歩調を合わせて歩いたら



晴れたと思えば曇り、雨が降ったと思えば日が差して・・・秋が深まる頃になると空模様は気まぐれになってくる。秋の夜空に浮かぶ月はとても綺麗なのに、窓の外を見上げても、長雨と厚い雲が隠してしまうことが多い。だが移り変わる空模様が嫌いではないのは、くるくると表情を変える君のようだと思うから。空模様は秋という季節が抱く豊かな感情の表れなのだろう、だからこそ俺たちにいろいろな景色や、心にある想いを見せてくれるのかも知れない。



どんよりとした鈍色の雲から冷たい雨が降っているけれど、俺と香穂子の頭上だけは明るい青空が広がっている。澄み渡る青空に白い雲が緩やかに流れ、眩しい太陽の輝きが照らしていた。モノクロな色彩の中で一際浮き立つ鮮やかな青空は、香穂子が最近買ったというお気に入りの傘だ。


白いヴェールで街を包み霞ませる、どこか幻想的な雨煙を眺めながら思うのは、一つ傘の中で隣に寄り添い歩く香穂子の事ばかりだ。身長差があるから、傘を持つのは俺の役目なのも嬉しくて。雨はあまり得意ではないが、君とならば湿気の鬱陶しさも消え去り、透明な雨滴が煌めきの宝石に見えるから不思議だ。俺だけに注がれる笑顔と温もりが、雨の色や香りも優しさへ変えてしまう。


雨に打たれた街路樹の葉は石畳の上に柔らかな葉の絨毯を作り出し、黒く濡れそぼって引き締まる木の幹とのコントラストが美しい。傘と揃いで買った新しいレインブーツで、湿った葉を踏みしめる香穂子は、柔らかいね綺麗だねと頬を綻ばせてご機嫌だ。傘の青空を見上げると、雨音が奏でるメロディーに耳を澄ませ、聞こえたでしょう?と。振り仰ぐ笑顔が眩しくて、愛しさに瞳を細めずにはいられない。

こんな歌だったよねと口ずさむ歌声は、甘く優しい潤いになり、俺の心へ染み込むんだ。するとほら・・・自然と緩んでしまう頬や瞳に咲くのは、二人分の優しい笑顔の花。一雨ごとに寒さを増すが、木々の葉が赤や黄に色づきを増すように、俺たちも恋の葉が赤く鮮やかに色づいてゆくに違いない。


俺が先に行かないように、君が駆け出さないように、いつもより気を配らなくてはいけないな。並んで一緒に歩いたり、同じ景色を同じ目線で眺めるというのは、ヴァイオリンの音色を重ねることに似ていると思わないか?



「雨が降るとは聞いていたが、夜遅くと予報していたから油断していた・・・空模様が心配なら、傘は持って出かけなくてはいけないな。ちょうど通りかかった香穂子が傘に入れてくれて助かった、ありがとう。どこかに出かける用事があったのか?」
「うぅん、お散歩していたの。窓の外を眺めていたらね、私も空の水に溶けてお魚になっちゃった。新しく買った傘を差したくて、雨が降るようにずっとお願いしていたから嬉しくて。偶然にもおどろいているんだよ。だって月森くんに会えたし、こうして一緒に傘の中でお散歩出来るんだもの。でも、雨のせいで傘の無い月森くんが困っちゃったんだよね・・・」
「君のせいじゃない、どうか悲しまないでくれ。香穂子が散歩をしてくれたお陰で、俺は雨に濡れずに済んだんだ。それに俺も嬉しい。約束をしていなかったが、こうして休日に会う事も出来たから。会いたい・・・そう願っていた時に君が現れたから、俺も驚いた。好きな傘を差せて良かったな、傘も雨の水を浴びて喜んでいるようだ」


肩を寄せ合う近さで微笑むと、振り仰いだ香穂子の頬が桃色に染まってゆく。視線を上げて傘の青空をゆっくり見渡すと、初めてこの傘を差したのが月森くんと一緒で良かったと、そう言って笑顔の花を咲かせた。傘の上を滑る雨滴のように、するりと耳を通り過ぎた言葉が心へ波紋を描き出す。俺とこの傘を差したくて選んだのだろうか、雨の日を一緒に傘の中で寄り添い歩きたいのだと。熱く揺らめく波紋は、忙しなく想いを掻き立てるばかりだ。




