冬の寒さも和らぎ、温かさに包まれた昼休みの屋上には、雲一つない青空が広がっていた。
温かさの中に時折吹き抜ける寒風も、今日はどこか心地がよい。日当たりの良いベンチに座って香穂子を待っていると、重い扉が開く音がしてパタパタと賑やかな足音が聞こえてくる。


彼女だ・・・と振り返らなくても分かるから、自然と緩む頬は止められなくて。
ふわりと舞い降りた優しい空気を感じて隣を向けば、息を切らせて頬を紅潮させた笑顔の香穂子がいた。
ベンチの足下にはヴァイオリンケースを置き、膝の上には彼女の小さな弁当箱。

校舎が離れている分、少しでも一緒にいる時間が欲しいと願うのは互いに同じ。
ヴァイオリンの練習だけでなく、昼食も共に過ごすのが今では日課になっていた。



「蓮くんお待たせっ! さぁお昼食べよう?」
「急がなくてもいいと、いつも言っているのに。怪我でもしたら危ないだろう?」
「大丈夫だよ、だって待ちきれなかったんだもの。早く会いたかったしお腹も減ってたし・・・あっ!」
「どうしたんだ?」
「急いでたからジュース買ってくるの忘れちゃった・・・どうしよう。ごめん、ちょっと購買まで行ってくるね」


来たばかりで落ち着かないのに、ジュースを買い忘れたと急に慌て出す香穂子。今からでは昼休みが終わってしまうぞと言えば、そうだよね・・・と力なく呟きシュンと肩を落としてしまう。我慢するもんと悲しそうに唇を噛みしめながら、弁当箱の包みを広げだす姿が気の毒に思えて俺の胸まで痛みが込み上げる。

何とかできないものかと考えを巡らせた末に、ミネラルウォーターが入った自分のペットボトルに視線が止まり、ドキリと鼓動が高鳴った。非常事態だ、間接キスになるけれど致し方ない。俺としてはむしろ嬉しいんだが・・・。
ベンチの脇に置いてあったペットボトルを、俺と彼女の真ん中へ差し出した。


「香穂子・・・その、もし良ければ一緒に飲まないか?」
「え、いいの? ありがとう蓮くん!」
「だが・・・俺の飲みかけだし、君も飲むとその・・・。香穂子が嫌でなければなんだが・・・」
「あっ、そうか間接キッス・・・。えっと・・・ね、蓮くんなら嫌じゃないよ。ほら、いつもあ〜んて食べさせあったりもしてるじゃない。だからね、飲み物でも同じというか・・・嬉しいなって思うの」


頬を赤く染めてフイと顔をそらす月森の熱さが移ったのか、香穂子の頬も次第に赤く染まり恥ずかしそうに俯いてしまう。膝の上でもじもじと手をいじりながらも、真っ直ぐ想いを伝えると、少し緊張気味にペットボトルへ手を伸ばし大切そうに両手で握りしめた。視線を戻した月森にふわりと微笑み、蓋を開けてゆっくり唇に近づけ・・・透明な水が喉と心を潤し染み込んでゆく。


自分と同じ場所に触れてる唇や、飲み下す喉の動きからも目が離せないでいた。
飲み口から唇が離れ、おいしいね!と笑みを向けると香穂子はポケットから出したハンカチで丁寧に拭き取ってしまう。だが落胆する気持ちが押さえきれないのは、俺の我が儘だろうか。
気遣ってくれていると分かっているが、出来ればそのままでいて欲しかったと思うのに・・・。


言葉には出さなかったが心の中の想いが伝わったのか、それともペットボトルを見つめたままの俺が、あからさまに落ち込んだ顔をしていたのか・・・。きょとんと不思議そうにしていた香穂子が、何かに気づきあっと口元を押さえた。ごめんねと真っ赤に頬を染めてハンカチをしまうと、もう一度ペットボトルを手に持ち、ミネラルウォーターをコクンと一口飲み込んで・・・。
両手できゅっと強く握り締め首まで真っ赤に染まりながら、口につけたそのままを俺に差し出してきた。


「あの、ありがとう」
「いや・・・その、俺の事は気にせず飲んでくれ。ここに置いておくから」


囁きを手の平ごと重ねて受け取ると、ベンチに座った俺と香穂子の脚の間に置く。だがそのまますぐに手放すことが出来ずに、再び手に取りボトルのキャップを外し口づけた。彼女が触れた唇の温もりが消えないうちに、俺のを重ねたかったから。触れた飲み口が熱く疼き、ミネラルウォーターがストンと体に染み込んでゆく。何の変哲もないミネラルウォーターなのに君が触れただけで、水面に落ちた滴のように優しさが体中に広がっていった。

ペットボトルを傍らに置いて微笑めば、照れたようにはにかんだ笑みを浮かべた君と視線が甘く絡む。
空から優し降り注ぐ太陽も、きっと彼女の笑顔には叶わないだろうと、こんな時には思わずにいられない。


