痛みを伴う予感

週末の学院内は、休日をどう過ごすかという話題で持ちきりだ。部活やレッスン、コンサートに行く者、友人達と出かける相談をしている者など・・・。授業の合間の休み時間から少しずつ交わされ始め、昼休みには一層賑やかさを増して落ち着け無いほどに。そして高まった皆の期待がホームルームが終ると同時に、一気に弾け飛ぶ。


今頃君も、明日からの休日をどう過ごすか、仲間達と楽しげに会話をしているのだろうか。
そう思うと心の底に鈍い痛みが走り、息苦しさに眉を顰めた。
またこの痛みだ・・・そういえばここ最近ずっと・・・いや、昼休みにも同じ痛みを感じたばかりだったな。


君が好きだと・・・心の中にある想いを自覚してから、一人で過ごす休日が好きでは無くなった。
一人が寂しいのでもなく、耐えられない訳でもない。君が他の誰かと過ごすかも知れないのが嫌なのだと、気が付いたのはつい最近の事だ。一緒に過ごしている時が、楽しく充実しているから余計に。


「なぁ、月森は何か予定があるのか?」
「いや、俺は別に・・・。練習があるので失礼する」
「あっ、おい・・・!」


前の席に座るクラスメートが背後を振り返り、クラス中の皆が交わすのと同じ質問を訪ねてきた。挨拶と変わらない他愛のないものだろうが、興味本位で聞かれるのは迷惑だ。短く言葉を返して席を立ち上がると、ヴァイオリンケースを手にして教室を後にした。







日野が他の誰かと楽しげに話し、笑いかけるだけで苦しさが込み上げてくる・・・それが俺以外の男子なら尚更だ。
昼休みに普通科校舎のエントランスで、クラスメイト達と談笑する彼女を見かけた。君は遠くから俺に気が付き、声を掛けようとしていたのに。視線を合わせておきながら、俺は何もせず逃げるように踵を返してしまった。


振り向く瞬間に視界の隅に捉えた悲しそうな顔・・・。
なぜあんな態度を取ってしまったのだろう、きっと自分のせいだと責めているだろうか。まだ想いを交し合った訳では無いのだから、君を束縛できる権利など俺には無いと分かっている。嫉妬に苦しむ痛みを抱えていたなんて、知られたく無かったんだ。


目に浮かぶのは、真剣で真っ直ぐに向かって行き「大丈夫だよ」と笑いかける日野の姿。
辛いときでも諦めず、周りを思いやる事を忘れない君に、俺は焦がれずにはいられない。
昨日も会ったのに今日も会いたくて、朝会ったのにまた会いたいと・・・気づけは視線で追い求め、考えてばかりだ。
良くも悪くも隠せない想いは、自分が気づかぬところで音色となっても現れるらしい。


なのに真っ直ぐ見つめられると、閉じ込めた熱さが堰溢れだし、飲み込まれてしまう。伝えたい言葉も上手く語れず、時には顔さえも真っ直ぐ見れないもどかしさが、余計に苦しさを増して熱さを溜めるの繰り返し。
俺は一体どうしてしまったのだろうか。一人の週末や休日には特に、こんな痛みを感じる事が多くなった気がする。





落ち着きたい気持と君に会えるかもという二つの想いに導かれ、練習室へと向けていた足は、いつの間にか屋上へと向いてた。身体と言うのは心に正直なのだなと、我ながら苦笑せずにはいられない。屋上の重い扉をゆっくり押し開けば、溢れた光りと共に頬を撫でた涼しい風が通り抜け、燻ぶった熱を中から沈めてくれる。


重なる音色や互いの手がふと触れ合った瞬間、真っ直ぐ見つめる瞳や笑顔に・・・もしかしたらと自惚れたくなる時がある。今はまだ俺たちにやるべき事があるし、気を乱してしまってはいけないから。想いを伝えるのはまだ早いと自分に言い聞かせつつも、一歩を踏み出せない俺は、きっと傷つく事を恐れているのかも知れないな。
痛みさえ自分の物として受け止めようとする君とは大違いだ。


数歩進んで、どこまでも晴れ渡る青空を仰ぐ。瞳を閉じて光りと風を受け止めながら大きく深呼吸をすると、空が心の中へいっぱいに広がるようだ。練習室を予約していたが、せっかくだしこのまま屋上で曲を奏でようか。風が俺の音色を運んでくれると、そう思うから。だが眼を開けて何気無く視線を動かせば、青空の中にポンと溶け込む赤い色に目を奪われた。


「・・・・・・日野?」


やはり君も来ていたのかと、安堵のような嬉しさが込み上げ自然と頬の緩む自分がいる。ヴァイオリンの練習でも読書でもなく、普通科の制服を着た赤い髪の少女・・・日野が、壁の前に佇みじっと見つめていた。いつもは空を振り仰いでいる君なのに、壁を向いているとは珍しいな。


