不意打ちのキス



放課後の待ち合わせは、予約をしていた練習室。ドアのガラス窓から中を覗き込み、先に衛藤がいる事を確認した香穂子が、曲の切れ目を待ってノックをすると、ヴァイオリンを引く手を止めて肩越しに振り向く顔が、待ち人を見つけた笑顔に変わった。自然と心弾むままに身を屈めてドアの覗きガラスから小さく手を振り返し、楽器を置いた衛藤が迎えるのを待ちきれずに重い扉を開けると、逸る気持ちに急かされながら練習室に駆けこみ、足元に鞄とヴァイオリンケースを置くと真っ直ぐ笑顔でふり仰ぐ。


「衛藤くん、お待たせ!」
「遅いぞ、香穂子。練習を見て欲しいって言ったのはあんただろ?」
「ごめんね、ホームルームが長引いちゃったの。すぐに支度するね」


遅いと諫める気持ちも会えた嬉しさには敵わず、すぐに緩んでしまうのはいつものこと。交わる視線が見えない言葉を伝えると、想いのカプセルが弾けて熱さに変わる。秋から冬に移り変わる頃に出会ったときよりも、身長が伸びた分だけ見上げるようになった唇を目差し、勢いよく背伸びをする香穂子のつま先を支えるのは、そっと抱き寄せる腕と広い胸。ふわりと重なる唇がすぐに離れてゆくのが惜しくて、見つめ合ったまま焦がれる甘さが再び引き寄せれば、柔らかさを啄み想いを重ねるキスをもう一度。

だが潤んだ瞳でほうっと甘い吐息を零す腕の中の恋人は、みるまに顔を茹で蛸に染めてゆき、その頬をぷぅっと膨らませてしまう。おい何拗ねてるんだよ、俺はあんたに何かしたのか? 不安ともどかしさが混ざる、言葉に上手くできない気持ちを抑えながら優しく問うけれど、拗ねてないもんとそう言って、子供のように唇をつんと尖らせてしまうだけ。


「香穂子、何拗ねてんだよ」
「拗ねてなんかないもん」
「嘘だね、あんた正直だからすぐ顔に出るんだよ。その・・・もしかして、さっきのキスが嫌だったのか?」
「・・・嫌じゃ無かったよ、嬉しかった」
「じゃぁなんで・・・」
「不意打ちでキスしようと思ったのに、衛藤くん気付いちゃうんだもん。びっくりした顔が見たかったのに、いつもみたく私がいっぱい幸せもらっちゃったよ」


ようやく着慣れた星奏学院の制服も、季節が移り夏服に変わった。白く爽やかな夏服の眩しさは、香穂子の元気さに似合っていると思う。だけどシャツをきゅっと掴みながら、上目遣いに睨まれても、可愛いだけだってそろそろ気付いた方が良いぜ。薄い生地は抱き締めた身体の体温や柔らかさを直接伝えてくれるから、抱き締めたまま可愛く拗ねられると落ち着かなくなるんだよ。


「なんだそんな事だったのか、可愛いヤツ。あんたこの前に思いっきり背伸びして、よろけそうになっただろ、危ないんだよ。立って並んだら香穂子が背伸びしても、俺には届かないじゃん。星奏学院に入学してから背、伸びたし。育ち盛りだからまだまだ伸びるぜ。」
「むぅ〜何か悔しいなぁ、私だけいつも不意打ちに、衛藤くんからチュッとされるんだもの。とってもびっくりするし、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキするんだよ。座ったときには、ほっぺや首筋じゃなくて、ちゃんと唇まで届くのに〜」
「そこ張り合うとこかよ。不意打ちってのは無防備な瞬間にくるもんだろ? あんたはいろんな物へ興味を示して、くるくる表情を変えてるし、隙だらけなんだよ。危なっかしいから、その分俺がしっかりあんたを見ているって訳。だから
常に香穂子へ意識を向けてる俺に、不意打ちは難しいと思うぜ」


これじゃぁ、いつもあんたを見ている・・・って告白しているのと同じじゃん。急に高鳴りだした鼓動と熱さを増した体温を気付かれないように、抱き締めていた身体をさりげなく離して。背筋を伸ばし姿勢を正せば、以前よりも少し遠くなった視線や唇の距離が、少し大人に近付いたと教えてくれる気がする。見下ろすほどに愛しくて、愛しいと思う音色をあんたの心へに届けたい・・・彼女を守れる力が欲しいと、強く願うようになったのはいつからだろう。


「ん〜もう少しなの。あとちょっとって届くのに・・・あと5pあったらなぁ」
「ほら、一人だと届かないじゃん」
「あっ! 衛藤くんが背伸びするなんてずるい!」


だが一生懸命つま先立ちで背伸びをしながら、上向きで唇を差し出そうとする、健気な姿がいじらしい。離れるほどに愛しさが募り、確かな温もりが欲しくなる・・・想いを届けたくなる。届きそうな唇に吸い付きたい気持ちを、ぐっと堪えすすりと背伸びでかわし、驚きに目を見開く鼻先へ不意打ちのキス。ほら、こういうのを不意打ちって言うんだぜ。


