ふわりと意識が浮上する感覚と共に、気だるさに包まれながら薄っすらと瞳を開ければ、カーテンの隙間から差し込む朝日の眩しさに一瞬痛みを覚えて目を細めた。頭はまだ霧に包まれたまま目覚め切れていない状態であっても、俺の手は無意識に伸びて側にある温もりを求め、手繰り寄せてしまう。シュルッとシーツを擦る軽い音が耳元で鳴り、腕の中に灯ったほのかな温もりに安らぎと安堵感を覚えながら、ゆっくり瞳を開いた。
ぼやけた輪郭が次第にはっきりとした像を結べば、すぐ目の前には先に起きていたらしい香穂子の、にこにこな笑顔で俺を覗き込む大きな瞳。部屋を照らす朝日を受けて、彼女の瞳も眩しく輝いているように見えた。
俺の視界いっぱいに広がる大きな瞳と、くすぐったく微かに降りかかる甘い吐息に、眠気も気だるさも瞬時に吹き飛んで。シーツにくるまり、ベッドの中で愛しい君と共に目覚める朝が始まる。
起きなければ・・・そう思うのだが、心地良いまどろみと温もりに浸っていたいから。
どうかもう少し、このままでいさせて欲しい・・・。
寝ている間は眼鏡やコンタクトレンズを外している為、彼女の表情まで良く見えるようにと、つい間近に引寄せじっと見つめてしまうのだ。そんな俺に最初君は恥ずかしそうに戸惑っていたけれど、今ではすっかり慣れたのか香穂子の方から「見えてる?」と、悪戯っぽくクスクス笑いながら鼻先を擦り付けるように見上げてきた。
俺より遥かに寝つきも寝起きも良い彼女は、今もずっと寝顔を眺めていたのかと思うと、何とも言えない照れくささが込み上げてくる。
「おはよう、蓮。や〜っと起きたね、このお寝坊さん」
そう言って彼女は指先で2〜3度俺の頬を突っつくと、瞳を閉じつつ笑みを湛えたままの唇を寄せ、そっと柔らかい温かさを俺の唇に押し当てた。香穂子からの、おはようのキス・・・。
一見いつもと変わらぬ朝だけれども、真っ白いシーツに降り注ぐ陽射しも、君の笑顔や優しい口付けも何もかもが、普通の同じ一日などはどこにも無いのだと教えてくれる。
そう・・・君と過ごす毎日が特別なのだと・・・・・・。
「ねぇ蓮、今日は何の日か知ってる?」
「あぁ・・・4月24日。俺の誕生日だろう?」
「そう、大正解〜! お誕生日おめでとう!」
「ありがとう、香穂子。朝一番に君からの祝福をもらえてとても嬉しい」
どうやら嬉しいのは俺だけでなく、香穂子も同じなようだ。目覚めた時から満面の笑みを湛えてはしゃいでいたのは、今日は俺達が過ごす特別な毎日の中でも、最も大切な日のうちの一つだからなのだ。
楽しい事も嬉しい事も気持や想いを一緒に分かち合えれば、2倍にも3倍にも大きく膨らんでゆく気がする。
今度はおめでとうのキスだよと、しなやかな腕を俺の首に絡め、背伸びをするように再び唇を寄せてきた。
甘く、熱く・・・絡み合うのは唇やその奥深くだけでなく、瞳や互いの心まで。彼女からの祝福を唇から受け止めつつ覆い包むように背を抱き寄せ、俺からも返せば、腕の中で心地良さそうに閉じた瞳と頬を緩めている。
「誕生日のプレゼントなんだけどね、いろいろ考えるうちに何を贈ろうか迷っちゃって・・・。蓮が欲しい物を直接聞いて、それを私から贈ろうと思ったの。デートしながら一緒に選ぶのも楽しいかなって。ねぇ、蓮は今何が一番欲しい?」
「俺が一番欲しいもの?」
うん!と嬉しそうに大きく頷いてキュッと俺の胸にしがみつき、甘える子猫のように額や頬を擦り付け、腕の中からちょこんと視線をだけを向けてくる。考えつつ眉を寄せれば興味津々に瞳を輝かせる香穂子がいて、そんな愛らしい彼女の髪を柔らかく撫でながら微笑みかけた。
「香穂子が欲しい」
「えっ・・・わ、私!? あの・・・物とか演奏とか料理とか・・・何か他には無いのかな・・・・?」
「俺が欲しいものは、いつでもたった一つだけだから」
