朝一番に出会う君の笑顔は、藍色の夜空に顔を出した太陽が、瞬く間にオレンジの輝きで辺りを包む光景に似ている。おはようと真っ直ぐ振り仰ぐ元気な笑顔が、俺の中にある夜を君という朝に染め上げるから、今日も頑張ろう・・・そう思えるんだ。おはようと微笑みに乗せて返す一言が温かいのは、自分の耳にも届き、君も受け止めてくれるからなんだなと思う。
しかしここ最近の香穂子は、毎朝眠そうに欠伸をかみ殺しながら、涙の滲む蕩けた瞳でぼんやりしている事が多い。カフェのカウンター席で隣に座る香穂子が急に静かになったと思えば、肩先に感じたコツンと小さな重み。隣を向けば俺に寄り掛かりつつ、オレンジジュースの入ったグラスを握り締めながら眠りの船を漕いでいた。
楽譜を買うから付き合って欲しいと言われ、休日に待ち合わせをしたが、今朝は特に元気が無かったように思う。
勤めて笑顔で振舞ってはいるが、重い頭を必死に起こして、一歩一歩踏みしめる姿が痛々しかった・・・。
具合が悪いのだろうか? 君と過ごせる休日を俺は楽しみだったが、無理をさせてしまったら申し訳ない。
このまま寝顔を眺めていたいが、背もたれが無い椅子では転がり落ちてしまうから、起こさないといけないな。
肩にもたれかかる頭を軽く揺すり、耳元で優しく声を掛けた。
「香穂子・・・起きてくれ、香穂子」
「んぁ・・・月森くん? ・・っやだ!? 私ったらいつの間に居眠りしてたんだ、ごめんね!」
「俺の事は気にしなくていい。具合が悪いのか? それとも寝不足か?」
「ん〜寝不足・・・とはちょっと違うかな。ちゃんと寝ている筈なのに、朝起きるとだるくて疲れるの。肩凝り過ぎて頭も痛いし・・・でも大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
そう言った側から零れた、俺も移るくらいの大きな欠伸を咄嗟に手の平で覆い隠した。
大きく開けた口を間近で見られたことが恥ずかしいらしく、涙の滲んだ瞳を反らせぬまま、頬を真っ赤に染めてしまう。小さく微笑めば拗ねて顔を背けてしまい、こきこきと首や肩を回してみたり、腕をさすって揉み解し始めた。
なぜ眠れぬ日々を過ごしているのか・・・気になりだすと全てが知りたくて。不安な閃きは、想像が想像を呼んで雪だるまのように膨らんでゆく。胸が軋む痛みと逸る鼓動が抑えられず、聞き出さずにはいられなかった。
「身体の調子は音の揺らぎにも現れている。どうして最近眠そうにしているんだ?」
「やっぱり買い換えなくちゃだめかな〜。私ね、新しい枕が欲しいの」
「枕?」
「うん、寝る時に使う枕だよ。ずっと使ってた枕が首に合わなくなったみたいなの。中身がペタンコになって、低くなったからなのかなぁ。だから新しいのを買ったんだけど、今度は高すぎて合わなくて。なかなか眠れないし、起きたら首や肩が凝って頭も痺れるし困ってるの。大切なパートナーには、なかなか巡り合えないんだよね」
「寝不足の原因は肩凝り・・・だったのか」
「もう凄いんだよ、ヴァイオリン弾いてもこんなに凝った事は無いのに。ねぇねぇ月森くん、触ってみて」
「は!?」
いそいそと背中を向け肩を差し出すと、背に落ちた髪を片側にまとめて束ね出した。俺だからなのかそれとも誰にでもなのか、相変わらずの警戒心の無さに、込み上げる苦笑と心配を隠すのにも一苦労。一瞬戸惑ったが、触ってくれとお許しが出たからありがたくそうさせてもらおう。
白い項に吸い寄せられる指先を触れる直前で握り締め、違うだろうと心に言い聞かせた。
店内という人目を気にしつつそっと触れた肩は、確かにヴァイオリンの演奏がもたらすものとは違う硬さを示していた。華奢で細いのに首まで張り詰めて・・・これでは辛い筈だ。
「枕は確かに大事だな。本来ならば安らぎをくれる場所なのに、寛げないのは辛いだろう?」
心底困った様子で肩越しに振り仰ぐ香穂子に少しだけ安堵しつつも、抱える苦しみを半分吸い取ってやれたらと思うのは本当の気持ちだ。力になりたい・・・分かち合えばきっと楽になると思うから。
労わるように撫でさすり、ゆっくり揉み解すと甘い溜息が聞こえてくる。
「月森くん、肩もみ上手いね! 凄く気持ちいい〜もっとやって?」