屋上の壁に何かあるのだろうかと歩み寄ったが、何も変化も無い。隣に佇んだ俺にも気づかずに集中して自分の世界に入り込み、抱き締めたいほど苦しげな表情で眉を寄せている。曲想を練っていたり考え事ならば邪魔をしては悪いと思うが、どうにも放っておけなくて。そっと覗き込むと、驚かさないように気を配りつつ静かに声をかけた。


「日野? どうかしたのか?」
「・・・・・へっ!? え、あ・・・月森くん! ごめんね、ボーっとして気がつかなかった」
「驚かせてすまない。誰もいないかと周りを見渡したら君がいた。苦しそうな顔をしていたが、具合が悪いのか?」
「だっ、大丈夫だよ、心配かけてごめんね。元気だよ、ちょっとだけ考え事をしていたの」


呼ばれて我に返れば、すぐ目の前にある心配そうな俺の顔に驚き、慌てて数歩後ずさってしまった。俺だと分かると日野の頬がみるまに赤く染まってゆく。落ち着いてくれと優しく頬を緩ませれば、はみかみつつ小さく肩を竦めてみせる。両手を広げて大きく深呼吸をすれば、広がる青空を胸いっぱいに吸い込んだ笑顔。先程までの曇り空とは違い、空の青に溶け込んだ瞳が清々しく輝き溶け込んでいた。

俺の手元にあるヴァイオリンケースに目を留めた日野が、何かを言いかけたが口を閉ざしてしまう。辛抱強く言葉を待っていると、両脇の手をきゅっと握り締め、真っ直ぐ振り仰いで見つめてきた。吸い込まれそうな、澄んだ瞳で。


「月森くんは、これから練習なの? もし邪魔じゃなかったら、私もここにいて演奏を聞いてていいかな」
「あぁ、君の好きにしたらいい。それと、昼休みはすまなかったな・・・声も掛けず去ってしまって」
「うぅん、月森くんは悪くないの。私もね、昼間の事を謝りたかった・・・せっかく声を掛けようとしてくれたのに、ごめんね。姿を見た時には凄く嬉しくて、あの後追いかけたけど見失っちゃった」
「・・・そうだったのか。他にもクラスメート達が大勢いたし、離れてたから仕方無い・・・気にしないでくれ」
「ありがとう。ふふっ、月森くんが遠くからお〜いって呼びながら手を振るのとか、ちょっと想像出来ないもんね」


今こうして会えたからもういいのと小さく笑うと、さっき後ずさった分を取り戻すように再び歩み寄ってきた。
良かった・・・いつもの君に戻ってくれて。悲しませるつもりはなかったのだと、ずっと言いたかった。
些細な事だけれども、心に刺さった小さな棘は俺も君をも苦しめるから。

俺はいつも君に救われているな・・・と思う。
自己嫌悪に陥りそうな心を包む優しさが、刺さった棘ごと溶かして透明な雫へと変えてしまうんだ。


「静かな場所を探して・・・いや、もしかしたら君に会えるかも知れないと屋上に来たら、本当に君がいて驚いた。壁を見つめていたようだが、日野は何をしていたんだ?」
「屋上にくれば、月森くんに会えるかなって思ったの。でね、ちょっと考え事してたんだけど・・・ねぇ月森くん。月森くんには、これ何に見える?」
「何って・・・日野がさっきまで眺めていた壁だろう? 特に変わりは無いようだが」
「うん、そうなの。やっぱり月森くんにも壁に見えるんだね」
「・・・は!?」


良かったとそう言って嬉しそうに頬を綻ばせ、後ろに手を組みくるりと回って見せる。ふわりと舞い広がる制服のスカートに目を奪われた一瞬後、いつの間にか懐に飛び込んだ君が小さく笑っていた。やけに楽しそうだが、壁以外に何に見えるのか教えて欲しい。君の考えは俺の予想を大きく超えて、驚きや新たな発見をくれるから、きっと今の問いも深い考えがあるのだろう。ならば追求せず、君の流れに身を任せて声に耳を傾けようか。


期待を膨らませわくわくとした表情と輝く瞳に捕らえられ、鼓動が熱く高鳴ってゆく。
手の平で皿のようなものを作ると、大切なものを乗せて披露するように俺へ差し出してきた。


「じゃあもう一つ質問するね。月森くんには、私の手の中にあるものが、何に見える?」
「・・・・・・新手の心理テストか謎々なのか? すまない、俺には君の手の中に何も見えないんだが・・・」
「・・・そっか〜残念、月森くんなら見えると思ったのに」
「いや、その・・・日野!?」


差し出された手の平を引き戻し、しゅんと悲しそうに俯いてしまった日野の表情を、流れ落ちた赤い髪が覆い隠してしまう。俺は一度ならず二度までも、君を悲しませてしまうのか。どうか顔を上げて欲しいと、だが答えも考えなくてはと、焦り慌てるしか出来ない自分がもどかしい。