「や、やだもう蓮ってば・・・そう言うだろうとは思ってたけど・・・朝からストレート過ぎだよ、恥ずかしいじゃない。も〜っ、蓮のエッチ! いくら誕生日でも、起きたばかりだからそれだけは絶対に駄目だからね!」
言葉を詰まらせたまま次第に顔が赤く染まってゆく香穂子は、逃げるように僅かに後ずさって身を引くと、恥ずかしさで耐えられないのか視線を逸らして俯いて。柔らかく握った両拳でポスポスと俺の胸を叩き出した。受け止める彼女の拳は羽根のように軽く掠るだけだけなのに、身体を通り抜け俺の心を直接揺さぶるから、愛らしさが溢れて逆に胸が締め付けられたように苦しくなってしまう。幸せ過ぎても胸は痛むのだなと思った。
だが込み上げる笑いを押さえきれずにクスクスと声を漏らすと、俺の振動が触れ合った身体から伝わるのか、火を噴出しそうな程顔だけでなく耳や首筋までも真っ赤に染めて、ますます身じろぎだし・・・そしてベットのスプリングまでもがたてる楽しげな笑い声と揺れが、俺と香穂子を包んでいく。もがく彼女の動きを優しく抱き締めて封じ込め、上からそっと覆い被さると宥めるように触れるだけのキスを降らせていった。
大人しく落ち着いてくれるまで愛しさを込めながら、額・・・頬・・・耳朶・・・鼻先・・・そして唇にと。
視線を絡めたまま髪を呼吸と同じ速度で撫でてゆくと、心地良さに気が緩んだのかそれとも諦めたのか。
やがて身動きを止めて身を任せだし、大人しくなった彼女の背に腕をまわすと頭を支えながら抱き起こして、俺と向かい合わせになるようにベッドの上へと座らせた。
「では言い方を変えよう。香穂子の一日を俺にくれないか?」
「私の・・・一日?」
「そう、君の一日・・・。君が過ごす筈だった今日の予定を、君の身体ごと全て俺に預けて欲しいんだ」
照れているのか拗ねているのか・・・ほんのり染めた頬をぷうっと膨らませながら、ペタリと座った脚の上に組んだ両手をきゅっと握り合わせ、視線を逸らして俯いている。しかし俺の言葉におずおずと顔を上げると、きょとんと不思議そうに首を傾げた彼女に瞳を緩めて頷いた。
「香穂子のヴァイオリンが聞きたいし、久しぶりに合奏もしたい。天気が良さそうだから街や近くの森を散歩するのも良さそうだ。本当は一日などではとても足りないんだが・・・他にもいろいろ君と一緒にしたい事や、君と見たい場所がたくさんある。俺のやりたい事や行きたい場所に、一緒に付き合ってくれたら嬉しい」
「何だ、そう言う事だったの・・・。ごめんね、私ったら勝手に早とちりしちゃって」
「いや、気にしないでくれ。俺の言い方が・・・というより、そう君に思わせてしまう俺が悪いのだから」
「ねぇ蓮、ちなみに一日っていつまでなの? 晩御飯の時間まで? それとも夜寝るまでの間?」
「いや、翌朝に目覚めるまでだ。明日になるまでは、一日中ずっと俺と一緒」
「えっ、朝まで!? ど、どうしよう・・えっと・・・その・・・・・・」
「・・・駄目だろうか?」
真摯な想いを込めて、揺らめく瞳を射抜くようにじっと見つめた。
あれもこれもと思い描いただけで心が浮き立ってくる。過ごす毎日の中でたくさんの夢が生まれてくるから、一つ一つそれを確かな形あるものにしていきたいと思うんだ・・・君と一緒に。
朝まで・・・そう言った途端に香穂子は急に顔を真っ赤に染めてそわそわと慌て出し、側にあった自分の枕を引寄せると、困ったように眉を寄せながら顔を埋めるようにぎゅっと抱き締める。何か迷っているのか考えているのか・・・それとも決心を決めかねているのか。今は焦らせず急かさずに、黙って彼女を見守るしかない。
やがて胸に抱き締めていた枕をポンと脇に放り投げると、パッと花を咲かせたように笑顔を弾けさせ、いそいそと膝を詰めながら身体を寄せてくる。両手を広げて膝立ちのまま俺に向かって飛び込もうとする彼女を、抱きとめるように胸の中へ閉じ込めた。
