不安な気持ちをはんぶんこ




オレンジ色の夕暮れが、あっという間に藍色の夜空に変われば、頬を引き締める凜と冷えた冬の空気の中で星が輝き始める。いつもの公園のベンチに座り、両手の中へ握り締めた温かい缶のココアを一口飲んた香穂子が、ほうっと吐息をこぼして夜空を見上げれば、白い吐息の綿帽子がふわり空へ昇っていった。

二人で冬のオリオン座を見上げていたついさっきまでは、無邪気に顔を寄せてくるあんたと、どちらの吐息が白く大きいかを競い合っていたり。遊ぼうよと誘われるまま、二人の吐息を宙に重ねて大きな風船を作っていたのに。ふいにお互いの頬が触れた瞬間、顔の近さに改めて気付くと、香穂子の顔がみるみる赤く染まっていく。

それなのに吸い寄せられる大きな瞳は、俺を映したまま動くことが出来ないんだ。
このまま俺から動いて、あんたの唇にキスしちまうぞ。


「香穂子・・・・香穂子、近いっ!」
「あ! 夢中になって・・・つい、ごめんね。近かったよね、私もびっくりしちゃった」
「ふ〜ん。さては我を忘れるほど、俺に見とれていたな」
「えっとね・・・その。私の顔に一瞬ぴっとりくっついた衛藤くんのほっぺがね、すごく柔らかくてすべすべしてて、気持ち良かったの。そしたら急に身体の中が熱くなって、動けなくなちゃった・・・へへっ」
「へへっ・・・じゃないだろ。そこで照れながら黙るの、ずるいぞ」


熱さが伝わるくらい照れて、急に大人しくなるなんて卑怯じゃん。あんたの顔を見たら、俺まで意識して余計に照れるだろ。同じ近さでも昼間は平気なのに、夕方以降に暗くなると鼓動が高まるのは・・・何故だろうな。

鈴の音が響くような星空の下で、甘酸っぱい沈黙に優しく包まれながら、言葉無くただ肩をひっそり寄せ合って。小さなキャンドルの灯りみたいな温もりを感じて、隣にいる香穂子を見つめると、きらきら輝く大きな瞳がじっと真っ直ぐ見上げていた。ただ俺だけに向けられる微笑みに鼓動が熱く高鳴るのは、可愛いからという理由もあるけれど、あんたが俺のことを好きだと想ってくれている・・・そう感じるからかも知れない。


零れた吐息も空に昇れば、ヴァイオリンの音色みたく、あの空に輝く星になるんだよねと・・・瞳を輝かせてふり仰ぐ香穂子に衛藤も緩めた瞳で微笑み返す。すっかり中身が空になった缶コーヒーが、軽い音を立ててベンチに降り立つと、香穂子の腰を捕らえそっと腕の中へ引き寄せて。驚きに見開かれた瞳が静かに閉じられ、小さく上を向くのを合図に、差し出された赤い唇へ優しいキスを重ねた。

寒さにかじかんだ手を、吐息で温めるような・・・。
寄り添わせる身体を抱き締め合うような、唇から想いを伝えるそんなキスを。

「衛藤くん、星奏学院合格おめでとう。嬉しいなぁ、春になったら一緒に通えるんだね」
「サンキュ、香穂子。あんたに祝ってもらえて嬉しいよ。星奏学院は余裕で合格圏内だって、言った通りだったろ?」
「早く春にならないかなぁ、私もコンミス頑張らなくちゃ! ねっねっ衛藤くん、合格祝い何が欲しい?」  
「いいよ、別に。あんたと一緒に過ごせて、こうして缶コーヒーの一つでもおごってもらえたら満足だよ。それにお祝いはさっき、キスもらったし」


でも・・・と困った瞳で言い淀む香穂子に「じゃぁ、あんたが欲しい」と、澄んだ瞳を真っ直ぐ見つめる衛藤が真摯に告げれば、あっという間に茹で蛸に染まった顔から白い湯気が昇り出す。手の中に包んだままの缶ココアを、ぎゅっと強く握り締めながら羞恥に耐えて小さく俯く頬だけでなく、髪から覗く耳までがりんごのように赤い。赤く熟れた甘い実は、きっと食べ頃なんだろうと想う。