休日に立ち寄った楽器店を出たところで雨が降り出してしまい、すぐ止むだろうと期待を抱きながら遠く空を眺め、軒先で雨宿りをしていた。今日が朝から天気なら、香穂子と公園で合奏も出来たのに・・・君は今、何をしているだろうか。手持ち無沙汰に待ちながら携帯電話のディスプレイを開き、香穂子のメールアドレスを表示させては、文字を途中のまま溜息と共に画面を閉じる・・・の繰り返し。会えない時ほど君への想いが募ってしまい、一人雨を凌ぎながら何度繰り返しただろうか。


降り始めのうちに近くのコンビニに走り、傘を買っていれば良かったと悔やまれるが、待つ程に強まる雨脚に零れるのは溜息ばかり。明けない夜が無いように、上がらない雨もない・・・そうだろう? 心の中へふと浮かんだ香穂子の笑顔に語りかけたそのときに、偶然通りかかったのが青空の傘を差した香穂子だったんだ。


雨雲がそこだけ切り取られたような空間に、視線が吸い寄せられ、青色が大きく迫るとやがて中心にいるのが香穂子だと気が付いた。俺よりも遙かに視力が良い香穂子は、随分遠くから気付いていたらしい。月森くん!と俺の名を呼び目の前に現れると、弾んだ息を肩で整えながら、やっぱり月森くんだと嬉しそうにはしゃきだす。つま先立ちで背伸びをすると腕を伸ばし、君と俺の周りに広がった青の陰・・・そっと傘を差し掛けてくれた。

約束もしていなかったのに会えた嬉しさは、寂しさと雨の寒さで凍った身体と心を、温もりで解きほぐしてくれる。頭上と心に覆う厚い雨雲を君が吹き払い、青空を運んでくれたんだと思う。


「香穂子の傘は心が安らぐ、青空を描いているからだろうか。君の小物はピンクや赤が多いから、青色は珍しいな。だが澄み渡った広い青空は、自由な心と音色を持つ香穂子に良く似合う。俺は、好きだ」
「ありがとう、月森くん! 月森くんに好きって言ってもらえて嬉しいな。傘の青空が、ドキドキの赤に染まっちゃいそう。どんよりしがちな雨の日だからこそ、心は明るくいたいなって思うの。青空に雲が浮かんでお日様が照らしているこの傘、一目惚れだったの。月森くん、前に青が好きだって教えてくれたでしょう?海とか空とか。ふふっ・・・思った通り、私よりも月森くんにぴったり似合うよね」
「俺に・・・?」
「えっと、あの。私の大好きな青空はね、月森くんのイメージだなって事だよ。一緒に相合い傘出来たら嬉しいなとか思ってた・・・あっ!その、今のは何でもないの!」


茹で蛸になった顔の前でぶんぶんと手を振り、何でもないと慌て出すが、一度聞こえてしまった言葉を記憶から消すことは難しい。熱く疼く鼓動がトクンと大きく飛び跳ね、鼓動が心のドアをノックする。こんなにも嬉しいと感じるのは、香穂子の傘だから・・・その一つの傘に肩を寄り添わせているから。

あの、あのねと口籠もり、組んだ手を恥ずかしそうに弄りながらも、瞳は確かな光を灯して真っ直ぐ見つめてくる。言葉に出来ないもどかしいさも、一言の小さな箱に詰めきれない全ても・・・伝わる君の想いが嬉しくてくすぐったい。


「俺が青空が好きだと言ったのは、君がいつも空の下でヴァイオリンを奏でているからなんだ。青空は香穂子のようだなと、そう言っただろう? 高く広がる温かな青空に、君を重ねていた・・・だから好きだと言ったんだ」
「月森くん・・・」


ヴァイオリンを慈しみ、楽しそうに奏でる表情。そよ風に乗って吸い込まれる音色・・・彼女の周りに満ち溢れる光の全てが大切で、好きだと思った。青空が好きだという香穂子の言葉が、すとんと心に染み込めば、殻が剥がれて甘い実が現れる。俺が好き・・・そう響く温かな声に、顔へ急速に熱が込み上げるのを感じた。すぐ傍でじっと見上げる香穂子の顔も、あっという間に甘く染まったのは、俺の熱が移ってしまったのだろう。それとも、想いが伝わったのだろうか。


