二人の温度
横浜から1時間ほど車を走らせれば、四季を通じて楽しめる、風光明媚な自然が人気の温泉地に辿り着く。練習を終えた小日向と菩提樹寮の先に止めた車で待ち合わせ、土岐が車で向かったのは料理が美味しいと評判の、自家源泉掛け流しの温泉宿。慌ただしい街中を少し抜けただけで、時間がゆっくりと過ぎ去り、育まれる心のゆとりと静かなリズム。ここにあるのは自然と人、人と人が優しく繋がる時間。
お互いが出会ったコンクールの夏から一年が過ぎ、再び同じ夏が巡ってきた。3年に進級した小日向は、高校最後の年になる全国コンクールの最中だが、恋人同士で祝う初めての誕生日は、舞台の上で奏でる演奏と同じくらいに気持ちが高まる。
いつもは横浜と神戸に離れているから、ひさしぶりに会えると一緒にいられるだけで嬉しくて、でも興奮と緊張で鼓動はドキドキ早鐘を打ちっぱなしなのだと。
湯上がりの可愛い浴衣姿を恥じらいながら、手を伸ばせば触れられる距離に向かい合い、座る膝の上で羞恥に耐えながらきゅっと拳を握り締めての上目遣い。真っ赤に染まる顔で真摯に告げられた想いの言葉と、「誕生日おめでとう」に、思うよりも先に動いた腕が背を浚って閉じ込めてしまう。腕の中で息を潜めて固まる耳朶に唇を寄せれば、小さく声を漏らす身体がぴくりと飛び跳ねた。
二言三言囁く言葉に頬を火照らせた小日向が、くすぐったい沈黙の後で、潤む瞳のまま小さくコクンと頷く。モジモジと身動ぎながら浴衣の脚の合わせ目を揃え直し、どうぞとはにかみながら招くのは膝枕。愛しい指定席に笑みを浮かべた土岐が、包んだ頬にそっとキスを降らせながら、膝に頭と身体を横たえた。
「はぁ〜やっぱり温泉はえぇなぁ。心地良いものが、ここに全部集まっとう。その中でも小日向ちゃんの膝枕が、特に最高や」
「温泉も気持ち良かったし、食事も美味しかったですよね。でも蓬生さん、あの・・・ずいぶんのんびり寛いでますけど、時間大丈夫ですか? まさか泊まり・・・じゃないですよね!?」
「ふふっ。そう硬く緊張せんでも、ちゃんと夜には寮に返したるから安心し。温泉と食事がセットになった、客室の休憩つきの日帰りプランやで。俺はこのまま泊まりプランに変更してもえぇけど・・・膝枕のお礼は、腕枕でえぇな?」
「ほっ、蓬生さん!」
「湯上がりにちょっと休憩や。小日向ちゃんは、助手席で寝てもえぇけど、車運転する俺まで眠ったらあかんやろ」
八月も半ばを過ぎれば、日暮れの時間も以前より早くなる。蒸し暑さの収まった夕暮れに、爽やかな夜風を受け止めながら耳を澄ませれば、いつの間にか鳴き始めた虫の声。日中はまだ暑さに茹だるけれど、朝夕に感じる爽やかな風の存在が、次の季節をそっと囁きながら教えてくれている。
膝をまくらにゆっくりと団扇で送られる風を受け止めれば、頭を包むように絡められた指先が、髪の毛を撫ですぐ感触が心地良い。まさに夢見心地やと自然と緩む微笑みのまま、横向きから仰向けに寝返り瞳を開ければ、真上から覗き込むの困った顔。困った顔も可愛えぇなぁ、もっとイジワルしとうなる。
つい零れてしまった笑みに、ますます頬を膨らませて拗ねてしまった小日向を、余裕の微笑みで見上げながら。ゆるゆると腕を伸ばし、尖らせた唇に指先を這わせた。さぁ、機嫌を直してくれへん? 笑って?と魔法の呪文をかけるように。
「あの・・・蓬生さん、本当に何もいらないんですか? 誕生日プレゼント。蓬生さんが欲しいものを聞いてから、それを贈り物にしようと思ってたのに・・・。大好きな人の誕生日は、私にとっても大切な記念日なんです。生まれてきてくれてありがとう、ここに居てくれてありがとうって・・・たくさんの感謝と想いを伝えたい。20才の節目なら、尚更大事です」
