いてくれてありがとう



「おい、かなで。起きているんだろう? 入るぜ」


わざわざ神戸からお前に会いに来たというのに、出迎えのキスどころか、その本人さえもいないというのはどういうことだ。しかも代わりに俺を出迎えた如月が言うには、今日は部屋から出た気配もなく、朝食にも起きてこなかったらしい。まだ休んでいるんだろうと言っていたが・・・おい、もう昼前だぜ? 

眉根を寄せながらドアをノックする音に、部屋の中から小さな返事が返ってきた。菩提樹寮の女子棟、小日向かなでの部屋に辿り着いた東金千秋が、今かまだかと握り締めていたドアノブを押し開くと、ベッドに寝込んでいた身体を起こそうとする小日向が、毛布の中でもぞもぞと必死に身動いでいる。


「ごめんなさい、千秋さん・・・」
「なんでお前が謝るんだ?」
「だって、お迎えのキスできなかったし・・・着替えもしてないし。それに、えっと・・・」
「いいから無理するな。起き上がれないのなら、そのまま寝てろ」


肘で上半身を支えるものの、起き上がるまでの力が入らないらしく、どうやら苦戦していらしい。ベッドへ歩み寄りながら「そのまま寝てろ」と、やんわり制止の声をかけて枕元へ腰掛ける。冷却シートが張られた額に手の平を当てれば、感じる熱さに驚く。焦点が少しぼやけた蕩ける眼差しと、いつもより精彩の欠けた顔色・・・それでもすまなそうにじっと見上げる潤んだ瞳へ、笑みを向けた。


「“寮の玄関までお迎えに出られないので、私の部屋に来て下さい・・・”と。さっきお前がよこしたメールは、やけに積極だと心が躍ったが。なんだ、またいろいろ考えすぎて知恵熱出したのか」
「知恵熱じゃありません・・・風邪、ひいちゃったんです」
「俺が今朝神戸を発つ前に、何か欲しい物はあるかとお前に電話したじゃねぇか。かなでのリクエストに応えて、わざわざ極上のプリンを買ってきてやったんだぞ。何でそのときに、風邪引いて寝込んでいることを話さなかった?」
「そ、それは・・・・」


はだけた毛布を引き上げ肩まで覆いながら、笑みを引き締め隠し事は許さないと、心の奥まで射貫く強さで真摯に瞳を見つめた。東金の視線を受け止める小日向は、戸惑い揺れた心を隠すように、毛布の端をきゅっと強く握り締めながら、熱で赤く染まった顔を鼻先まで毛布の中へ埋めてしまう。

怒っているんじゃない、お前を心配してるんだぜ。まぁ、根を詰めすぎることに関しては、俺も人の事は言えねぇがな。
張り詰めた空気を緩め吐息を零しながら、そう告げて額に張り付いた前髪を優しく払った。大きな手が心にまで触れてくるような、じんわりと広がる温かい感覚に、再びちょこんと顔を覗かせた小日向が、想いを確かめるように言葉を紡いでゆく。


「ごめんなさい・・・千秋さんに、会いたかったんです。具合が悪いことをとを伝えたら、横浜に来るのを止めてしまうかと思ったから・・・。お薬飲んだし、一眠りしたらすぐに元気になる予定だったんです」
「俺もかなでに会いたかったから気持ちは嬉しい、だが寝込んでいちゃ何もできねぇだろうが。演奏家は身体が資本だ。自分の身体を管理できなくてどうする。俺にかかれば遠距離なんて関係ない、横浜にはいつでもすぐに来られると言ってるだろう」
「心まで風邪を引いちゃったのかなぁ。一人で居ると心細くて、傍にいて欲しくて・・・いつもなら待てるのに、会いたい気持が止まらなかった。目を瞑っていても、千秋さんの顔が自然と浮かんでくるんです」


風邪を引いていると分かっていても、どこか色香を感じる潤む瞳とけだるげな表情に、跳ねた鼓動が熱く走り出す。いつもなら顔を真っ赤に染めながら照れるのに、珍しく素直に甘えてくるのは、理性の感覚が熱で失われているからだろうか。からかって羞恥心を煽るつもりが、無自覚でも積極的に迫られたら・・・俺の方が照れ臭くなるじゃねぇか。調子が狂うぜ。


