息が止まるほど



「蓬生さん、絶対に動いちゃ駄目ですよ。絶〜対ですからね。目も開けちゃ駄目ですっ」
「じっとするだけでもしんどいねんけど、可愛く迫ってくる小日向ちゃんの顔が見られんのは、もっとしんどいなぁ・・・」
「だって、恥ずかしいんだもん・・・って。目を開けちゃ駄目すってば!」


気分転換も必要だと、練習を終えた夕方から車に乗ってドライブの帰り道。菩提樹寮の近くに停めた車内は、街灯の灯りだけが照らし、切り取ったような静寂と薄闇に包まれていて。一度エンジンを止めてハンドルから手を離し、シートベルトは付けたままで、上半身を助手席に向かって捻る。すると身を乗り出しながら待つ鼻先に掛かるのは、熱く甘く微かに震えた吐息。


制止の声を余裕の微笑みで受け止める土岐が、薄く瞼をそっと開けば、薄暗い車内で助手席のシートベルトを外した小日向が、運転席へと身を乗り出してくる。駄目と言われたら、余計に見たくなるのは人の常やろ? 

鼻先が触れ合い吐息が絡む近さにあるのは、ぷぅと頬を膨らませて拗ねる、小日向ちゃんの可愛い顔やった。どこか頼りなげな闇に包まれた中でも、顔が羞恥で真っ赤に染まっているのが、はっきりと分かる。ふふっ・・・小日向ちゃんは可愛えぇなぁ。


「夜に咲く、艶やかな花みたいやね。あんたの照れる顔、昼間よりも夜の方が艶を増して見える。俺を誘っているからなん?」
「さ・・・誘ってませんよ! むしろ夜になると艶っぽさが増すのは、蓬生さんじゃないですか。お休みなさいのキス、恥ずかしいけど頑張ろうって・・・私、真剣だったのに。あともうちょっとのところで、イジワルするなんて酷いですっ」
「小日向ちゃん?」
「まだキスが上手くないし、蓬生さんについて行くのがいっぱいいっぱいで・・・。どうしたら気持ち良くなってもらえるかとか、やり方も良く分からないんです。でもいつも幸せをたくさんもらっているから、ちょっとでもお返ししたくて・・・」


悪戯な微笑みで甘く囁き、鼻先同士が触れ合うキスを交わせば、ぴくりと肩を震わせ身をよじるように離れてしまう。離さへんで・・・と心で呼びかながら腕を掴み、運転席と助手席の真ん中へ引き戻しつつ、唇へそっと重ねた羽根のキス。すると湯立つ恥ずかしさの熱い湯気が瞳を潤ませ、きゅっと唇を強く噛みしめてしまう。

真っ直ぐな光を澄んだ瞳に強く灯し、初々しいもどかしさや悔しさをも、透明な滴に滲ませながら・・・。


「小日向ちゃん、堪忍な。素直に反応するあんたが可愛くて、ついイジメとうなる。好きな子ほどちょっかい出しとうなるやろ・・・あれと同じや。笑顔だけじゃなく拗ねたり照れたり、怒ったり泣いたり・・・いろんな顔が見とうてな。俺、あんたが俺に向けてくれる全部が好きやから」
「もう、蓬生さんってば、ズルイです。そういうこと、ふいに優しい眼差しで言われたら、怒れなくなっちゃう」
「惚れたもんの弱みっちゅうやつやな。俺と同じや、なんやこそばいなぁ。ふふっ、あんたも俺に惚れてる証・・・そう思ってえぇんやね」


素直にコクンと頷くはにかんだ頬を、微笑みと手の平で包み、ありがとうと想いの言葉を唇に乗せたら、もう一度優しいキスを。
今日一日楽しかったお礼がしたいって言ったのは、小日向ちゃんやない。だから俺は小日向ちゃんからのキスが欲しいと、おねだりしたんやで。真っ赤に照れると知ってちょっぴり困らせても、全部受け止めて、ちゃんと自分の意志で向き合ってくれる。


「お休みなさいとか、また明日の挨拶と一緒に、次に会う約束をするのが大人のデートちゅうもんやで。俺らも、恋人同士の挨拶せぇへん? 会わずには居られない・・・夢の中でも会えるように。俺からはもうたくさんしたから、さぁ今度はあんたの番」
「恋人同士の挨拶がキスってこと? 挨拶のキスと、チュッするキスは違うんですか? ほっぺと唇の違いもあるのかな、ん〜難しいなぁ。それよりも、これから毎日ドキドキしすぎて眠れなくなっちゃう」
「難しく考えんと、もっと気楽にしとき。小日向ちゃんのしたいようにしたらえぇ、今度こそじっとしとうから。唇は言葉よりも多くを語るらしいから、試してみよか。小日向ちゃんが奏でる音楽みたいやね」
「音楽・・・そっか! 何となく分かりました」


難しそうに眉間に皺を寄せて唸りながら、恋人のキスを真剣に考える様子は、すぐ抱き締めたいほど可愛らしい。さっきまではどんより雲の瞳から、今にも涙の雨が零れそうだったのに、あっという間にお天気へ変わるんやね。音楽と聞いて何かを閃いたのか、唇に人差し指を当てながら、楽しい誘いを持ちかける囁きに、キラキラ瞳を輝かせる満面の笑顔で食いついてくる。った。心のままに、くるくると変わる顔を見てるのは、ほんま飽きないわ。


「今度こそじっとしてて下さいね? 私がいいと言うまで、目を開けちゃ駄目ですよ」
「約束は出来へんけど、なるべく頑張るわ。せやから、あんまり焦らさんといて。お手柔らかに頼むわ」


絶対ですからねと、念を押す上目遣いに引き寄せられるのを、風に揺れる灯火の理性で堪えながら穏やかに微笑み返した。動きにくい不自由な車内、二人だけの空間。両腕の肩先が支えに掴まれるのを合図に、瞳を閉じれば珍しく高鳴り出した鼓動が耳の傍で響き出す。

長いようで短い沈黙の後で、肩先を掴む指先にきゅっと強く力が籠もると、微かに触れた柔らかな温もり。呼吸も鼓動も一瞬止まれば、それが小日向ちゃんから初めてくれるキスだと気付き、吹き出す熱さに心も胸も焦がされた。思わず反射的に開きかけた瞼を再び引き戻せば、今度は両頬にリズム良く触れる唇が、昼間に重ねたヴァイオリンみたく心に音色を響かせる。


「蓬生さん、もう目を開けてもいいですよ」
「・・・・・・・・・・」
「私が届けた恋の音、聞こえました?」


フロントガラスのバックミラーが見守る、恋人たちのキス。夜に混ざり始めた甘い吐息と艶やかな蜜。
嬉しそうな笑顔で振り仰ぐ無邪気な瞳が、心の鍵をいとも簡単に壊す。本気で惚れた相手にもらうキスが、こんなにも嬉しいとは、思わんかったわ。


魔法がかかったように動けずにいる小日向ちゃんに、ふわりと微笑み返した瞳に捕えて。想いの言葉を伝えながら重ねるキスは、優しく触れるだけなのに息が止まるほど狂おしい。このままあんたの息が止まるほど、この唇は離さん言うたら・・・どうする?

 ふふっ・・・そない一生懸命応えてくれて、いけない子やね。俺を本気にさせて、どうなっても知らなんで?