める心のまま素直に振り向きたい。だが楽しい遊びを覚えた香穂子は、ここ数日毎日のように俺の肩を叩きながら呼びかけては、人差し指で俺の頬を突いてくるんだ。今日もまた悪戯が待っていると用心を重ねても、その瞬間だけは綺麗さっぱり脳裏から消え去ってしまうから、あまり意味は無いな。それでも避けて俺がかわすと、君は悔しそうに唇を噛みしめ拗ねてしまうのだから。


小さな溜息を吐いて人差し指を握り締めると、無邪気にその手を振り揺さぶってくる・・・頼むから俺を困らせないでくれ。
頭痛を覚え止まらない溜息をもう一度深く吐き、指を離して踵を返すと背を向けて歩きだした。後ろから慌てて駆け寄る香穂子が俺の肩を叩いてくるけれども、振り返らずもう少しだけ待ってみようか。触れてもらえるのは嬉しいけれども、そう何度も指先で頬をふいにつつかれるのは遠慮したいのが正直な気持ちだ。

いや・・・その、香穂子の頬も同じように触れてみたいと、少しは思ったけれども。


「蓮くんごめんね。ねぇ蓮くん、こっちを向いて?」
「・・・・・・・・」
「確かに悪戯は良くないよね、蓮くんの気持ちを考えていなかった私が悪いって思うの。でもね、ほっぺに指先が埋まった時の顔がとっても可愛いし、蓮くんのほっぺが凄く柔らかくて止められなかったの。嫌ならもうやらない、ごめんね。振り向いてもらえないのは寂しいよ・・・」


ポンポン、ポンポン・・・こっちを向いてと、切なげに呼びかける見えない声が肩を叩いてくる。一生懸命に何度も呼びかけているのに振り向かないのは、さすがに心が痛んできた。君を悲しませたかったのではない・・・子供のように拗ねているのは、むしろ俺の方じゃないか。

ふと気付けば肩を叩く感触もなくなり、香穂子が呼びかける声も背後にいる気配も消えていた。少し厳しくしすぎただろうか、まさか悲しみに肩を落としたまま帰ってしまったのではないか・・・そんなまさか。焦りや不安が見る間に心を覆い尽くし、緊張のために心臓が早鐘を打ち始めた。このままにしてはいけない、すぐに君を追いかけなくては。


慌てて振り返ると俺の少し後ろで立ち止まり、背中を向けながらじっと佇んでいた。僅かに俯く顔を髪が隠し、うずくまるように丸くなる背中が一瞬泣いているようにも見えて、傷づけてしまった後悔に胸が締め付けれる。まだここにいてくれて良かった・・・と、安堵に心を緩めている場合ではないな。


「香穂子っ!」


駆け寄って前に回りこみ、俯いた顔を覗き込んで声をかけたが、それ以上動くことができなかった。愛しい眼差しを注いだ指先へ、甘いクリームを美味しそうに舐めるように、頬に触れた人差し指へそっとキスをする香穂子がいたから。反対の空いた手の平で指先を包み込むと、瞳を閉じながら静かに胸へ押し当てている。胸の中にある願いや祈りを指先へ託す仕草に思えて、声をかける事もできずに彼女を見守っていた。


「っ! やだ蓮くん見てたの。えっと、今のはね・・・」
「・・・香穂子。その、すまなかった」
「蓮くんは悪くないよ、だって毎日同じ悪戯されたら嫌だよ・・・ね。素直になる勇気があったら、蓮くんを困らせることが無かったのにって思うの」
「俺だって香穂子に会いたくて探していたんだ。君も同じように探してくれていた・・・それだけでなくこうして会えて嬉しいのに。俺こそ言葉にせず背を向けて、君を傷つけてしまったのだから。だが、素直に・・・とは?」


目の前に佇む俺に気づき我に帰ると、真っ赤に火を噴き出し固まってしまう。恥ずかしさの余り、泣きそうに瞳を潤ませ振り仰ぐ艶めきに心を疼かせていると、口づけた指先を背後へ隠してしまった。