「天気が良いし暖かいから、部屋の中より外の方が気持ちいいよね。これからは、いっぱいお外で練習できるよ」
「冬の間は厳しい寒風を避ける為に訪れる事が少なかったが、屋上に香穂子と二人で来るのも久しぶりだな。今日は香穂子の言う通り、外にして正解だ。ヴァイオリンの音も青空を駆け回るに違いない」
「でしょう? ねぇねぇ、冬眠から覚めた動物たちが、光を求めて外に出た心境って、こんな感じなのかな?」


空の色や光の温かさ、風の香りなど・・・ささやかな変化を感じ取り、香穂子はもう春だねと嬉しそうに頬を綻ばせていた。そして俺は君の笑顔で、春の訪れを心と体で感じる事が出来るんだ。


空を見れば太陽や月や星があり、季節を感じさせてくれる自然に囲まれて生きている。当たり前だがなかなか気づくのは難しい。いとも容易く見つけてしまう君と一緒に、一つ一つを綺麗だと想う度に俺自身も変わっていた気がする。大きなものに包まれているような、穏やかな気持ち・・・とても温かく優しい気持ちになれた。

それは広い大空の下にいるだけでなく、君が俺を包み込んでくれているからなのだろうな。




香穂子が嬉しそうなのは気候が良いからだけでなく、今日の弁当には大好きな唐揚げが入っているからなのだと、いつになくご機嫌だ。どちらかにした方が良いのでは・・・と心の中で苦笑が浮かぶ程、会話と食事の両方に一生懸命。しかし突然突然会話がピタリと止んでしまい、流れる沈黙を不思議に思い彼女を見れば。箸を握りしめたまま黙り込み、膝に乗せた小さな弁当箱の中身をじっと見つめている。


ひょっとしてまた、苦手な食材が入っていたのだろうか?
だとしたら、この後に彼女の「あ〜んして?」がくる筈なんだがと、嬉しさと期待で押さえきれない鼓動が高鳴り出す。しかし俺はいつでも君を受け入れる用意が調っているのに、ぼんやりと弁当箱の中身を見つめたままだ。
違う・・・となると悩み事だろうか、まさか急に具合が悪くなったのではないだろうな。


心配そうに瞳を曇らせた月森が、声をかけようとそっと香穂子の顔を覗き込むのと、はっと気づいた香穂子が顔を上げるのがほぼ同時。鼻先が触れる近さにあった顔に一瞬鼓動が跳ねて動きが止まる。やがてどちらともなく頬を赤らめだし、パッと顔を離してしまった。脚の上に乗せていた弁当箱を落とさなかっただけでも、幸運だったと言えるだろう。


「す、すまない・・・その。急に黙ってしまったから、どうしたのかと心配になってしまったんだ」
「ごめんね、大丈夫だよ。ちょっと考え事してたら、お日様が温かくてボーッとしちゃったの」
「何か悩み事があるのか? それとも、また苦手な食材が入っていたのか?」
「今日はにんじんも椎茸もピーマンも入っていないし、大好きなおかずばかりだよ!」
「そうか・・・良かったな」


自分で全部食べられるよと、自慢げに胸を張って弁当箱を俺に披露する香穂子へ、少しだけ残念な気持ちが沸き上がる。どんな時も好き嫌い無く食べなければ駄目だろう?と、眉を寄せつつ諫めるけれど、彼女は聞いているのかいないのか、嬉しそうにうん!と頷き返事をするだけ。


どうやら俺の出番は無さそうだな。
彼女の為を思えば、密かに楽しみにしていたのだとは言えないが・・・。


心の中で小さく溜息を吐いて箸を進めている隣では、香穂子がペットボトルのミネラルウォーターを美味しそうに飲み干している。同じ物を飲むのにだいぶ慣れたのか、先ほどの照れくささは陰を潜め、彼女らしい無邪気さが顔を覗かせていた。あの容器は空になっても捨てられない・・・そう思う自分に熱さが込み上げる。




きょろきょろと周囲を見渡し誰もいないことを確認したのか、彼女は膝の上にあった弁当箱をベンチの傍らに置くと、座る距離をいそいそと詰めてきた。隙間を埋めるようにピッタリと身体を寄せ、飲みかけのペットボトルをもて遊びながら肩へ甘えるようにもたれ掛かってくる。

普段は恥ずかしがるのにどうしたのかと戸惑うのは俺の方で、誰か見ていないかと周囲を伺ったけれど幸いに人の姿はなくホッと胸を撫で下ろした。時間差でお互い同じ事をしたのだと気づき、どちらとも無く可笑しさが込み上げ、二人分の小さな笑い声が重なる肩から伝えあいながら。

触れ合う膝と腕に感じる柔らかさが、やがて燃える熱となって全身へ駆けめぐってゆく・・・。
俺の心臓は今、香穂子と触れあっている場所にあるのではと思うくらいに。


「あのね、考え事っていう程深刻なものじゃないんだけど・・・ほら。いつも私が苦手なおかずがあると、蓮くんにあ〜んして食べてもらっているでしょう?」
「本当は自分で食べなくてはいけないから、俺がしっかり君を見届けるべきのに。君の為と言いつつ手ずから食べさせてくれるのが嬉しくて、つい甘えてしまうんだ・・・」
「好き嫌い無く食べようって頑張るんだけど、へへっ・・・いつもありがとう。私もね、あ〜んて食べてもらうのが嬉しいの。でもたまには苦手な物だけじゃなくて、私が好きな物も蓮くんに食べてもらいたいって思うの。今日は全部私が食べられる好きなおかずばかりだから、どれにしようかなって悩んでたんだよ」
「そうだったのか、別に無理をする必要はないから。俺の事は気にせず、君が好きなように食べたらいい」
「駄目、そんな訳にはいかないよ。蓮くんに上げたいけど私も食べたいし・・・悩んでいるうちにね、自分の事ばかりだなって恥ずかしくなっちゃったの」