「いいよ、私の一日を蓮にあげる。それが私からの誕生日プレゼント。蓮がやりたい事、行きたい所・・・一緒にどこまでも着いて行くからね。ふふっ・・・蓮がプロデユースした一日を過ごせるなんて、とっても楽しそう。あげた私の方が逆にプレゼント貰っている感じで、嬉しくなっちゃう!」
「そうだな、俺だけでなく君も一緒に楽しんでもらえたら、幸せだと思う。今日は俺が生命を授かった日、俺の命に・・・そして、俺を支えてくれる皆に感謝をするとても大切な日だ。たくさんの人たちに祝福されて今ここで生きているからこそ、君と共にいろいろな事が出来たり感じたりできるのだと思う。だが他の誰よりもまず、それを俺に教えてくれた香穂子に、心からの想いと感謝を捧げたい」
「蓮・・・・・」
熱く潤んだ香穂子の大きな瞳と視線が絡むと、輝きの中へ吸い寄せられそうになってしまう。ふと我に返って近づきかけた自分の顔に気がついたのは、視線そらして僅かに俯いた彼女が俺の胸をじっと見つめていたからだった。どうしたのだろかと見守っていると、そっと手を伸ばして心臓の上辺りに両手を添えて、縋りつくように俺の胸に頬と耳をピタリと寄せてきた・・・穏やかそうに微笑を浮かべて瞳を閉じながら。
「心臓のドキドキが聞こえてくる・・・蓮が生きている証だね。それを感じられるのは私も、ここで蓮と一緒に生きているからなんだよね」
「あぁ・・・そうだな」
「名前を呼んだりお話したりしたり、一緒に笑い合っていっぱいキスもして・・・。毎日がとっても楽しくて幸せなのは、皆なみ〜んな蓮がいてくれるからなんだよね。私のすぐ側で生きていてくれてありがとう。大好きな蓮の生命に私からも、心からのありがとうを捧げたい・・・。お誕生日、おめでとう」
俺の胸に擦り寄る香穂子の肩をそっと静かに引き離し、唇に触れるだけのキスを贈る。
柔らかく優しく・・・君から心にもらった温かさを同じように感じて欲しいから、せめて唇に乗せて。
「いつまでものんびりしてはいられないな、時間がもったいない。そろそろ起きて支度をしようか」
「楽しい時間はあっという間に過ぎちゃうから急がないとね。ねぇ、まず何からやるの?」
「そうだな・・・では朝食の支度を、一緒に手伝わせてくれないか? たまには君と一緒にキッチンへ立ってみたいんだ」
「ふふっ・・・これじゃぁいつもの休日と一緒じゃない。でも、一緒じゃなくて今日は特別なんだよね。お出かけもするんでしょう? 蓮とどこに行けるか楽しみだな〜。春だし、お弁当持ってちょっと遠くへ行くのもいいよね」
「では、そうしようか」
「ちょっと蓮ってば! 私のやりたい事じゃなくて、蓮のやりたい事をする日なんじゃないの?」
「いいんだ。君がやりたい事を叶えるのも、俺がしたい事の一つだから」
驚いて抗議をする香穂子の手を、そっと包み込んで握り締めながら、緩めた瞳と頬で微笑みかけた。
ありがとうと感謝の気持を思ったり言葉で伝えると、心が温かく幸せになる。
それは君が向けてくれる優しさに気付く事が出来た俺への、見えないプレゼントなのかも知れないな。
君と一緒にやりたい事や行きたい場所は、たくさんありすぎてとてもじゃないけどたった1日では終わらないから、今日だけでなくこれかも毎日少しずつ形にしていけたらいいと思う。
けれども、これはほんの些細なきっかけに過ぎないのだから・・・。
いつもと変わらない・・・それこそが、いつだって近くにある大切なもの。
それは道端にひっそりと咲いている花のように、君と過ごす毎日の中に散りばめられている幸せの欠片たち。一緒に探して俺と君の胸のポケットに溢れるくらいに、たくさん拾い集めていこう。
たとえゆっくりでもいい・・・幸せに気付ける速さでならば。