ホットミルク 



ようやく日付を越えた深夜のラウンジは、夜闇の漆黒が余分なものを隠し、見慣れた部屋を広く見せている。だから余計に、張り詰めた静寂を感じるのだろう。だが夜の静けさは嫌いじゃない、庭から差し込む月明かりのスポットライトだけが仄かに照らす、青白い透明な光だけを頼りに、お前と逢瀬を交わす・・・。夜というのは密やかな楽しみが待つ、贅沢で豊かな時間だ。


傍らには寄りそう二つのマグカップ。夜気に漂うのは甘く優しいホットミルクと、微かに溶け込むカモミールの香り。


「あの、千秋さん・・・離して下さいっ.。恥ずかしくて、ドキドキした心臓が飛び出しそうなんですっ」
「離せと言われて、素直に返事をすると思うのか? 元はと言えば眠れないかなでが携帯のメールで、『千秋さん、今何をしていますか?』と夜更けに尋ねてきたんだろうが」
「そ、それはそうですけど・・・。だって、もうすぐ神戸に帰っちゃう千秋さんの事を考えていたら、眠れなくて・・・心の中から溢れた想いが止まらなくて。気が付いたらメールしていました・・・お休み中の所を起こしてごめんなさい」


ほんのり頬を桃色に染めたまま、肩越しに振り仰ぐ大きな瞳は、窓から差し込む月明かりを受け止め、どこまでも澄み渡る。揺れる心を映し、溢れそうなほど切なげに潤む水面に微笑みかけ、溜まった滴を唇で掬い取る。あんまり可愛いことを言うと、キスしたくなるだろう?


ラウンジではいつもソファーが定位置だが、今夜の俺とお前の特等席は、月明かりがスポットライトのように照らす、庭に面した窓際の床。ラウンジの入り口から見てちょうど死角の場所だから、万が一に人の気配を感じてもすぐ見つかることはない。俺の脚へ控えめに座る小日向を、身体を密着させるくらいに引き寄せ、深く座らせ直すと身体と腕の全てで背後から閉じ込め包んだ。

「ここは、お前だけの指定席だぜ?」と耳元に囁けば、夜目にも分かるほど耳朶や首筋が桃色に染まり、くすぐったい沈黙の後でコクンと頷く。心と身体の全てで返す想いが愛しくて堪らない・・・もっと深く抱き締めずにはいられない。洗い立ての髪から漂う、シャンプーの香りに誘われ顔を埋めれば、服越しに伝わる体温と優しい香りに心も身体も癒される。


「夏の今は同じ寮にいるから、会いたいときにこうしていつでも千秋さんに会える・・・。でも神戸に帰っちゃったら、夜に寂しくなっても我慢しなくちゃいけないんですよね。今からこんな弱気じゃいけないのに、会えるうちにたくさん千秋さんを覚えていたくて・・・」
「気にするな、俺も眠れずに起きていた」
「千秋さん・・・も?」
「お前と一緒にこの菩提樹寮で過ごせる時間は残りあと少しだ、貴重な時間を一人で過ごすなんてもったいない・・・そうだろう? 体調管理も演奏家の仕事だ。早く寝ろと言いたいが、今夜は特別だ。眠れないなら寝付くまで付き合ってやる。何なら俺がぐっすり寝付けるようにしてやっても、良いんだぜ?」


肩越しにきょとんと不思議そうに振り仰ぐ、澄んだ瞳へニヤリと微笑みかける。求めるままに甘く耳朶を噛むと、脳裏を焼き焦がす声にならない吐息を零し、薄い布越しに伝わる柔らかな素肌の温度が急に上がる。小さく身動ぎながら前に回した腕にそっと手を重ね、羞恥と快感に耐えるように、力を込めて想いを返す指先。

愛しさを増すごとに、もっといろんなお前を知りたくなる、乱したくなる・・・。
煽るつもりがいつの間にか、俺の方が溺れているんだ。


「しかし、誰もいない深夜のラウンジで逢い引きの誘いとは、なかなか大胆じゃねぇか。俺としては、お前の部屋が良かったが」
「私の部屋は駄目ですっ! 朝まで帰らないだろうし、蕩けちゃうキスの後どうなるかくらい、私にだってわかります・・・。でもその、恥ずかしさと心の準備が・・・。だからラウンジでお話ししましょ?って、メールのお返事したんです」
「俺は別に、どこでも構わないぜ? 音漏れを心配するなら、使われていない部屋が女子寮には山ほどあるだろう」
「そういう問題じゃありません〜。からかうのなら私、お部屋に戻りますよっ!」


レースで縁取られたキャミソールと、脚を惜しげもなく晒したショートパンツ。眠るときの格好そのままで抜け出したとはいえ、少し無防備過ぎるぞ。そんな肌も露わな格好で夜中に俺に会いに来るんだ、食べて下さいと言ってるようなもんだぜ。そう言いながらキャミソールのストラップを肩からゆっくり外し、首筋を辿り降りる唇が肩へと辿り着く。もう片方の手はキャミソールの膨らみを這い、下着を着けていない柔らかさが、手の中で形を変える感覚を楽しむ。

口付けたまま中心の粒を摘めば、甘い吐息を零して仰け反る身体を、深く抱き締め閉じ込めて。脳裏と身体の奥が熱く沸騰するのを、紙一重の理性で押さえるのが・・・正直こんなに辛いとは思わなかったぜ。