視線と共に重なる吐息も白さを増し、ふわりと空へ浮かぶ雲の綿菓子。胸の鼓動は熱く高鳴るのに、冷たい雨は気温を下げ容赦なく体温を奪う。傍にある温もりが恋しいのに、狭い傘の中で触れそうなのに触れない肩先がもどかしい。手を伸ばせば抱き寄せることも、手を繋ぐ事も出来るのに、あと一歩の距離が遠い俺たと同じだな。触れ合う側で持っていた傘を反対の手に移し替えて、空いた手を香穂子の肩へ・・・そう動きかけた腕を止めるように、香穂子があっと驚きの声を上げた。


そっと抱き寄せかけた腕に気付いたのだろうかと、緊張の息苦しさを伴い駆け抜ける鼓動。冷静に隠している理性を破るように、必死の瞳で俺に飛びつき傘の柄を持った手を両手で包み込んだ。なぜ君は、いともたやすく心の扉を開き、想いの熱に火を注いでくれるのだろう。

包まれているのは手だけなのに、俺の全てが香穂子に包まれている心地良さに、甘い痺れが脳裏を霞ませる。傘の外で白く煙る、雨に濡れた街の景色のように。一瞬力が緩んだ隙にぐっと押されてしまい、持っている傘が反対側である自分へと大きく傾いてしまう。香穂子は満足そうに安堵の笑みを浮かべているが、今度は君が傘からはみ出してしまうじゃないか。


「か、香穂子・・・」
「月森くん! 私にばかり傘を傾けちゃ駄目だよ。ほら・・・傘からはみ出したジャケットが濡れてるじゃない。風邪引いちゃうから、月森くんもちゃんと傘の中に入ってね。ヴァイオリン弾く大切な腕なんだから、冷やしちゃ駄目だよ」
「傘・・・何だ、傘だったのか。心配はいらない、これくらいで風邪は引かないから。・・・っおい! 俺に傘を傾けたら香穂子が濡れてしまう。ほら・・・君だって、はみ出した肩先が雨に濡れてきているぞ」
「駄目だよ、もう〜月森くんの意地っ張り! 月森くんが風邪引いたら、私も困るの。会えないのは寂しいし・・・月森くんのヴァイオリンが聞きたいもの。だから、ね?お願い」


止まりそうなくらいゆっくり歩きながら、互いを気遣うあまり傘を傾け押しつけ合う。右へ左へ、君へ俺へ・・・振り子のように揺れる小さな青空。一度決めたらやり遂げるまで譲らない、強い意志を秘めているから、香穂子が折れるのは容易ではない。そこが良いところでもあり、困ったところでもあるんだが・・・いくら君の頼みでも、こればかりは聞けない。意地っ張りなのは、頬を膨らませている君の方だろう? 


気持は嬉しいが、香穂子が風邪を引いて寝込んでしまったら、俺はきっと自分を許せないだろう。寝込む君が心配で、代わってやれたらと落ち着かない一日を過ごすだろう。何よりも会えないのが、俺だって一番寂しい。そもそもこれは君の傘なんだし、君を雨に晒してまで自分が傘に入ろうとは思わない。俺にだって譲れないものがあるんだ。誰よりも君を大切に想うからこそ。


愛らしく小首をちょこんと傾ける、ささやかおねだりの仕草に心が揺れ動くが、ここは我慢だ。
とはいえ俺が風邪を引いてしまい、君を悲しませるのは避けたい。一体どうすれば良いんだ?