「あの、えっと・・・」
「安心しなよ、あんたが欲しいのは本当の気持ちだけど、今すぐってわけじゃない。不安や怖い思いはさせたくないから、俺は急がない。あんたが心の底から俺を欲しいと想うまで、待ってるよ」
「衛藤くん・・・」
「それに香穂子は今、コンミスを賭けたアンサンブルのコンサートっていう、大事な時期だろ。まずは音楽が優先。コンサートで最高の演奏、俺に聞かせてくれよ」
「うん!」


心のままに湧き出る笑顔を香穂子に注ぐと、桃色に染めた頬のまま潤む瞳で元気に頷く。じゃぁ約束な、そう言ってもう一度火照る頬を包み込み、身を屈めて軽く啄むキスをする。甘えるひな鳥のように、微笑みを浮かべた唇で受け止めた香穂子も小さな背伸びで啄み返せば、優しい温もりが一つに溶け合い、どちらともなく同じ笑顔が二人に生まれた。


香穂子を動揺させると分かっていたのに、どうしてあんな事を言ったんだろう。透明なグラスに注いだ水が溢れるみたく、心から溢れた気持ちがドキドキ高鳴る胸の鼓動に変わる。アレグロのテンポを刻み続ける止まらない鼓動を、冴えた星空を眺めつつ深呼吸で宥めていると、ふわり温かい柔らかさが脚の上に置いた手に重なった。

桐也?と微笑みかけながら、にこにこ微笑む日だまりに、硬くなっていた心が解けてゆくのを感じる。好きな気持ちが高まるほどに、一緒にいたい時間がもっと欲しくて、気ばかりが焦っていたのかも知れない。サンキュ・・・そう小さく囁いた言葉は、白い吐息の風船に乗ってあんたへ届いただろうか。


「香穂子。もう遅いし、そろそろ帰ろうぜ。家まで送るよ」
「え!? もう帰るの? あとちょっとだけ一緒にいよう?」
「もう・・・って、海岸通りからまっすぐあんたを送り届けるはずだったのに、いろいろ寄り道しながら公園に来たんだぜ。家も目の前だし時間も遅いし、これ以上は家の人を心配させるだろ」
「だって、本当は毎日でも衛藤くんに会いたいのに、休日くらいしかたっぷり一緒に過ごせないんだもん。学校違うし普段なかなか会えない分、一秒でも長く一緒にいたいの。ダメかな、あとちょとだけ・・・ね?」


もう帰ろう、そう言ってベンチから立ち上がりかけた身体が途中で止まったのは、ジャケットの裾を香穂子がしっかり握り締めていたから。一緒にいたい、離れたくない・・・強い願いと意志を込めた眼差しが、俺の心まで真っ直ぐ射く。離そうとしない手と眼差しに折れたのは俺の方で、そのままベンチにゆっくり座り直すと、ほっと安堵の吐息をこぼした香穂子がようやく指先の力を緩めてくれた。

さっきあんたが俺を温めてくれたように、膝の上でぎゅっと握り閉める拳に手を重ねれば、柔らかかった手がすっかり硬く凍っている。香穂子が感じる不安と寒さと寂しさは、俺も気持ち分かる・・・同じ気持ちだと言うのは簡単だけど、それじゃぁきっと気持ちは全部伝わらない。どうしたら、あんたに笑顔を取り戻せるだろう。


「香穂子は数学が得意か?」
「数学は英語や物理と同じくらいに、苦手なの・・・」
「じゃぁ恋愛の方程式なら、数学が苦手な香穂子でも分かるよな?」
「ん? 恋愛の方程式?」
「恋愛は感情でするものだから、人の心や好きな気持ちは計算できない。でも計算して恋愛する事はできなくても、想いの深さを計算す計算する方法はあるって、聞いたことがあるぜ」


泣きそうだった瞳が不思議そうにぱちくりと見開かれ、くるくる変わる表情は途端に興味を示し出す。良かったと安堵するのはまだ早いけど、潤み輝く眼差しを見つめたまま、膝の上に置かれた手にそっと指先を絡め握り締めた。


