布団の距離 原田ｘ千鶴
上野寛永寺にて、羅刹となった綱道との戦いを終えた後、夫婦としてようやく歩み始めた二人の生活。これからどこへ行こうか・・・と思案したものの、ひとまず身を寄せられる場所と言えば、思い浮かぶところは一つしかなくて。江戸の片隅で幸村千鶴と原田左之助が慎ましく、だが幸せに暮らし始めたこの家は、かつて雪村綱道と千鶴の父子が暮らしていた家だ。
新政府が樹立したばかり江戸では、元新選組の幹部という身分を隠し通さなくてはいけない。戦う日々から去った今でも、千鶴を狙う鬼がいつ何時やってくるかも分からないから、現状を思えば気を抜けない。それでも二人で願った夢・・・惚れた女と所帯を持ち、夫婦水入らずの新婚生活を送れる喜びの方が数倍にも勝る。
夕飯や風呂を終え、後は二人で眠るだけという宵の口。いいモンだな・・・と自然と緩んでしまう頬のまま、原田が 愛妻・千鶴の淹れてくれたお茶を啜った。だが手に湯飲みを持ったまま、ふと気付いたように宙を仰ぐ。
「ずいぶん遅えな。千鶴、一体何やってるんだ？」
夕食後のお茶を淹れてくれた千鶴が、『お布団を敷いてきますね』と言い残し、寝所へ消えてから随分経つ。いつもなら、とっくに戻ってきている時間だ。なぜ今日に限ってこんなにも時間がかかるんだ・・・何かあったかと、心配になるじゃねぇか。肩越しに振り返った原田は、湯飲みを手元の床へ置くと、ふすまの襖の向こうにある寝所をじっと見つめた。
「そういや、今日は久しぶりに布団を干せたから、寝るときに気持ちが良いだろうって、ずいぶん嬉しそうにしていたな。ひょっとして、布団敷きながら、さっそく気持ち良くて眠っちまったとか？」
お天道様をたっぷり浴びた布団の温もりで、すぐ寝入っちまったら困るんだが・・・。背後から抱き締めつつ、同じ台詞をついさっき耳朶へ囁いた時に、『ね、眠りません！ 左之助さんの腕の中が、一番あったかいです・・・』と、千鶴は頬を真っ赤に染めながら小さく俯いていたのに。まぁ・・・彼女が疲れて早々に眠ってしまうくらい、夜更かしを毎晩させているのは、他ならぬ自分だという自覚があるから、どうしたモンかと困ったように頭を掻くしかできない。
「とりあえず、ちっと様子をみてくっか。」
眠っているならまだいい。だがもしも、何事も無いようにと振る舞う影で人知れず悩み、心配させないようにと弱音は心の底へ隠しながら、泣いているかも知れない・・・。そう思うと、胸が痛いほど締め付けられる。どんなことがあってもお前を守ると誓ったのは、鬼からの脅威に晒されているその身体だけでなく、お前の笑顔や心の全てだからな。
残っていたお茶を飲み干すと、原田は湯飲みを置いて立ち上がった。居間を出て足早に廊下を歩み、寝所の襖に手をかけると、中にいるはずの千鶴へと呼びかける。
「お〜い、千鶴。入ってもいいか？」
「・・・っ、左之助さん！？ あっ、はい・・・大丈夫です！」
わたわたと、急に慌て出した気配が返事と共に襖越しから伝わってくる。何かを隠していたのだろうかと眉をひそめたが、気付かぬふりをして襖を開けた。すると、自分の枕を腕の中へ抱き締めたまま、ぺたりと床へ座り込んでいた千鶴が、原田を見るなり弾かれたように立ち上がる。どうやらまだ布団が敷き終わっていなかったらしく、原田の分はきっちりと敷かれているのに、隣へ並ぶ千鶴の分はまだ未完成だ。
「いつまで経っても戻らねぇから、もしかして眠っちまったのかと様子を見に来たんだが。なんだ、まだ布団敷き終わってなかったのか。一緒に手伝おうか？」
「心配させてしまって、すみません。ちょっと考え事をしていただけなんです・・・。でもお布団すぐに敷き終わりますから、ちょっと待ってて下さいね。」
