いちごびより
香穂子と過ごした昼休みを終えた月森が教室に戻ると、脚を一歩踏み入れた瞬間に、ふわりと甘酸っぱい苺の香りが広がった。その香りを色で例えるなら、思いだしただけで緩みそうな頬を、クールな表情で必死に押さえる、彼の心のままを現したピンク色だろうか。
一斉に注目した視線の意味が分からず、月森は不快そうに眉を寄せながら、足早に自分の席へ戻った。遠巻きに注目されるのは慣れているが、あまり気持が良いものではない。一体何なのだと溜息を吐きながら椅子を引き、それでも沈みそうな心を浮き立たせてくれるのは、さっきまで一緒に過ごした香穂子の温もりがまだ自分の中に宿っているから。
指先で潤みをたたえる唇にそっと触れれば、重ね合わせたばかりの記憶が蘇り、香穂子の唇という果実の甘さと優しさが熱く疼くのを感じる。
ふと我に返り慌てて気を引き締めて、午後の授業は音楽史か・・・その後は移動教室でアンサンブルだったなと。自分に注がれるどこか浮ついた視線を気にしないように、机から教科書を取り出しかけた月森が、顔を上げた瞬間驚きに目を見開く。むっと睨みつけるのを気にせず、クラスメイトの内田が身を乗り出し、頭の先から丁寧にくんくんと鼻を揺らしながら香りの源を探っていたからだ。
「・・・!」
「ん・・・やっぱり苺だ、間違いない。この苺の香りの源は、月森お前だな」
「おい内田、一体何なんだ」
「なぁ月森。お前、苺が好きなのか?」
「は!? 苺?」
ここ数日、昼休みを終えると毎日のように月森が、苺の香りを身に纏って教室に戻るのだと、2年A組の密かな話題となっていた。一体その香りは何なのだろうか・・・なぜ午前中は平気なのに、昼休みを終えた後から甘い香りにつつまれるのだろうかと。そこまで考えると彼の恋人である普通科の日野香穂子が思い浮かび、想像力を掻き立てられるあまり、誰もがもしやと顔を赤らめ口を噤んでしまっているなどとは、本人は気づきもしないだろう。
「好きか嫌いかとと言われれば、苺は・・・好きだ」
「へ〜月森が苺好きだったなんて、意外だな。きっと普通科の彼女の影響なのかな。ほら、相手が好きな物が自分も好きになるって言うだろう?」
「そう、かも知れない。彼女も苺が好きだから。昼休みに、香穂・・・日野とよく一緒に苺を食べるんだ。その、昼食のデザートに・・・」
本当は苺ではなく、瑞々しく潤む苺味の唇を食べているのだが、多少の苦しさと気まずさは耐えなければ。本当はキスを分かち合い、お互いの苺を食べ合っていたと、知られるわけにいかない。
初めてのキスの記念に、香穂子が買ったのは大好きな苺味のリップバーム。月森と交わしたきゅんと甘酸っぱいキスの味をいつまでも唇に留めておきたいのだと、頬を桃色に染めながら言われたら、何度でも唇を食べ・・・いや、キスで塞ぎたくなってしまうんだ。昼食後のデザートは苺を食べる・・・リップバームをお互いの唇にそっと塗り合い、苺の香りに包まれるキスを交わすのは月森と香穂子二人だけの秘密だった。秘密と言うよりも、照れ臭すぎて言えるはずがない。
だがまさかリップバームとキスの残り香である苺の香りが、教室に甘く優しく漂っていたのだと、知らないのは香りを纏う本人ばかり。珍しく顔を赤らめ口もる月森は、嘘が吐けないだけに何かを隠しているのが丸見えで、ここ最近驚くほど豊かになった表情を、内田が興味深そうに眺めていた。
「自分では分からないが、そんなに香るだろうか」
「昼休みが終わると必ず苺の香りがするから、誰だろうって探していたんだ。別に不快な香りじゃないぞ。食べたくなる美味しそうな香りっていうのかな、最近苺味の食べ物にでも凝っているのかと思ったんだ。あ、でも月森を食べたいとは思わないから、安心してくれ。香りが残るくらいに、俺も苺が食べたいな・・・でもあれ?今は苺の季節じゃ、ないよな」
苺・・・と聞いて月森が微かに目を見開き、動揺したことを、机の正面に立つ内田は見逃さなかった。
この甘酸っぱい苺は食べ物や化粧品などに使われる、どちらかというと女性が好みそうな香りだろう。むっと睨み据えす視線を気にした様子もなく、犬のように寄せる内田の鼻先と視線が、顔のある一点・・・艶めきを放つ唇に注がれる。
月森は必死に隠しているが、苺の香りが唇を潤すリップクリームなのではと、そう気付いたのはつい最近だった。かさつきが気になれば、男子だってリップを使って手入れをするし、月森の唇が午後になると潤っていることも、別に気にすることも無い。そう誰もが言い聞かすけれど、彼が苺味を自ら進んで選ぶとは想像しがたいだろう?
いや・・・普通科の日野香穂子と恋仲になってから、雰囲気や表情も柔らかくなり、時折笑顔まで見せる変わり様だ。本人はいたって無自覚なのだろうが、恋とは感性をも大きく変えるのかも知れない。きっと彼女がお揃いにと手渡すのだろうか、シンプルだった携帯電話に、可愛いらしいストラップが付いたことも知っている。
「・・・・っその、果物の苺ではなく苺味なんだ。少しだけと思っていても、つい美味しくて食べ過ぎてしまう。だから香りが残る・・・と思う」
「甘いものは苦手そうなのに、香りが残るほど食べるなんて、よっぽどその苺味は美味しいんだろうな。この間月森が忘れた楽譜を、日野さんがわざわざ教室まで届けに来てくれただろう? 日野さんも同じ苺の香りがしたから、みんなが余計に気になるんだよ。一緒に同じものを食べるなんて、仲良しだなって」
「え!? いや、それは・・・っ、君には関係ないだろう」
「関係なくもないぞ、授業ではお前とアンサンブルを組んでいるんだし。午後に月森がヴァイオリンを弾くと、音色まで甘酸っぱい苺のようだって最近評判だぞ。合わせる俺も苺にならなくちゃいけないのかと、そう思うんだ」
「・・・っ!」
今までならば、君には関係ないの一言で冷たく一蹴していた月森も、恋人の話になると無意識に表情を緩めてくる。日頃堅い月森には嬉しい変化だからこそ、不器用な二人の恋を見守りたいと思うし、ここぞとばかりに突っつきたい悪戯心が沸き上がってしまうんだ。赤い苺がここにも一つだな、苺は春の果実なんだろう?
目を丸くして驚く月森に内田がそう告げると、反論する言葉を飲み込み、たちまち顔を赤らめてしまう。赤く顔を染める月森が珍しいと、遠巻きに驚く視線を背中で感じながら、ごちそうさまと心の声で呼びかけて。午後の授業開始を知らせるチャイムに急かされ席を離れた。月森が弾く今日のヴァイオリンも、きっと苺の音色に違いない。