あれは確か、先ほど彼女が俺の頬へ触れた指だ。そう気づいた瞬間に鼓動が弾け、熱さが体中を駆け巡る。肩を叩かれ振り向いた時につつかれた頬が、穴が開くのではと思うくらいに熱く脈打つのを感じる。まさか君はいつも、頬に触れた指先にキスをしていたのか? 唇が触れた指先が俺の頬に触れていた・・・つまりは、間接的にキスを届けていたのだと。

上目使いに見上げると、後ろに隠した手を前に戻していじりながら、心にある想いを少しずつ言葉にしてくれる。急かさず焦らせないように、じっと息を潜め香穂子を見つめていた。


「一番最初はただの悪戯だったの、ほら蓮くんこういう遊びしなさそうだからどんな顔するかなって興味があって。でもね、指先が蓮くんのほっぺに触れたら吸いつくように柔らかくて、シルクみたいに滑らかで・・・また触れたいなってずっと思ってた。何度もやるうちに癖になってやめられなくなっちゃったの。ほっぺに触りたいだなんて、恥ずかしくて言えないもの」
「そうだったのか、ならば言ってくれれば良かったのに。俺は構わないが・・・いや、触れて欲しいのは俺の望みでもあるのだし。何でもない、気にしないでくれ」
「あの、えっとそれって・・・。ほら! 指先とほっぺが触れるとチュッてキスしてるみたいでしょう? やり方はちょっと子供っぽかったけど、私から蓮くんにキスしたいって言えなかったから、肩を叩く前には触れる人差し指に、心をこめてキスをしていたの。でね、連くんのほっぺに触れた指先にも唇で触れて、キスを移していたんだよ。私ってば恥ずかしいよね・・・」


ごめんね、もうやらないよと硬く眼を瞑り俯きながら、伸ばした人差し指を強く握りしめている。私は本気だと、真っ直ぐ俺を見つめながら言っていたのは、悪戯ではなく恋心だったんだな。音色と同じように向かう先は俺だったのに、気づけずちゃんと受け止められなかった自分が口惜しい。まだ、間に合うだろうか? 

恥ずかしがり屋の君がねだるキス・・・。
ポンポンと肩を叩き、振り向いた俺の頬を指先で突いていたのは、上手く伝えられなかったキスを届けるため。
いや・・・素直になれなかったのは、お互い様だな。俺だって、触れ合う近さを感じて嬉しかったのだから。
言わせるのではなく、想いを受け止めた俺が求め、愛しく想う気持ちを届けなくてはいけなかったのだと思う。


「香穂子、そんなに強く自分の指を握りしめては、手を傷めてしまうぞ。ヴァイオリンを弾く大切な指だろう? 君だけにしか奏でられない音があるのだから、大切にして欲しい」
「うん、ごめんね」
「触れたいと・・・キスをしたいと素直にそう伝えてくれたら、俺は喜んで君を受け止めたのに。だがふいうちに頬へ触れるのは、悪戯な人差し指だけでなく、本物の唇であって欲しい。・・駄目だろうか?」
「蓮くん・・・駄目じゃないよ、すごく嬉しい。じゃぁ、えっとね・・・蓮くんにキスしてもいいかな? あ!ここは森の広場だから、もちろん後でだけどね」
「では放課後に、いつもの練習室で・・・待っているから」


君だけに聞こえる吐息で囁くと、もう悪戯しないからと誓う大きな瞳が熱く潤みだす。組んだ手を恥ずかしそうにいじりながら、赤く染まった頬で上目使いに見つめる微笑みに、何度も恋に落ちて捕らわれるんだ。瞳を緩めて返事をすると香穂子の手を包み込み、ゆっくりと伸ばされたままの人差し指を温もりで解きほぐして。では俺からも、誓いのキスを届けるように悪戯な人差し指を掲げ持ち、そっと唇へ押し当てよう。

君からのキスを本当は待ち切れないのだが、放課後まで少しの間我慢をするために、今これだけは許してほしい。