「衛藤くんのイジワル。もういいもん、キスしてあげないんだからね。せっかく素敵なこと教えてあげようと思ったのに、もう知らないっ。さっ、練習しよ」
「悪かった、香穂子。だから機嫌直せよ、こっち・・・向いてくれないか?」
「・・・・・・・・」


どうやら臍を曲げてしまったらしい香穂子は、ヴァイオリンケースを持って離れた壁際に行くと、背を向けたまま楽器の用意を始めた。名前を呼んでも肩越しに振り返り、い〜っと小さく赤い舌を覗かせるだけ。あんた、子供か? 帰ると言わないだけまだ良いのかも知れないが、このままヴァイオリンの練習なんて出来るはずがない。まぁ悪戯したのは自分だし、ここは素直に謝るべきだろう。恋して二人の距離が近くなるほど、小さな声を聞き逃してしまっているのは、むしろ自分かも知れないから。

壁際に歩み寄って香穂子の隣に膝を付くと、開いたヴァイオリンケースの前に先程からじっとしゃがみ込み、自分の手を見つめる。むぅっと眉をしかめて難しい顔をしたり、そうかと思えば頬を桃色に染め、笑顔の花を咲かせていた。くるくる変わる表情は、まるで色鮮やかに変わる万華鏡のようだ。手の平や指の付け根に刻まれた皺を、幸せそうに微笑む指先で丁寧になぞると、ふわふわ浮かぶ何か温かい物をきゅっと掴むように握り締めて。両手で大切な卵を両手で温めながら胸に押し当てている。

どうしたら笑ってくれるか、自分を見てくれるかを考えよう。香穂子・・・と優しく名前を呼びかけながら、そっと伸ばした指先を紙に絡め緩やかに撫で梳いてゆく。甘く優しいメロディーを、ヴァイオリンで奏でるように。するとどことなくぎこちなかった空気も丸みを帯びて一つに溶け合い、拗ねる尖った唇も緩やかな微笑みを浮かべていた。


「香穂子が練習室に入ってきたとき、最初にくれたキスはふいうちじゃなくて、何て言うか・・・その、しっかり俺にも気持ちが届いていたから受け止めたんだ。二重奏の演奏前に呼吸を合わすみたいな。あんた、いつでも真っ直ぐ向かってくるだろ?」
「そ、そうだったんだ・・・勝手に拗ねてごめんね。でもキスを逸らしてイジワルするのは、良くないって思うの。もうイジワルしない?」
「意地悪じゃなくて焦らすって言うんだぜ、そういうの。香穂子が可愛いから、困った顔も見たくなるんだ。俺は、悪戯にじゃれるあんたに焦らされると、やっと触れた瞬間蕩けるくらいに燃えるけどな。ふいうちのキスと焦らされると、香穂子はどっちが好き?」
「やっ、恥ずかしい事聞かないで。どっちも選べないよ・・・衛藤くんの意地悪! えっとね、今はその・・・衛藤くんのヴァイオリンが聴きたいな。うん、ヴァイオリンが好き」


きょろきょろと練習室を見渡した香穂子が、楽器ケースの上に置いた衛藤のヴァイオリンを示し、肩越しに振り返った隙を狙ってヴァイオリンを掴むと、いそいそ抜け出ようとする。俺のヴァイオリンが好きと、予想もしていなかった答えに驚きながらも悪くはなくて、温かさが心の中に満ちてゆく。上手く答えをはぐらかしたつもりだろうけど、そうは行かないぜ。

立ち上がろうとした腕を掴み、ぐっと引き寄せ顔を近づけてゆく。だけど早く駆ける熱い鼓動と吐息が絡み合う、唇が触れる直前で寸止めをして。少しだけ待てばキスの予感に瞳を閉じた香穂子が、吐息を受け止め困ったように眉を寄せながら、今か未だかと落ちつきなく肩を揺らし始めていた。


音色を重ねる前に、まずは心と唇を・・・練習の片隅で交わす、軽く触れ合わせるだけのキス。
どれだけ待ったのか分からなくなるほどに、ふいに唇へ降り注ぐ温もりは注ぐ方にも受け止める方も、甘くまろやかに心を震わせる。気付いてないようだけど、俺はいつもあんたに驚かされているよ。もしかしたらこうして啄むキスが、一番刺激的なんじゃないかって思う。

不意打ちのキスっていうのは、後からわっと脅かすようなものじゃなくて・・・触れ合いそうな僅か数pの小さな攻防なんだぜ。