「さて香穂子に質問。次の3つの中で、親密度が一番高い関係はどれだと思う? @月曜から金曜日、平日2時間ずつ計10時間会う。A土曜と日曜それぞれ5時間ずつの計10時間会う。B土曜一日だけ10時間連続して会う」
「三択のクイズだね。会う時間と回数が問題なのかな、どれだろう。えっと・・・3番、かな。一日たっぷり一緒に過ごすと、相手と深く仲良くなれるもの。あれ? これってもしかして私たちに似てるのかな」
「そう、正解。親密度が高い順に並べるとB、A、@ってわけ。つまり俺たちの関係と同じじゃん。心理学の結果と現実なんて全て同じとは限らないけど、けっこう信憑性あるだろ?」


時間はどれも同じ10時間だけど、3つの親密度は同じじゃない。「広く浅い関係」とか「狭く深くの関係」という言葉をきいたことないか? 範囲は広いけれど表面的な関係より、一人のつながりが深い方がイイってさ。恋愛も、同じことが言えるって想わない? 

言葉に出来ない上手く伝えられない気持ちを、パズルのピースを合わせるように探りながら、心を込めて慎重に伝えてゆく。そして自分の心へも誓いを立てて、言い聞かせるように。


「好きなら一緒にいたい・・・毎日でも、それは俺も香穂子と同じ気持ちだ。だから好きな気持ちが溢れて、安心感が欲しくて・・・一つになり気持ちばかりが焦ってた」
「衛藤くんも、同じ気持ちだったんだね。私一人だけ寂しがっているのかと想ってた・・・ごめんね」
「一緒いたくてもお互いのやることや環境とかで、同じ時間をずっと過ごせない。それは大人になってからの方が、もっと厳しくなるだろうな。例え毎日顔を合わせていても、その一つ一つが浅ければ親密度が高いとは言えない。逆にあんたと俺みたいに会う回数が少なくても、その一つ一つが深く充実したものだったら、想いも絆も深められると俺は思う」


どんなときでもくじけない強さと前向きさが、夜空に輝く星みたく澄んだ輝きを放つ瞳の眩しさに変わる。愛しさに目を細めながら自然と緩む頬に気付けば、照れ臭さに慌てて火照る顔を引き締めた。

春になって星奏学院に入学しても音楽科と普通科、学年の違いがあるから、例え会いたくても学院内ですれ違うこともあるだろう。この先もっと自分の音楽を高めるために、海を越えて留学することだって、あるかも知れない。
大切なのは寂しさに勝つこと、競い合いながら自分と相手を信じること。声に出来ない気持ちに気付けるように、優しさを忘れないこと・・・。


「あんたは俺にとって、特別な存在なんだってこと、もっと自覚した方がいいぜ。あんたとこうして一緒に過ごす時間が、何よりも大切で愛しいんだからさ。明日は休日だから、朝から夜まで一緒にいられるだろ?」
「そうだよね、寂しがって場合じゃないよね。新しい曲も譜読みしなくちゃだし、練習で衛藤くんから駄目出しもらったところも、次に会う時までしっかり練習しなくちゃ!」


明日の休日は私の中を衛藤くんでイッパイにするのだと、そう言って真っ直ぐふり仰ぐ星空の笑顔が、微笑みを浮かべた唇のまま小さな背伸びでキスを届けてくれる。瞳を閉じれば、あんたのくれた温かい星空が心の中へ輝くから、暗闇では星を頼りに、どんなときも真っ直ぐ歩いて行けそうだ。


穏やかな心地良さだけじゃなくて、情熱の荒波や嫉妬、不安に心が揺れる時もある。人を好きになるって言うのは、海みたいだよな。揺れ動きながら、だんだん心の入れ物が大きくなっていくんだ。心の中にあるのは、あんたと二人で泳ぐ、幸せっていう青く綺麗な海。


さぁ、優しい夜があんたを守ってくれるように・・・俺達の大切な時間が、忘れられない絆になるように。
もう一度二人で、甘く優しいキスを交わそうか。