寄りかかった肩先から、困ったように眉を寄せて振り仰いでくる大きな瞳を、上から優しく微笑みで包み込む。
彼女なりに、いろいろ考えてくれていたのだなと、俺は君がくれた安堵感や嬉しさに温かく包まれながら。
どうして恥ずかしい事があるだろうか、こんなにも自分や俺に向き合い一生懸命なのに・・・。


「香穂子の気持ちがとても嬉しい、ありがとう。君は自分の事ばかりと言ったが、いつも俺の願いを叶えてくれているじゃないか」
「蓮くん・・・」
「君に食べさせてもらうのを毎日楽しみにしていたし、こうして一緒に過ごせるのが何よりもの幸せだ。だが今日は全部食べれそうだと知って、少しばかり残念に思ったのも本当の気持ちだ」
「同じ物を一緒に食べるって美味しいよね。二人で食べれば二倍美味しくなる気がする。きっと魔法の調味料が加わるんだなって、蓮くんがくれたお水を飲んでそう思った。お腹だけじゃなくて、心の中が満たされて幸せいっぱいなの。私も蓮くんに、この気持ちを届けたいな」


香穂子から飲みかけのペットボトルを託されると、ずっと彼女が手に握っていたから少し温かくなっていた。
そんな温もりさえも恋しくて手の平で包むように重ね、水に染み込んだ想いごと閉じ込める。身体を起こして傍らに置いてあった弁当箱を取り、箸で一つのおかずを摘み取ると、落ちないように手を添えつつ俺の目の前に掲げてくる。満面の笑顔と共に添えられたのは、今日のメインディッシュだと言っていた大きな唐揚げだった。


「はい、蓮くん。あ〜んして!」
「良いのか、君の好きな物だろう?」
「美味しい物を一緒に食べると、もっと美味しくなるんだよ」
「苦手な物も一緒に食べたら、好きになれたらいいのにな」
「もう〜蓮くんってば、それは言わないで・・・頑張るから」


悪戯っぽく笑みを向ければ、意地悪と泣きそうに頬を赤く染める君が可愛くて、瞳も頬も更に深く緩んでしまう。
今日は聞く事が出来ないと、半ば諦めていただけに嬉しくて。
差し出された箸の先に唇を寄せてかじりついた・・・全部でなくて半分だけ。

箸の先と俺を交互に見つめて、きょとんと不思議そうな顔をしている香穂子は、自分でさっき言ったばかりなのに気づいていないのだろうか?


「蓮くん、半分しか食べてないよ? ひょっとして美味しくなかった?」
「違うんだ、とても美味しかったよ。だから君から半分だけもらったんだ。同じ物を一緒に食べれば、もっと美味しくなるんだろう?」
「あ、そうかー! じゃぁ残り半分は、私が食べても良いんだね。やった〜頂きま〜す!」


そう言って香穂子は嬉しそうにパクリと、箸の先に摘まれた俺が食べかけた唐揚げを口の中へと運んでゆく。
ミネラルウォーターの時にはあんなに照れて恥ずかしがっていたのに、彼女の中からは間接キスの事実は消えて無くなっているようだった。

見ている俺の方が満たされる満面の笑みで、美味しいと噛みしめる彼女が気づかないのなら、このまま黙っていよう。多少のくすぐったさが残るが、それさえも心地よいと感じるのは彼女のお陰かも知れないな。
それに、何度でも聞きたい言葉が君の口から聞けるのだから・・・。


「今度は蓮くんのお弁当箱からだよ。はい、あ〜んして?」


自分のだけでなく俺の膝にある弁当箱の中身からも、いそいそとおかずを摘み取って口元へと運んでくる。


「あ〜んして?」と小首を傾げて愛らしく、何度でもずっと聞いていたい言葉は恋の呪文。
俺の為にあれこれ世話をしてくれるのも嬉しいし、寄り添う距離も吐息が触れる程近くで向けられる笑顔も俺だけの物だから。耳に吸い込まれた言葉は呪文となり、君の手元へ吸い寄せられてしまうんだ。

俺が半分だけかじって、残りは君が食べて・・・あるいは君が先に半分食べてあとから俺が食べて。
二人で食べれば確かに美味しい、これからはずっとこうして食べたいと願わずにいられなかった。



もう少しこのままでいさせて欲しいから、屋上へ他の誰も立ち入らないでくれと祈りつつ。
二人きりで昼食が食べられる場所は、この学園内にあっただろうかと想いを馳せた。







今の言葉をもう一度