今も昔も遠い未来もすぐ側に




六甲の山を背負う煉瓦造りの広大な神南高校の校舎へと、正門から真っ直ぐに伸びる整えられた石畳と並木道。駆け足で過ぎ去る季節は秋の風を伝えていて、道の先では長くなった影が寄り添い、校内にある樹や六甲の山が艶やかに彩り始めている。海と山に囲まれ異国情緒漂う神戸は、さまざまな魅力に溢れる街だ。ここに暮らせばその全てがお前の庭になる・・・。

歩きながら自信に満ちた笑みでそう語る東金千秋の隣で、振り仰ぐ小日向かなでがぷぅと頬を膨らませた。


「千秋さんが、神戸の美味しいスイーツを食べさせてくれるって言ってたから、とっても楽しみにしてたんですよ。それがどうしていきなり、神南高校の学校見学になるんですか。ジャムや蜂蜜があるお店にも行きたかったのに〜」
「可愛い顔してむくれるな。そんなに唇を尖らすと、キスで吸い付きたくなるじゃねぇか。せっかく神戸に来たんだから、一度見学しておくのも良いだろう。ケーキの店は学校の近くにあるんだよ、ちゃんと帰り道に連れて行ってやる。腹を空かせておけば、もっと美味くなるぜ?」


それでも好奇心が勝るのか、きょろきょろ周囲を見渡したり、目に付いた興味あるものへ近付いてしまう。ふと気付けば隣にいないことも多く、立ち止まって探しては呼びかける・・・を何度繰り返しただろう。あとで店に連れて行くと約束したら安心したのか、約束ですよ?と無邪気な笑顔がふわりと綻んだ。


神南よりもケーキに興味があるのは癪だがと、眉を顰めた矢先に聞こえたのは感嘆の声と、視線を奪われた煌めく眼差し。街路樹を抜けて開けた空間にある噴水へ駆け寄り、水飛沫を受け止めようと一生懸命手を伸ばす。全く・・・お前は子供か。

かなでに呆れた声を投げかけながらも、「ここで、お弁当を食べたら美味しそう」と、振り向く笑顔につい頬を緩めてしまうのは、惚れた弱みなのだろう。小さなことでも、かなでが抱いてくれた興味が嬉しい。はぐれるなよと、先に歩き出した肩越しに呼びかければ、元気の良い返事で子犬のように追いかけてくる。

正面の校舎へと続く緩やかな階段を、軽やかな足取りで昇るかなでが隣に並び、千秋さん!と嬉しそうに俺の名前を呼んだ。


「ここが我が神南高校だ。どうだ、神南に来たくなったか? いずれお前も通うことになるんだ、しっかり見ておけよ。部活動のヤツらは来ているが、日曜だから生徒はほとんどいない。ゆっくり見学するにはいい機会だろう。質問があったら、何でも聞いてやるぜ」
「神南に転校するかは、そう簡単に決められません・・・星奏学院にだって、転校したばかりなのに」
「ははっ、そう困った顔をするな。星奏に残りたい、お前の気持ちは知ってたさ。だが百聞は一見にしかず、見ると聞くは大違いだ。実際に体験したら、気が変わるかも知れないぜ。」
「いきなり学校見学だなんて、もし私が気に入ったらすぐに転校の手続きとか、するつもりなんでしょう?」


拗ねて尖らす唇の可愛さは、キスをしてくれと俺を誘っているように見える。顔を近づければ、見上げる大きな瞳が驚きに見開かれて、ぴくりと肩を揺らした。ここじゃ駄目ですと必死に両腕で俺を押しとどめながら、きょろきょろ周囲を伺う真っ赤な顔。拗ねると分かっていても、くるくる変わる表情の豊かさに、自然と笑いが込み上げてしまう。いくらなんでも場所くらい考えるさ。

屈めた顔を起こした俺を見上げる、羞恥を堪えた真っ直ぐな瞳が微かに火照り潤んでいる。本当ですか?と眉を寄せながら睨んでいるが、赤く染まった頬のままでは、抗議どころか甘いおねだりにしか見えないぜ?


「いいか、かなで。良く見ておけよ。ここが神南高校管弦学部の・・・俺や蓬生の音が生まれる場所だ。俺がお前の通う星奏学院は知ってるのに、かなでが神南を知らないのは不公平だろう」
「千秋さん、もしかして・・・その為に私を連れてきてくれたんですか!?」
「俺がどんな高校生活を送っているか、興味あるだろ。そういう点では、神戸にあるどの観光名所よりも価値があるぜ。なんなら管弦学部の練習風景も見ていくか?」
「本当ですか!? お邪魔じゃなければ、ぜひ見学させて欲しいです。そっか、ここが千秋さんや蓬生さんの通う学校なんですよね・・・私の知らない千秋さんが、たくさん刻まれているんですね」


ぱちくりと驚きの瞬きを数度繰り返したあと、綻ぶ笑顔と瞳がぐっと近づく。いつも練習している場所や、校内で気に入っている場所はどこかなど・・・溢れる好奇心を伝えながら、周囲を見渡す表情まで先程とは違っていた。今頃気付いたのか?と悪戯に問えば、小さく肩を竦めながら「ごめんなさい」と申し訳なさそうに謝って。神南の中に刻まれた千秋さんを、これからたくさん見つけるのだと楽しそうだ。