抱き締めていた枕を床へ転がすと、布団をいつものようにぴったりと寄り添い並べ、手慣れた様子でいそいそと敷き始めた。だが、先程床へ転がした枕を拾い上げて布団へ膝を付くと、枕を置こうとしかけたまま、考え込むように固まってしまう。
隣へ歩み寄り膝を付いた原田が、そっと顔を覗き込んでも、小さく俯き枕をじっと見つめたまま。「千鶴？」と声をかけられ我に返るが、すぐ目の前にあった優しい瞳に驚き、みるみるうちに顔が赤く染まってゆく。
「どうした、顔が赤いぞ？ どっか、具合でも悪いのか？」
「・・・っ、違うんです。具合が悪いんじゃありません、その・・・元気ですから！」
「無理すんなよ。心に溜め込まずに、どんな小せぇことでも、俺に話しちゃくれねぇか？」
ごつごつとした大きな手で、しっとり包み込むように頬に触れ、夫婦だろ？と、瞳を見つめながら微笑まれた千鶴の心がふわりと緩む。導かれるように唇を開きかけたが、すぐにきゅっと惹き結び、ふいと視線を逸らしてしまった。
「左之助さん、ありがとうございます。でもその・・・夫婦でも、恥ずかしくて言えないこともあるんです」
「恥ずかしくて言えないことって、何だよ。」
「うっ・・・だから、言えないんですってば・・・。」
原田がオウム返しに問いかけると、千鶴は赤く染めた頬のままごにょごにょと口籠もり、自分の枕をきゅっと強く抱き締めてしまう。おいおい、抱き締めるのは枕じゃなくて俺だろう？と、言いたい気持ちはぐっと堪えて。だが一体、何を照れくさがっていたのだろうかと、気になりだしたら止まらない。
なるほど・・・事情は分からねぇが、恥ずかしがっていただけなのか。それならばと、ニヤリ口元を緩めた原田が立ち上がり、千鶴の背後へ回って膝を付く。目の前の視界から急に原田が居なくなった千鶴は、きょろきょろ周囲を見渡していると、ふいに背後から伸びてきた腕に攫われ、胸の中へと抱き締められてしまった。
「きゃっ！ さ、左之助さん・・・離して下さい。お布団、まだ敷き終わってないんです」
「終わってないって、後は千鶴が抱き締めてるその枕を置くだけだろ？ 俺の話だって終わっちゃいねぇ。千鶴が話してくれるまで、この腕は離せられねぇな。」
「んっ、やっ・・・。だ、駄目ですってば・・・くすぐったい」
囁くように吐息がかかる耳朶へ唇がそっと押し当てられ、千鶴がくすぐったさと羞恥の熱さで小さく身を竦ませる。逃げようと身をよじる華奢な身体を容易く腕の中へ閉じ込め、自分の広い胸へ押しつけるように熱と鼓動を伝えて。このままでは、千鶴を煽るつもりが、てめぇの理性に火が着いて切れちまう・・・そんなぎりぎりのところで必死に留めた。
「それとも・・・・・・」
「左之助さん？」
「俺じゃ頼りにならねぇか？ お互いが困っていたら支え合う。俺たちの間に隠し事は無しだって、二人で決めたじゃねぇか」
背後からすっぽりと千鶴を抱き締めていた原田が、ふいに黙り込む。動きを止め、続く言葉がいつまでもこない不安に小さく身動いだ千鶴が、どうしたのかと肩越しに振り仰いだ。すると悪戯に微笑んでいた表情を消し去り、真摯な光で真っ直ぐ見つめる眼差しと交わった。呼吸も止まるほんの数秒の沈黙の後、うるりと瞳を潤ませ、根負けしたのは千鶴の方だった。
肩越しに振り仰いでいた身体ごと向き直り、抱き締めていた枕を気恥ずかしそうに見つめていたが、意を決して真っ直ぐ左之助を見つめた。
「とっても、ささやかなことなんです。そんなことで悩んでいるのかと、笑われてしまいそうで・・・。心配させたく無かったのに、余計に心配させて、ごめんなさい。」
