生きとし生ける全てのものへ

空は面白いな・・・と思う。
雲は流れて次々と形を変えてゆき、太陽は刻々と動いて少しずつその色を変えてゆく。
日の出前から夕日が沈むまで、一時たりとも同じ表情を見せないから。

空を見上げる俺の頬を春風が優しくなぶれば、腰を下ろしている周りの芝生が凪いで、かさかさと囁きながら目には見えない風の姿を映してくれる。地上を見渡せば溢れる自然と、季節の移り変わりを感じさせてくれる植物たち。その一つ一つの存在を感じ取り、綺麗だと思うだけで心の中に音が溢れ、彼らの歌が流れてくるようだ。
耳を傾ければ大きなものに包まれているような安らぎをもたらし、とても幸せな気持にさせてくれる。


そう・・・まるで彼女が見せる表情と、俺にくれる穏やかさのように。



想いを馳せながら目を閉じていると、俺の肩にちいさな重みが加わった。ふと隣を見れば瞳を閉じた香穂子が寄りかかって身体を預けおり、薄く開いた愛らしい唇から聞こえてくるのは穏やかな寝息。

口数が急に少なくなったと思ったら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
ベンチが空いていると誘ったが、ふかふかの芝生の上に座った方が気持がいいよと笑顔を見せて、香穂子は子犬のようにはしゃいで嬉しそうに駆け出して行ったのだ。確かに心地良いようだなと思いながら口元も自然に緩み、視線を注いだまま俺も傾けた頭を、愛撫するように彼女の柔らかい髪へと擦り合わせた。


降り注ぐ春の日差しは、小さい事にこだわらないおおらかな気分にしてくれて、どこかのんびりとした温かさを感じる。香穂子はその日差しが奏でる子守唄に手を引かれて、眠りへと誘われてしまったのだろう。




彼女を起こさないように気を配りながら、肩に寄りかかる小さな重みを自分の脚の上に乗せると、安心しきったように笑みを浮かべてまどろんでいる。自分の居場所がここなのだと、その表情と触れる温もりから俺に伝えてくれて、春の日差しよりも穏やかで浮き立つ気持にさせてくれる。香穂子が俺の居場所であるように、君の居場所も俺でありたいと思っていたから、貸せる肩や膝があることがとても嬉しいと思うんだ。

ジャケットを脱いで彼女の上にかければ、きっと無意識だろうが返事のように微笑を返してくれた。


あどけない無邪気な寝顔を見つめるだけで瞳も頬も緩んでしまい、手は自然と彼女へと伸びてしまう。
心地良さそうに俺の膝の上で丸くなる香穂子の髪を、呼吸と同じようにゆっくり撫でいると、やがてもぞもぞとジャケットの下に隠れた体が小さく身を捩り出した。ひょっとして起きてしまったのだろうか?


「・・・ん・・・・・・・」
「・・・どうした?」
「・・・れんくん・・・・・・」


焦りを押さえつつも優しく語りかければ、ころりと寝返りをうち、側にある温もりを求めて擦り寄ってきて。
縋り付くようにシャツの裾をきゅっと掴むと、再び穏やかな寝息を立てて眠ってしまう。


「・・・・・・」


夢路の中でも俺がいる・・・俺を求めてくれている、そう思うから。
眠る君に名前を呼ばれる事がこんなにも熱く心を疼かせ、息が詰まるほどに甘く苦しなんて、君は知らないだろうな。出来る事なら直ぐに応えたいがと苦笑しつつ、髪を撫でる手を滑らせて肩ごと抱くようにそっと頭を包み込み、もう片方は俺のシャツにしがみ付く彼女の手に重ねて握り締めた。


穏やかに漏れ聞こえる寝息が脚にかかるたびに熱いくすぐったさを感じるから、桜のようにほんのり赤く染まる君の唇を俺の唇で塞いでしまいたいけれども、この姿勢では少し無理がありそうだ。
ひょっとして俺の膝の上で無邪気な寝顔を見せる天使は、俺を理性を試そうとする小悪魔なのだろうか。


だが、今は俺の全てをかけて君の眠りを守ってみせよう。
眠る君の身体は俺の身体で。
中に溢れる君の心は、俺の心・・・想いを乗せた温もりと、見つめるこの眼差しで。





吹いていた風も今は止み、熱くも寒くも無い日差しはどこまでも穏やかに俺達を照らし包んでいる。
賑やかに空を羽ばたいていた鳥たちも今は梢の上で羽根を休め・・・気が付けば周りの全てが、程よく心地良い静かさに満ちていた。いつも音色を届ける彼女へのお礼のようにと。


彼女には大空の下でのびのびと弾くのが似合っていると思う。どんなに大きく立派なホールだったとしても、彼女の音色や彼女自身は箱の中に納まりきれるものではない。魅了して止まないその音色と優しさは俺達だけでなく、溢れる自然や動物たちなど・・・生きとし生ける全てのものへと注がれているのだから。
だから彼らも、香穂子の眠りを愛しさと慈しみを込めて見守っているのだろう。

その気持は良く分かる・・・俺も同じだから。




ならば、どうか見守っていて欲しい・・・俺と共に。
彼女の眠りを妨げぬように・・・。
心に安らぎをもたらしてくれるこの柔らかな温もりに、幸せな夢が訪れますようにと・・・。