「・・・さぁ、肩もみは終わり。これ以上は別料金だ」
「え〜っ、月森くんのケチ! でも羽根が生えたみたいに軽くなったよ、ありがとう」
残念そうに唇を尖らせていたが、回した肩や首の軽さにご機嫌な香穂子は、嬉しそうにはしゃぎ始めた。
月森くんの肩も揉んであげようかと、目を輝かせて俺へと伸ばす手を、やんわり握り締め話を反らす。肩凝りの開放感に酔いしれて気づいてないが周りの客たちが注目していたし、それにこのまま君に触れていると、俺が熱さに耐えられないんだ。
付き合い始めてまだ間もないから、焦る必要は無いと分かっていても、走り出した想いは求めて止まない。
恥しがってなかなか名前で呼んでくれなかったり、荒ぶる想いのまま深く腕に閉じ込めたいのに、大切にしたいから優しく触れるしかない。薄皮一枚で堪えるそんな葛藤が理性を焼き切るのだと・・・どうしたら伝えられるだろう。
近そうで遠い、超えられない僅かの距離がもどかしい。
「あまり高すぎず低すぎず、何が一番自分に良いか、いろいろ試しているところなんだよ。折りたたんだバスタオルも良かったの。でもね一番気持ち良かった枕は・・・・って、これは内緒!」
「なぜだ? 俺にも教えてくれないか?」
「だって恥しいんだもの、月森くん言っても笑わない?」
「なるべく善処しよう」
もじもじと手を弄り、恥しそうに上目遣いな香穂子の仕草に行動が高まる。本当?と念を押す慎重さに真摯な気持ちで応えると、身体を寄せて耳元に手を当ててくる。頭を傾けると、内緒話のようにこっそり囁いてきた。
「あのね、腕枕なの」
「腕・・・枕? 誰の?」
「もちろん自分のだよ。横向いて寝て、自分の腕を枕に眠ると凄く気持ちいいの。高さもちょうど合ってるし、ふわふわ柔らかくて温かいし・・・でも朝になったら腕が痺れるのが欠点なんだよね」
「それで腕も痺れるのか」
「ヴァイオリンに影響しないように気をつけているんだけど、病み付きになって止められなくて。でも皆に言ったら可笑しいって笑うの。欲求不満だとか、熱いねってひやかされたり・・・ねぇ、そんなに変かなぁ」
「いや・・・変ではないと・・・思う」
良かったと胸に手を当てて安堵の溜息を吐く香穂子は、蕩ける笑顔を浮かべ身を乗り出してくる。
気持ちいいから月森くんも試してみてねと、それは嬉しそうに。
腕枕が欲しいのだと、その言葉に隠された本当の意味を、たぶん君は知らない。
安眠には変えられないのだろうが、人恋しさを自分で慰めているようで照れ臭い。俺たちの関係が、尾ひれ背びれをつけて一人泳ぎをしてしまいそうから、あまり人には言いふらして欲しくないのだが・・・もう遅いのだろうな。
込み上げる溜息を、気づかれないように胸の奥へ仕舞い込んだ
「そばがらや低反発とか、いろいろな枕が他にもあるだろう?」
「全部試したんだけど駄目だったの。本当に欲しい枕で眠れたら、もっと気持ちいいいのにって思うけど。まずは痺れずに自分で腕枕する方法はないかなぁ」
「本当に欲しい枕?」
聞き返した俺の言葉に、何でもないのと慌てて語尾を濁らした香穂子は、人差し指を顎に当てて考え込む。
音楽を奏でる君の腕を痺れさすわけにはいかないし、心地良い眠りに包みたい・・・出来ることなら俺の手で。
手を繋いだり、腕の中へ閉じ込め抱き締めた事は何度もある・・・もちろん今までは触れるだけだけれども。
人肌の温もりというが心を落ち着かせ、穏やかな気持ちにさせてくれると、俺だけでなく君も知っているはずだ。
君を抱き締めたい想いが欲望となり、俺も別な意味で眠れぬ夜を過ごしている。
腕枕・・・か、確かに魅力的だ。君の中に俺という選択肢は無いのだろうか。
じっと見つめる瞳から、本当に欲しいものがひょっとしたら俺の腕でないかと、甘い期待が心に湧き上がる。
そうすれば君は自分の腕を使う事無く俺の腕で。俺は君を抱き締めながら、心地良く眠れると思うのに。
隠しきれない想いが伝わるのか、オレンジジュースのグラスを所在無げに弄び、溶けかかった氷をストローでクルクルと必死にかき回している。グラスの中で忙しなく踊る氷と音色は、彼女が隠した心の現われだ。照れ臭さを誤魔化すように浮かべた笑顔を、視線で捕らえ引寄せた。
「一つだけ良い方法がある」
「本当!? 教えて教えて?」