「笑わねぇよ。悩みに大きいも小さいもねぇよ。千鶴と俺にとっちゃ、大事だことだろ」
嬉しそうにぱっと笑みを浮かべた千鶴がこくんと頷、いそいそと膝を詰めて互いの僅かな距離を縮めてくる。僅かに腰を浮かせ、「あのですね・・・」そう内緒話をするように寄せてくる口元へ、自然と身を屈める原田の表情も、いつの間にか千鶴と同じように笑みを浮かべていた。
「私たちのお布団について、考えていたんです。」
「布団？ 二つ並んだ布団を眺めていると、夫婦なんだなぁって・・・嬉しくなっちまうよな。」
「はい！ でも・・・私の枕は左之助さんの腕枕で。いつも二人分敷いてますけど、朝になればどちらかのお布団に二人でくるまっているから、その・・・一人分しか使わないのなら、最初から二つもいらないんじゃないかって思ったんです。」
「でも、最初から寝所に布団が一つだと恥ずかしくて、どうしようかと悩んでいたって訳か」
「・・・はい」
照れ隠しに弄んでいた枕を自分の布団へそっと置くと、高鳴る鼓動を押さえるように胸を押さえ、深呼吸を一つ。じっと見守る原田へ頬を桃色に染めたままふわりと微笑み、気恥ずかしそうに小さく俯いた千鶴が、コクンと頷いた。思わず吐息が深く零れたのは安堵したことと、可愛らしい悩みの真意を聞かされ、今にも壊れそうな理性を少しでも落ち着かせるためだ。
しかし、その深い吐息を、呆れたのだと勘違いした千鶴が不安そうに瞳を揺らし、じっと見つめてくる。
「確かにな。おまえの手間を考えると、少しでも楽させてやりてぇって思う。となると、風呂を別々に入るのは湯がもったいねぇってことにもなるだろ。一緒に入った方が一度に済むし、俺としては千鶴と一緒で嬉しいからな」
「ど、どうしてお風呂の話にまで広がるんですか！ 今は、お布団の話ですっ」
「まぁ俺としちゃ、布団一つでお前とくるまるって眠るのは、大賛成なんだが。だがそうすると、千鶴は恥ずかしがって寝所に入って来なくなるだろ？ そいつはもっと困るんだ」
布団の上にあぐらを組んで座り込み、腕を組みながら神妙な顔で悩む原田に、真っ赤な茹で蛸になっていた千鶴も、小さく笑みを零した。膝を向かい合わせ、くすくすと微笑みながら吐息が触れる近さで覗き込めば、難しく寄せられた眉と瞳が柔らかに緩む。腕を伸ばし、そっと肩を抱き寄せると、甘く唇を噛むような口付けを。
「布団が二人分だろうが、一つだろうが、俺たちが寄り添って眠ることにゃ変わりはねぇしな。難しく考えることはねぇよ。おまえの枕は俺の腕枕だって言っただろう？ と言うわけで、そろそろ寝るか」
「きゃっ、左之助さん！ あの、眠るのなら寝間着に着替えないと。どうしてもうお布団に・・・！？」
「ん？ そりゃ、まぁ。どうせこの後、脱ぐことにゃ変わらねぇからな」
「そ、そんな・・・・！」
潤んだ瞳にじっと見つめられると、手の平へしっとり吸い付く柔らかな頬に触れたくなる。で、触れてしまったら今度は唇に吸い寄せられ・・・千鶴が好きだと自覚してからは、理性というものはこんなにも脆いものだったのかと、新選組としていた頃から何度戦ったことだろう。こと千鶴に関しては譲れないものが人一倍大きいが、意外と我慢が聞かない自分に気付いた。
もう夫婦なんだし、我慢は必要ねぇよな。そうだろう？
抱き締めた身体ごと、ふわりと布団に押し倒し、身体の重みをかけないように覆い被さって、観念したのか静かに閉じられた瞼。甘く艶めき始めた光を宿した原田が見つめる先には、同じように映す千鶴の瞳。
深く重なる二度目の口付けは二人だけの合図で、結局今夜も、一人分の布団は使われずに朝を迎える・・・らしい。