何か欲しい物があるかと、神戸を経つ朝にかなでの携帯へ電話したら、わずかに擦れた声で「桃の缶詰か甘くて蕩けるプリンが食べたい」とリクエストしてきた。相変わらず色気より食い気だなと電話越しにからかうと、少しの沈黙の後で「千秋さんのキスも欲しいです・・・」と耳元で熱く囁いたんだよな。


もしかして、風邪ひいたとき食べたいものだったのかと尋ねれば、耳まで真っ赤に染まりながらコクンと頷いた。心を預けられる相手だからこそ、弱ったときに甘えたくなるというわけか。俺を使いっ走りにするとは、贅沢なヤツだな。何なら、俺が食べさせてやろうか?

だがここだけは首を縦には振らず、自分で食べられるのだと必死に否定してくる。俺が食べさせたらキスもしてくると思うし、風邪とは違うお熱が出るから・・・だそうだ。確かにな、お前が美味そうに味わう唇が、俺も食べたくなると良くわかってるじゃねぇか。


「お前が寝付くまで、傍に居てやるよ。今日はゆっくり休め」
「・・・眠りません、ずっと起きてます」
「珍しく、素直じゃねぇな。休息が一番の薬だぜ?」
「私が眠ったら、千秋さん、そっと静かに帰っちゃうんですよね。目覚めたときにいないのは、寂しいです」
「馬鹿、なに泣きそうになってるんだ? 俺と離れるのがそんなに寂しいのか、可愛いやつだ。日帰りの予定だったが気が変わった、今夜は菩提樹寮に泊まる手配をしたから明日に帰る。いいか、それまでに一晩で風邪を治せ」
「がっ、がんばります・・・!」


健康でいられること、美味しい物を食べられること、すぐ傍に大好きな人がいてたくさんの話を聞いてもらえること・・・。ささやかな一見ありふれたことに、たくさんの幸せが込められているんのだと。喉が擦れた声を振り絞りながらも、嬉しそうに語るお前の言葉が、温かな光になって俺に降り注ぐ。


「千秋さん、あの・・・傍にいてくれて、ありがとうございます。心にたくさんお薬もらったから、明日には元気に復活できそうです。風邪菌なんて、成層圏の彼方へ吹き飛んじゃいますよね」
「お前の可愛い寝顔をずっと眺めながら、大人しくしているんだ。元気になったら、たっぷり埋め合わせしてもらうからな・・・このキスの続きごと」
「え? キス・・・?」


手を出せと告げた手短の命令に、素直に差し出された手を両手で包むと、シーツの上で指先ごと絡めながら握り締めた。
お前が神戸に来たら、毎朝こうして朝を迎えてやるぜ?とニヤリ笑みを浮かべれば、真っ赤に照れながらもきゅっと返事のように握り返してくる。

風邪薬を飲んだのなら、あとは心の薬だな・・・そう緩めた瞳と微笑みごと、手を握り締めたままゆっくり覆い被さって。しっとり重ねるキスから、触れ合う唇越しに想いを注ぎ込んでゆく。目覚めたときに俺が居て欲しいなんて、最高の誘い文句だって分かってるのか? 今すぐにでも、お前を神戸に攫っちまいたくなるじゃねぇか。


澄み渡る青空と、優美に浮かぶ真っ白な鱗雲。秋風が黄金色に輝く木漏れ日を揺らし、柔らかな日だまりを感じて寛ぐ秋日和。夏の太陽を浴びて命が輝く鮮やかさとは違うが、深まりゆく実りの秋は、深紅の薔薇と芳香で薫り高いワインのように、ゴージャスだ。それでいて、心地良い秋風と心安らぐ日だまりは、どこまでも優しくエレガントに。

俺とお前に、ぴったりな季節だと思わねぇか? 小春日和のテラスで、暢気にひなたぼっこをしている場合じゃないぜ?
お前を包むのは錦に彩る木々でも、小春日和の日だまりでもない・・・この俺だからな。