俺達は出会ったばかりだから、お互いに知らない事は多い。好きになるほど相手のことをもっと知りたくなるし、知る必要がある。いろんな話をしたり、いろんな経験をしたり、一緒にたくさんの時間を過ごしながら、俺はお前を・・・お前は俺を知ってゆく。
そうして一つに溶け合えば、例え離れていても、知るほどに深く腕の中へあるような・・・お互いが近い存在になる。

お前も俺の事がもっと知りたいだろう? 俺もお前の全てが知りたい、求めたいその欲求は尽きることなく、溢れるばかりだ。


「でも、あのっ・・・」
「どうしたかなで、真っ赤になって」
「すれ違うお友達たちの皆さんに、“いずれ俺の嫁になる女だ”って紹介するの、止めてもらえませんか? 恥ずかしいですっ」
「何を今更照れてる、本当の事だろう。“神南を破って全国制覇をした、星奏学院の1stヴァイオリン”だと、その前にちゃんと紹介してるじゃねぇか」
「全国制覇よりも、お嫁さんの方がインパクト強いんです! さっきすれ違った千秋さんのクラスメートも、私の事を“東金がつれてきた婚約者って、君だろ?”って言ってたじゃないですか。ほら〜っ、千秋さんのせいで話が大きく広まってますー!」
「悪い虫が近づかねぇように、予防線は張っておかねぇとな。挨拶ってのは、最初が肝心だ」


彼女だと訂正しておいて下さいと、羞恥で泣きそうな小日向が必死に訴えるが、その必要は無いだろう?と、東金は自信溢れる笑みで胸を張る。神戸に永住するのが遅いか早いかの違いだと告げて、逆にすっぽり腕の中へ抱き締めてしまう。離してくれと広い胸をポスポス叩くが、羽根が掠めるだけで、愛しさが増せども威嚇の効果は全くないらしい。

通り過ぎるランニング中らしき神南の運動部員に、「東金、嫁と痴話喧嘩か〜?」と囃し立てられ、二人同時に動きが止まった。ピクリと肩を揺らしたかなでをさりげなく背に隠し、「まぁな」とニヤリ笑みを向けて返しながら、彼らが通り過ぎるのを待ちそっと解放する。


不安そうにきゅっと、ジャケットの背を掴んでいたかなで手が離れると、緩めた眼差しで「悪かったな」そう呟いて。はっと振り仰ぐ潤んだ瞳が驚きに見開かれ、ぶんぶんと千切れんばかりに首をふる。びっくりしたけど、でも・・・私も千秋さんが大好きだし、独り占めしたい気持ちは同じだから。そう上目遣いで囁かれたら、可愛い過ぎて反則だろう。


「あっ・・・風に乗って、鐘の音が聞こえる。教会の鐘、かな?」
「あぁ、神南にはYMCAのチャペルがあるんだ。運が良ければ、休日には結婚式に出会えるぜ」
「本当ですか、うわ〜素敵! 花嫁さんが見られるといいなぁ。ねぇ千秋さん、行ってみてもいいですか!?」
「赤の他人のを見ても、面白くねぇだろ」
「そうですか? 幸せそうな姿や二人の笑顔を見ていると、温かい気持ちになりません? 自分の未来に重ねて夢を見られるっていうか・・・」
「ははっ、可愛いヤツだなお前は。俺の嫁になる日が、そんなに待ちきれないか。 いいぜ、連れて行ってやる。ついでに俺達も、未来のために結婚式の予行練習でもしておくか?」
「お嫁さんには、まだなれません・・・だって、約束の印をもらってませんし」


羞恥に耐えきれずに小さく俯いたかなでが、ごにょごにょと語尾を濁らせながら、握り合わせた両手を弄っている。約束の印?と不思議そうに繰り返した東金の視線に気付き、はっと我に返った小日向の顔が真っ赤な火を噴き出した。何でもないから気にしないでくれと、顔の前で両手をぶんぶんと振る必死な姿に、脳裏に浮かんだ霞むイメージがゆっくりと形を作ってゆく。お前はどうしてそんなに可愛いんだ、熱さが移っちまうだろ。


未来への約束、あぁなるほど・・・確かにまだだったよな。ニヤリ笑みを浮かべると、ぷぅと頬を膨らませたかなでに一歩、また一歩ゆっくりと距離を詰めて。瞬きも忘れ見守る瞳を見つめながら左手を取り、愛を誓う薬指へ微笑みを浮かべたままの唇をそっと押しつけた。


「・・・っ! ち、千秋さん!」
「今はキスだけだが、いずれこの指に、とびきり輝くリングを贈ってやるぜ。言っただろう、お前を手放さないと」


届けたのは約束の証、左手の薬指に赤い花が咲く、想いを込めた誓いのキス。
左手と俺を交互に見つめ、言葉がでないほど驚くかなでの顔が、更に火照った赤みを増してゆく。


趣味や遊びや音楽、時間を忘れるほど夢中になれるもの。
その中でもお前と一緒にいる時間が一番、俺の毎日を充実させてくれる・・・奏でる音や人生を豊かにしてくれるんだ。
なぁ知ってるか? 本当は俺の方が、お前に楽しませてもらってるんだぜ。

横浜と神戸・・・離れて暮らす今を乗り越えたら、将来どんな事も二人で乗り越えてゆける。お前も、そう思うだろう?