「小日向やんの気持ちが一番嬉しい。俺はもうあんたに、大きなプレゼントもらってるで。邪魔の入らない二人きりの空間で、あんたの全てを独り占めできる。最高のプレゼントや」
「・・・本当に? 蓬生さん、もっとおねだりしてくるかと思って、実は緊張してたんですよ。私の膝まくらだけで良いのなら、いくらでも貸しますね。誕生日が来て年の差が開くと、大人の遠くの人になるみたいで、ちょっと寂しい気持ちもあったんです。でも、甘えんぼさんな蓬生さんを見ていたら、いつもの蓬生さんだなぁって安心しました。」
ふふっと無邪気に微笑む小日向ちゃんが、まるで膝の上に抱いた猫のように、頭を何度も撫でつけてくる。心地良いのに何かもやっとする、複雑な気分なのはなぜやろう。それに膝枕だけでえぇとは、いっとらんけど? 小日向ちゃんが思うほど俺は聖人君子やない、気をつけなあかんで。あんたを抱き締めとうて・・・すぐにでも浴衣の帯を解こうとしとるんやから。
それでも、笑顔で口ずさむ俺のためのバースデーソングが、降り注ぐ光のように心へじんわり染み込み温もりが灯る。
「特別な日」・・・そう、特別な日だから、あんたと二人でいてたい。俺だけのために向けられる、あんたの全てが欲しい。
「なぁ小日向ちゃん、一つだけ誕生日の贈り物をおねだりしても、えぇ? 」
「はい、もちろんです! 手料理でもヴァイオリンの演奏でも、私に出来ることなら何でも言って下さいね」
「これができるのは小日向ちゃんだけや。20才の記念やから、新しい年の数だけあんたのキスが欲しいなぁ」
「へっ・・・あの、20回キスするってことですか!?」
「そうや、蓬生さん好きって囁きながら。唇でも頬でも身体でも、好きなトコに好きなだけ触れてもえぇよ。何でもしてくれるんやろ?」
「えぇっ、そんな・・・は、恥ずかしいですっ! 蓬生さん、イジワルしないでください〜」
耳や首筋まで真っ赤な火を噴き出しながら、モジモジと身動ぐ膝から振り落とされそうになり、腕を支えに半身を起き上がらせる。せっかく気持ちえぇとこやったのに、まぁ仕方ないな。正座のまま固まる小日向ちゃんへ、一歩膝を詰めて距離を縮めると、髪に絡めた頭を引き寄せて耳朶へ吐息を吹き込んだ。さぁ、どうする?
イジワルしとうなるのは、あんたがあんまりにも可愛いからなんやで?
甘く囁く吐息が媚薬になり、瞳を潤ませる。
「・・・かなで?」
「・・・っ! 今ここで優しく名前を呼ばれたら逆らえないって・・・知ってて呼ぶのはずるいです。気持ちが蕩けて、もう蓬生さんしか見えなくなっちゃう。これじゃぁ、どっちが贈り物をもらっているか、分かりません」
「特別な日だから、小日向ちゃんの全てが欲しい。後で俺は腕枕やって、そう言うたやろ? えぇ子やから、言うこと聞いとき」
抱き寄せた腕の中で、ぼっと火を噴く火照りが浴衣の布越しに伝わり、二つの温度がゆっくり一つに溶け合い始める。やがて「大好きです」そうはっきり告げた言葉が、背伸びで唇に届けた小さな温もり。「まずは一つ目・・・やね」と微笑んで、お返しは、襟元から覗く白い首筋に吸い付き、赤い花を咲かせた。
たった数時間だけの旅に出ても、戻ればすぐ日常に飲み込まれてしまう。でも、あんたと俺の温度が音色みたく溶け合った確かな想いと絆が、確かに残る。小さな熱はやがて大きな炎になって、俺もあんたも焼き焦がす。襟元にキュッとしがみつく指先の力が籠もり、触れ合う布越しに伝え合う鼓動は、甘く切なく歌う恋の声。あかん、俺の本気にも火が付きそうや。