潤みを湛えた大きな瞳が慌てて振り仰ぎ、待って下さいとキャミソールの胸を押さえながら睨むのは、頬をふぅと膨らませた真っ赤な顔。横抱きに触れ合う胸の中から俺を振り返り、握り締めた拳でポスポスと胸を叩くが痛みはなく、羽根が掠めているようなくすぐったさと愛しさから、自然と頬が緩んでしまう。それが余計に面白くない小日向は、子供の癇癪みたいに唇を噛みしめ、両脚と腕で背後から包んだ戒めから抜け出そうと必死だ。


「あの・・・ま、待って下さい。ここじゃ、駄目ですっ! 誰か起きてくるとも限らないし・・・その、大きな波に意識が飲み込まれそうで、自分がどうなるか分からなくて・・・」
「驚かせて悪かった。ほら泣くな、機嫌を直せ」
「んっ・・・ふぅっ」


小日向の顔が見えるように膝の上で向かい合うように座らせると、捕らえた腰を引き寄せ抱き直す。頬に、唇に、鼻先や額にと優しいキスを振らせながら、想いを詰め込んだ唇であやすうちに、頬や瞳に少しずつ優しい微笑みが綻び始めた。頬に触れる甘い吐息は理性を焼き尽くすのに充分で、このまま触れていたら、力ずくでお前を抱きたくなっちまう・・・。


「それよりも、ほらっ・・・せっかく温めたホットミルクが覚めちゃいますよ? ね、一緒に飲みましょ? ただのホットミルクだと、千秋さんが子供っぽいっておこるから、ちょっと大人なホットミルクを作ったんですよ。ミルクにハーブのカモミールを煮込んだんです」
「眠れないから夜明かしをするのに、眠気を誘ってどうするんだ。しかもホットミルクと、カモミールのダブルで。そんなに俺へ寝顔を見せたいのか? いいぜ、俺の腕の中で眠るのなら大歓迎だ。お前を部屋まで運んでやるから安心しろ。そのまま朝まで抱き締めててやる」
「・・・あの、えっと・・・」
「眠っているお前に手は出さねぇよ、安心しろ。まぁ運んだ駄賃に、寝顔へお休みのキスくらいはさせてもらうがな」


夜目にも分かるほど火を噴き出し、困ったようにじっと見つめるかなでへ笑いかけながら、フローリングの床へ置いてあったマグカップを手渡した。マグカップを鼻先に寄せれば、ミルクのほのかな甘みと、カモミールの優雅な香りと風味が一つに溶け合い、自然と心が安まる。一口飲めば、適度な甘さと温もりが全身に広がり、いつの間にか頬も瞳も緩んでいることに気が付いた。

膝の上に座ったままのかなでが、吐息が触れ合う近さで俺を見上げ、ニコニコと嬉しそうに微笑んでいる・・・。あぁそうか、心と身体に広がる温もりは、お前の笑顔や音色に似ているんだな。


「ふふっ、気に入ってもらえて嬉しいです」
「・・・ん?」
「だって今、千秋さんとっても優しい顔してたから・・・私だけを見つめているときみたいに。リラックスできて、優しい気分になれて、ぐっすり眠れちゃう幸せな飲み物だって思いませんか?」
「大人の飲み物というから、アルコールでも入っているかと思ったが、ハーブを煮込むとはな。だが、悪くない」
「ミルクにお酒を混ぜるレシピもありますけど、私たちはまだ未成年だから駄目ですよ」


向かい合わせに膝の上へ座りながら、マグカップを抱え持ち、ぷぅと頬を膨らませた上目遣いで睨んでくる。威嚇しているつもりだろうが、この姿勢では余計に可愛さが増すってことを、そろそろ気付いた方がいいぜ。ニヤリと向ける笑みに、からかわれたと感じたらしく、拗ねたように小さく俯くと、唇をすぼめてマグカップへ吐息を吹きかけるのに夢中だ。


「腕の中にいるお前の温もりと、二人で一緒に飲むこの一杯があれば、充分だ」
「本当ですか!? じゃぁ、また作りますね。他にもいろんなレシピがあるんですよ。二人だけで内緒の夜のティータイム、しましょうね。もし寂しくなって眠れなくなったら、一緒飲んだホットミルクを飲みながら、抱き締めてくれるポカポカを思い出します」
「考えすぎて眠れ無くなるよりも、まず行動だろ? 寂しくなったら電話しろ、夜中でもだ。お前のためなら、時間を割いて、いつでも会いに来てやる。ホットミルクとカモミールの安らぎよりも、俺の腕の中の方が、確実に言い夢見られるぜ」


そう言ってカップを差し出すと、目を見開いて振り仰ぐかなでが、満面の笑顔を綻ばせてコクンと頷く。ワクワクと輝かせた瞳で掲げてくるカップを触れ合わせ、眠れぬ夜に互いの温もりを求める一杯を。美味しいと、すぐ目の前で綻ばせる笑顔と触れ合う肌と唇に、崩壊寸前の理性もホットミルクの中に甘く溶けてゆく。

一口飲んだら顎を捕らえ、舌先で薄く割った唇の中へゆっくりと口移しに注ぎ込んだ。唇から甘い蜜を・・・心も身体も、素直な方がいい、そう思うだろう?