今更だけど言わせてよ




かなでの姿を探して菩提樹寮のラウンジへ行くと、窓際の床へ座り込み、夜風に当たりながら眉を寄せていた。開け放った窓から吹き込む涼しい風を受け止めながら、恐らく風呂上がりの火照りを冷ましているのだろう。どうやら夜空へ向かって考え事をしているらしく、右?左?と小さく唸るたびに、洗い立ての髪が振り子のようにふわふわ揺れ動く。


そうしてふいに動きが止まると、緩めた頬で幸せそうに微笑んだり。そうかと思えば指先でそっと唇を押さえる顔が、見る間に赤く染まり、両手で頬を押さえながら一人で照れてしまうんだ。照れ臭さに茹で上がるほど何を想い描いているのか、気になるじゃねぇか。まぁ、あいつがが真っ赤に照れることと言ったら、ある程度限られてくるが。


「ん〜右だったかな、それとも左? やっぱり右だったかも・・・」


かなでの隣へ膝を付くが、俺に気付く気配はない。夢中になるほど、右か左かという事は、どうやらかなでの中で重大な問題らしい。くるくる変わる表情が面白いから、あえて声をかけずに見守っていたが、そろそろ俺に気付いても良い頃だろう? 気付かないなら俺の存在を知らせるまでだと、ニヤリと笑みを浮かべた東金が、静かに身を屈め顔を寄せて行く。


かなでが気に入ってるリップグロスの艶めきに誘われ、触れたい衝動に駆られてしまう。まるで甘い蜜を湛えた花に引き寄せられる、蝶のように。きめ細やかで潤いに満ちたふっくらさと、健康さを感じさせる自然な桃色が、キスをしたときの感触さえも呼び起こすからだ。その艶めきは、いつでもキスはOKだと合図をしているようにしか見えないぜ。


「私は右だと思うの・・・たぶん。真っ直ぐにしていても、私から見て左に傾くということは、千秋さんは右に傾けているんだよね。でも目を閉じちゃうから良く分からないし・・・正直覚えてないなぁ。というか、思い出すのも恥ずかしいよ。ん〜でも、気になるなぁ」


あと少しで唇に触れる直前で、ふわりと鼻腔をくすぐる甘く爽やかな柑橘系の香りに、思わず鼓動が飛び跳ね動きが止まる。この香りはマンダリンオレンジだな、俺が気に入っているオレンジの香りをグロスに使うなんて、ずいぶん意味深じゃねぇか、そんなに食べて欲しいのか? いいぜ、リップグロスが落ちるくらいに、お前ごと食べ尽くしてやる。

だが、じんわりと無意識に募り出す熱を感じるよりも早く、東金にようやく気付いたかなでが、驚きに瞳をを丸くした。


「・・・っ! ち、千秋さん!? もう〜びっくりするじゃないですか」
「やっと俺に気付いたか・・・と言いたいが。キスの直前で驚くヤツがあるか、キスをするときには目を瞑るもんだぜ」
「だって気付いたら、突然目の前に千秋さんの顔があったんだもん。しかもキス・・・しようとしてるし、びっくりしちゃいますよ。いつからそこに居たんですか。声かけてくれれば良かったのに〜千秋さんのイジワル」


華奢な肩を抱き寄せれば、驚きと羞恥で真っ赤に頬を染めながら、勢いよく身を乗り出してくる。フローリングの床をポスポスと叩き、半分涙目で照れ隠しをする可愛らしさに、すぐにでも触れたい衝動が続きを求めてしまう。だがそこはぐっと堪え、まずは「悪かった」素直に心から謝り、肩を抱き包んだら、触れずに終わったキスの続きを優しく届けた。


愛しさに緩む微笑みのまま触れ合うキスは、紅茶にミルクが溶けるように、ふわりと甘く優しく。触れたときにグロスを感じないほど、自然な粘土が心地良い。本人は真っ赤に照れるから言わないが、以前よりも増して唇に気を遣っているのは、キスを意識しているのだと俺には分かる。まったく可愛いすぎるぜ、お前は。


瞳がぱちくりと驚きの瞬きを繰り返すかなでの顔が、時間差でキスを感じ取り桃色に染まる。キスをすれば私が大人しくなると思ったら大間違いですよと、頬を膨らまし上目遣いで拗ねてくるが、間違いじゃねぇだろう? お前が俺のキスで蕩けない筈はねぇからな。


「で、お前は右か左かとぶつぶつ言いながら、何を百面相していたんだ?」
「秘密、です。恋人同士でも言えないことはあるんです・・・だって恥ずかしいんだもん」
「かなでが照れることなら大体は想像付くぜ。俺とのキスを思い返して照れていたんだろう」
「なっ、なんで分かるんですか!」
「やっぱりな・・・あれで隠していたつもりなのか? どこまで無防備で鈍いんだお前は。可愛い顔しながら、独り言で全部喋ってたぜ。傍で聞いている方が照れ臭くなるだろう」


羞恥に染めた頬で小さく俯きながら、もじもじと組んだ両手を弄り始めた。キスについて考えていたのは本当だと、時折上目遣いで困ったように振り仰ぎ、ぼっと火を噴き出してはまた俯いてしまう・・・の繰り返し。そんな時にふと気付いたら、俺の顔が唇がすぐ目の前にあって驚いたのだと、照れながらも真っ直ぐ伝える想いの熱さが、心も身体も火照らせる。