「俺の腕で良ければ、いつでも君の枕に貸そう。心地良く目覚められるように」
「えっ!?」
ボンっと真っ赤な火を噴く香穂子の顔と、潤み出す大きな瞳に一言の重さをようやく理解した。
屋上や森の広場でうたた寝する君に、肩を貸すのとは訳が違う。眠る君に俺の腕を朝まで貸すというのは詰まり、腕に抱き締めながら一つ同じベットに眠るという事で。しかもただ抱き締めあうだけで済むとは思えない・・・そんな状況なのだと。耳から激しい鼓動が聞こえ、身体中の熱さが顔へ集中するのが分かる。
「心の声が聞こえちゃったのかと想ったから、びっくりしちゃった。どうしよう・・・えっと・・・その、月森くんの腕が痺れちゃうよ。凄く嬉しい・・・でもまだちょっと怖いってうか・・・あっ、誤解しないでね! 月森くんが怖いとか嫌とかじゃないの、心の整理がつかなくて・・・」
「いやその、俺こそ突然すまない。君の助けになれたらと、そう想ったんだが・・・隠さずに告げよう。抱き締めたいのは嘘偽り無い心からの気持ちだ」
「自分の腕を枕にしても気持ちいいんだもん。月森くんの腕は触っただけでもドキドキするから、もっと温かくて気持いいと思うの。自分の腕を枕にしながら考えてたら、熱くて眠れなくなったりもしたんだよ。きっと一度味わったら自分の枕じゃ・・・もう一人で寝られなくなりそうなんだもん。好き過ぎて、自分が変わるのが怖いの」
ぎゅっと目を瞑り、両腕で自分の身体を抱き締める香穂子の肩が、微かに震えている。
流れ込む痛みが心を甘く締め付けるのは、君の中で俺がどれ程大きいかを改めて感じたから。
隣り合わせのカウンター席は向かい合わせよりも近いし、背を向けてるから誰にも表情を見せずに済むのが有難い。片手で華奢な肩を包み込むと、感じる温もりに言葉と想いを託して、耳元に唇を寄せた。
二人で変われば未知の世界も怖くない。
君が俺にくれたように、きっと温かくて輝きに溢れたものだと思うから。
瞳と頬を緩め静かに見守ると、やがて雲間から覗いた太陽のように、はにかんだ瞳が見上げてくる。
ほんのり頬を赤く染めながらも勇気を振り絞り、テーブルの下から伸ばした手が、ゆっくりと・・・確かな意思をもって俺の腕をしかっかりと掴む。その瞬間、俺の心は見えない君の手に掴まれた。
「月森くんの腕、ちょこっと借りてもいいかな・・・。あのね、腕枕を味わう時間はくれるって約束してくれる?」
「あぁ・・・少しと言わずに、君が望む時に好きなだけ腕の中に抱き締めよう。その代り俺の事も名前で呼んで欲しい。俺たちは・・・その。付き合っているのだし、そろそろ・・・駄目だろうか」
「そ、そんな・・・だって恥ずかしいよ。私が欲しいもの知っててそんな交換条件出すのは、ずるいって思うの」
「欲しいものは同じだろう、俺も君も。俺だって最初は照れ臭かったが、香穂子の名前を呼ぶごとに愛しさが増し、温かさは大きな力となった。だから俺の事もっと好きになって欲しいと思う・・・俺も、眠れぬ夜を過ごしているから」
開きかけた口を閉ざしたりを繰り返し、言葉を何度も飲み込み躊躇いを見せていたが、膝の上で拳を握り締めると呼吸を整え真っ直ぐ俺を振り仰ぐ。振り返る事をしない、ただ前を見つめる光りが輝きを放つと、俺だけに聞こえる小さな囁きが耳からストンと落ちてきた。
「つ・・・れ、蓮くん・・・」
「ありがとう、香穂子」
「蓮くん・・・蓮くん・・・! 言えたよ、もう大丈夫。くすぐったいけど、とっても温かくて飛んでいきそうな気持だね」
「じゃぁ約束どおり、君の枕になろう。いや違うな、言い方を変えよう。君を抱いても・・・いいだろうか?」
抱き寄せたままの肩にほんのり熱が籠り、微かにもたれかかる頭が、擦り寄るように腕の中で小さく頷いた。
真っ赤に染まる横顔が堪らなく愛しくて、空いた片手でそっとテーブルの上にある手に重ね握り締める。
感じる確かな温もりを離さないように。
向かい合う同じ想いが壁を溶かし溝を埋め、近いようであと一歩遠かった、二つの道を一つに溶け合わせた。
優しさとその温もりを求め合う、叶える互いの願いの先にあるのは果たして安らぎなのか。
それとも更なる眠れぬ日々なのか。一人でなく君と共になら、眠れぬ夜も良いかもしれないな・・・。