どうしたらいいだろうかと困り果てていると、小さく肩を震わせ、堪え切れないとばかりに声を立てて笑い出した。
楽しそうな姿に振り回された・・・そう気づいて眉を顰める俺に、赤い下をちょこんと覗かせて悪戯っぽい笑みを向ける君。諌めようとしてもどうしても憎めず、逆に愛しさが込み上げるばかりなんだ・・・そんな君が好きなのだと。


「ごめんね月森くん、だって本当に何も入ってないんだもん、真っ直ぐな月森くんらしくて嬉しくなっちゃった」
「日野・・・・・」
「ずっとこの事を考えていたの。目に見えるものはちゃんと壁だって認識できるけど、見えないものってなかなか気づかないじゃない。もやもやして正体が分からないから、どうしたらいいか分からなくて悩んだり。でも気づかなければ、ずっとそのまま。自分の中にある乗り越えなくちゃいけない見えない壁って、手の平の中にみたいな物かなって思ったの」
「まずは形の無い物を、あるものとして認識する事からはじようという訳か。自分自身にしっかり向き合う・・・君らしいな。以前聞いたんだが、壁は乗り越えられる者の前にしか現れないそうだ。形が生まれれば、自分の取るべき道も現れるだろう」
「乗り越えなくちゃいけない形が見えたから、勇気を持って頑張れば大きくなれるかな・・・近づけるかな」
「あぁ、君なら必ず」


前向きだな君は、そう言うと自慢げに胸を張って大きく頷いた。そんな君が眩しくて緩めた頬と瞳で微笑むと、驚きに目を見開き、薄っすら顔が赤く染まったように見えたのは気のせいだろうか。固まって立ち竦んだままの日野の脇を通り過ぎ、側にあったベンチに腰を下ろしてヴァイオリンケースを置いた。


「日野・・・?」
「そうだよね、壁は乗り越えなくちゃね! 月森くん、今そっちいくから待っててね」
「あぁ・・・っ、おい、日野!?」


後ろを向いたままの彼女に呼びかけると、くるりと踵を返し満面の笑顔で振り返る。
少し下がって助走をつけながら走ると、大きな水溜りを飛び越えるようにポンと両足高く宙へ踏み出した。
このまま空へ飛んでいってしまう不安が弾け、君を地上へ引き戻そうと咄嗟に腰を浮かしかけて。
逆光の太陽の中に溶け込んだ君を見失った次の瞬間、ベンチに座る俺の目の前に飛び込んできた。


まさか・・・そんな。


呆然と見つめる俺に、飛び越えてきちゃったとそう言って。
頬を赤く染めてはにかむ笑顔に、今までとは違う甘い痛みが心を締め付けるのを感じた。
心地良い痺れのような・・・もっと浸っていたいような。君を想う痛みは、苦しいものだけでは無かったんだな。


「月森くん、あの・・ね。明日の土曜日、何か予定あるかな? もし良かったら、一緒に練習しない?」
「俺で・・・いいのか?」
「うん! 月森くんと一緒がいいの」
「明日は特に用事がないから、ぜひ一緒に練習させてくれ。時間があったら、どこかへ出かけようか」
「本当!? やった〜凄く嬉しい。明日は天気になるといいね」


手を叩いて喜びはしゃぐ日野が、俺の隣へぴょこんと腰を降ろし、いそいそと距離を詰めて間近に振り仰ぐ。
あまり近付くとヴァイオリンが弾けないんだが、寄り添っていられるのが俺も嬉しいから、暫らくはこのままでいたいと思う。そうか、俺も乗り越えなくてはいけないな・・・君と同じように。


「明日は君の家まで迎えに行こう。もし良けば、今日一緒に帰らないか? 今日や明日だけではなく、明後日もその次の日も、ずっとこれから・・・」


想いを込めて微笑みを注ぎ、優しく語りかける自分の吐息が熱い。
受け止めた日野の瞳が微かに見開かれ、僅かの後に潤み出した雫を指先で拭う。
朝露の煌きを残す笑顔で大きく頷いた日野の手が、伸ばされかけつつも躊躇いを見せ、引き戻してしまった。
ならば、あと一歩の勇気は俺から・・・交わす瞳と共にその手を重ね、そっと握り締めた。


日野に出会う前までは、心がこんなにも動くことが無かった。動かす必要も無かったし、そうなるとは想いもしなかったから。心地良さだけでなく甘く痺れるものや、時には痛みもあるけれど、それこそがまさしく動いている瞬間。
だが喜びや心地良さに満たされ、一緒に笑い合ったり心のまま正直になれた自分が、今は少しだけ誇らしいともも思える。





嫉妬からくる不快感や自分自身のもどかしさ・・・心の中にある雨降り前の重く淀んだ雲のようなもの。
それだけではなく、蕩かされそうに疼く甘い痺れなど。
君を愛しく想うたびに、きっとこの先も様々な痛みを感じる事があるのだろう。


喜びだけではなく苦しみを覚えることもあるけれど、抱える痛みも喜びも甘さも愛しさも・・・全てが自分の一部。
同じ心が喜びや幸せを感じるのだから、たくさん入るように心も動いた方がいい。
君を想い、今ここで生きているという証なのだから。