君の瞳を見つめながら自分に問いかけてみるが、本当は答えが俺の中に出ているじゃないか。二人とも傘の中へもう一歩近づき、はみ出さないように収まれば良いのだから。手を繋ぐだけでは少し足りないな・・・もっと寄り添うには互いの肩や腕を、ぴったり触れ合わせて。出た答えは簡単なようでいて、実は一番難しい。
触れたいけれど・・・触れてしまったら、もっと先をと君を求め、止まらなくなりそうだから。


立ち止まっていては駄目だ、と心の中から声がする。
そう・・・必要なのは一握りの勇気なんだ。


動きを止めてじっと瞳を見つめる俺に、香穂子は手を包んだまま不思議そうに見上げている。天から降り注ぐ煌めきの滴が泉になっても、君の心を映す澄んだ瞳の輝きには敵わないだろう。迷っている時間は無いんだ。こうしているうちにも、ワンピースの上に羽織るジャケットの肩が、水分を含み色を変えてゆくじゃないか。


「月森くん、急に黙ってどうしたの?」
「・・・・・・」
「月森くん、寒いの? 大丈夫?」
「寒くは・・・いや、少し寒く感じる。雨のせいだろうか、香穂子は平気か? 心の中は燃えるように熱いのに、身体は冷えて温もりを求めずにはいられない。もう少しこちらへ来ないか。互いに寄り添い合えば、どちらも濡れずに済む」
「ぴったりくっつけば寒くないし、濡れないから風邪引かないよね。でも、これ以上くっつくって事は、えっと・・・」
「君の肩を抱き寄せてもいいだろうか、俺の腕の中に。その・・・嫌だろうか?」
「嫌じゃないよ、凄く嬉しい。一緒の傘に入って歩きながら、近くに感じる月森くんが私の中で溢れそうなんだよ。胸がずっとドキドキしているの」


俺の手を包んでいた両手をそっと離すと、頬を染めてはみかみながら小さく頷き、一歩距離を詰めて俺の懐へと近付いた。服越しに触れ合う温もりが心地良くて、水に湿る髪から漂う爽やかな香りに目眩がしそうだ。

緩めた瞳と微笑みで、今度は俺が君を包もう。引き寄せられ反らせぬ瞳を見つめたまま、傘を持っていない方の手を肩に回す。彼女へ舞い降りた光る雨滴を優しく指先で払いのけ、だが僅かに指先が躊躇うのを彼女からは見えない。
一歩を踏み出す力を送り込み、一度強く拳を作って握り締めると、大切な宝物へ触れるようにそっと優しく手の平で包み込んだ。


初めて触れた君の肩は小さく華奢で、抱き寄せた手の平にすっぽり馴染み、収まってしまう。だが柔らかく温かさに満ちていて、さしかけてくれた傘だけでなく心の中へも、眩しい日差しと青空が広がるのを感じた。二人の道をまだ歩み始めたばかりの俺たちには、少しだけ照れ臭いけれど、傘の中で一歩近づけたのが嬉しい記念日。


次第に緊張も溶けた香穂子の身体も柔らかさを取り戻し、こつんと肩先に感じた心地良い重み。視線を向ければ甘える彼女が頭を肩先へ預けたのだと気が付いた。そんなささやかな仕草さえ、恋人同士なのだという想いが募り、幸せな気持にさせてくれる。


「ねぇ月森くん、傘を持ったまま私を抱き寄せるのは、きっと腕が疲れるよね。あの・・・えっとね、傘を内側の手に持ち直してくれたら、私が腕を組むっていう方法もあるんだけど、どうかな?」
「心配はいらない。ほら、空が明るくなってきただろう? 雲の隙間から本物の青空が笑顔を覗かせている。雨も小雨になったから、もうすぐ止みそうだ」


心配そうに振り仰ぐ香穂子に微笑みを向けると、抱き寄せた肩から一度手を離し、青空模様の傘を閉じた。二人で振り仰いだ空には、雨上がりに立ちこめる水の香りと、絵の具を溶くように広がる青空に輝く太陽。そして微笑む眼差しを交わしたまま、もう一度香穂子の肩を包み腕の中へ抱き寄せた。


例え雨が上がり一つの傘が無くなっても、抱き寄せる腕と寄り添う距離は変わらない。これからも、ずっと・・・。

ゆっくりと同じ早さで歩けば、いつしか互いの歩幅や、踏み出す一歩のタイミングが自然と揃うんだ。共に奏で合うヴァイオリンの音色が重なり、歌う心も見つめ合う眼差しも一つに溶け合うように、揃う心地良さから笑顔も生まれる。
肩先から触れ合う体温と甘い吐息で、優しい光と雨音のハーモニーを奏でよう。