「えっと、その・・・。キスをするときに、顔を右と左のどちらに傾けていたかな?って、考えていたんです」
「は? それをずっと考えていたのか? かなでも俺も、右に決まっているだろう。もしもどちらかが左に傾けたのなら、向かい合うお互いが同じ方向だから、鼻先がぶつかる。キスができないくらい、冷静に考えれば分かるだろう」
「れ、冷静になれないから分からなかったんじゃないですか! だって、キスするときには目を瞑っちゃうし、千秋さんが唇だけじゃなくて私の心も意識も溶かすから・・・桃色シュガーに霞んじゃうんだもん。千秋さんには当たり前でも、私には一つ一つが特別な宝物なんですっ。だから・・・大事にしたいのに、今更みたいな言い方しなくても・・」


頬や耳まで桃色に染める羞恥の熱を堪えながら、瞳を潤また強い光で真っ直ぐ振り仰ぐ。ショートパンツから惜しげもなく晒される膝の上で、きゅっと強く握り締められた拳が、心の痛みを伝えていた。泣くまいと必死に目を見開いているが、堰き止めきれない滴が、くしゃりと歪む頬を静かに伝って行く。


唇を強く噛みしめながら小さく俯き、ひくひくとしゃくり上げる嗚咽を堪える肩。涙を拭おうと伸ばした手を振り払うように、勢い良く顔を振り、嫌々をする。お前は子供かと、眉を寄せて諫めたくなる気持ちをぐっと堪え、深い呼吸で落ち着かせた。どこまでも純粋で真っ直ぐに向けられる気持ちを、ちゃんと受け止め切れていなかったのは、自分なのだから。


「今のは俺が悪い・・・すまない、かなで」
「千秋、さん?」


赤く染まる目元に光る涙を溜めて、胸元で両手を握り合わせながらそっと振り仰ぎ、俺を呼ぶ。素直な謝罪に驚いているのか、ぱちくりと瞬きをしながら、じっとその後に続く言葉を待っていた。ほら、強く噛むから赤くなっただろう? 

今度は素直に受け止めた指先で、癒すように唇を撫でるとと、「んっ・・・」とくすぐったそうな吐息を零して。キスをねだるような上目遣いが色香を誘う。


「キスにも相性があるのなら、かなでと俺の相性は最高だ。唇が触れる感触だけじゃなく、お互いに打ち合わせなくても、ぶつからずにちゃんとキス出来るんだからな。考えるだけじゃ駄目だぜ、自分の目で確かめてみろ」
「確かめるってことは、目を開けるんですよね・・・恥ずかしいです〜」
「じゃぁ、俺が目を閉じててやる。いいか、右か左か確かめるまで、お前は絶対に目を閉じるんじゃねぇぞ」
「・・・んっ・・・」


ふわりと凪ぐ夜風が俺とお前の背中を、そっと押す。耳まで赤くそまりながら、コクンと頷く背を抱き寄せると、瞳を閉じて唇を寄せた。自然と右に傾く鼻先のまま、かなでの唇に触れ合わせる瞬間、しがみつく腕にきゅっと力が籠もり、掴み腕の中で身体が小さく飛び跳ねた。


迫る俺の顔がどちらに傾いたかを見届けたお前が、真っ赤に火を噴きながら、慌てて目を瞑ったに違いない。触れるキスがいつもより熱いのは、さらけ出した互いの素直な心が一つに溶け合った証。名残惜しげにそっと離れた唇が、空気を求めて呼吸を始めたのを合図に、閉じていた目を開いた。


「ちゃんと目を開いて、答えを見つけたか?」
「はい! あの・・・千秋さんの言うとおり、やっぱり右でした。千秋さんが、たくさんキスしたくなる気持ち、私にもちょっと分かった気がします。私にキスしてくれる千秋さんの顔が、とっても甘くて蕩けちゃいそうでした」
「答えが分かったなら、もう目を開ける必要はねぇだろ。いいか、今度からは閉じるんだぜ? これ以上は別料金だ」
「別料金? お金取るんですか?」
「馬鹿、違う。風呂上がりの香りを漂わせるお前ごと、欲しいってことだよ」


睫毛が長くてすごくドキドキしましたと、無邪気に額をじゃれ合わせながら嬉しそうな笑顔が綻ぶ。そういう感想を素直に告げられると、俺の方が照れるじゃねぇか。だが俺だって、キスするお前の可愛い顔をいつも見ているんだぜ? だから癖になるし止められねぇのは、お前には秘密だが。


これはどうかな?と思いっきり首を真横左に傾け、難しい悪戯を仕掛けるかなでに「子供かお前は・・・」と。吐息を零しながらも、ニヤリと笑みを浮かべ、甘い温もりを奪うべく闘志を燃やす。ならば更に右から行くまでだぜ。華奢な両肩を掴むと下から見上げるように首を巡らせ、右に鼻先を傾けるキスを。

左に傾けるかと思ったと、少し悔しそうに拗ねる唇に愛しさを込めて、俺の全てを刻んでやるぜ。